2-11-2.広がる殺意と矛先【横山忠雄】
「お母さぁん」
妻とそんな話をしている時だった。
下の娘である里香が間の抜けた声を上げながら食卓へと入ってきた。
「あら、どうしたの?」
佐恵子は立ち上がると里香に近寄り前に屈む。里香はというと、玄関の方を気にしつつ普段見た事も無い不安そうな顔をしている。
何かあったのだろうか。
「チャンチャンコって何?」
突然何を聞いているのだろうか。またタブレットでネットの動画でも見ていたのだろうかと思いつつ、俺もそちらへ視線を向けて耳を傾ける。
「チャンチャンコって言うのはね、うーん、なんて言ったらいいのかな。袖のない羽織……上着みたいな物よ。それがどうかしたの?」
「今来てるお客さんがね、赤いチャンチャンコきせましょうか、って言ってるの」
お客だって?
俺が帰宅した頃は誰も来ていなかった。その後に誰か来たのだろうか。いや、それにしてはインターフォンも鳴っていないし玄関のドアは鍵が閉まっていたはずだ。
それに俺が帰宅してからは、ドアの開閉音も全く聞こえてこなかったぞ。俺が聞き逃したのだろうかとは思ったが、佐恵子も客が来ているという事を認識している様子はなかった。いつの間に来たんだ。
まさか佐恵子が不倫でもしていて、俺が早く帰ってきたもんだからどこかに男を隠していたのか?
化粧品の件からそれを怪しんで隠しカメラを玄関に向けて設置していたが……後で確認する必要がありそうだな。
「え? お客さん? 誰も来てなかった筈だけど……」
佐恵子の方に少し視線を移すが、焦っている様子も挙動がおかしい点も見られない。普通に我が子の言動に心配をする母親の態度だ。
だとしたら違うのだろうか。俺の思い過ごしならそれはそれでいいのだが。
「ううん、玄関に緑色の服を着た女の人が来てるよ。すっごく口が大きいの。今、お兄ちゃんがお話してる」
客と言うのは女か。では不倫ではないか……。
勝手にしていたいらぬ疑いが晴れてほっと胸をなでおろす。そんな俺を横目に、佐恵子が不安気な顔でこちらを見ている。
飯はまだ途中だが、目の前で少しでも疑ってしまった後ろめたい気持ちもある。里香の説明を聞いて俺も少々怖いという感情が芽生えたが、仕方がない。不審人物であるのなら、ここは一家の主である俺が行かねばなるまい。まったく、早く帰宅できたというのに一体誰が水を差してくれたんだ。
「佐恵子、俺が見に行くよ。お前は里香の事を見ててくれ」
里香の話だと相手は女だ。しかし女と言えども、そんな不審な奴を見に行く訳だから一応何か武器になる物を持って行くか。
俺は、不安に顔を曇らせる里香の頭をポンと撫でると、休みの日に日曜大工で使って部屋に置きっぱなしになっていたバールを手にして玄関に向かった。
食卓のある部屋を出て玄関に向かうと、徐々に視界に入る見慣れない人影。
確かに緑色の服を着た女が玄関から入った所に突っ立っている。その緑色の服は見た事がある。近くにある霧雨学園の制服だ。だが何か様子がおかしい。制服の所々が赤黒く染まっている。
何だ? 血か?
それに肌の色も少しおかしいぞ……。まるで死人のように青白い。
顔は俯いていてよく見えないし、だらりと肩が抜けたように垂れ下がった手も何処か変だ。
その姿からは生気がまるで感じられない。まるで、幽霊……。
いやいや、俺は何を考えているのだ。幽霊などいるはずなど。
真治が話をしていると里香は言っていたが真治の姿が見えない。
「……!」
少し近づいて見ると、階段横の壁の影の床に息子の真治が仰向けになって倒れている。
その下には赤い血溜り……。
「うわあああああああああああああ!?」
反射的に声が上がり倒れる真治に駆け寄る。頭の中が真っ白になり今の状況が飲み込めない。不安と絶望が足元から体全体を覆っていく。
嘘、嘘だろっ。
「真治! 真治!」
声を掛けるが返事がない。それどころか、俺がかける声にピクリとも反応しない。
半開きとなった目がただ宙の一点を見つめている。
「ど、どうしたの!?」
俺の声を聞いて佐恵子が、ダイニングから恐る恐るこちらを覗いている。
だが、目の前にある信じ難い光景を目にした俺に、そんな声が耳に入るはずもなかった。




