2-2-2.突然の出来事【山上智】
「な……」
突然現れた人の手に驚き恐怖でうまく声が出せなかった。
美奈子に声をかけようとした瞬間、その手は急激に形を変えた。
手の甲や指の半分くらいまでは肌の様な質感で代わりは無いのだが、指先が薄くなり、鋭く細く伸びたのだ。
薄くなった部分には何本かの節が入っており、まるで金属のような光沢を放っている。それはまるでカッターナイフの刃の様であった。
指でもない、爪でもない。本当に刃物の様だ。美奈子の肩に添えられた手にある十本の指が、外灯の光を反射しカッターナイフの様に鋭く光っている。
「お、おい……」
「ん?」
美奈子は添えられた手に気がついていない様子で、やっと俺の声に反応しこちらに目を向けた。
この手は俺だけに見えているのだろうか。そんな馬鹿な。今まで生きてきて幽霊なんて見た事ない。美奈子が新手のトリックで俺をビビらせようとしているのだろうか。それにしては見える質感が生々しい。と言う事は協力者がいるのか。
数秒の間に様々な考察を頭の中で巡らすも、結論は出てこない。この場の暗い雰囲気に飲み込まれて、恥ずかしながらビビッてしまっているのだ。
そして、現にビビッた俺は、後ろに立っているであろうその手の主の方に視線を向ける事が出来なかった。
「いやー、今回は冗談じゃなくてホントに見えた気がし……」
美奈子がこちらに顔を向け、そこまで言いかけた時だった。
「赤イ………………着セ………………」
よく聞き取れなかった機械音声の様な不気味な声と共に、美奈子の肩に添えられた手が首筋をなぞる様にスッっと素早く後ろに引かれ、闇へと消えていった。
数秒すると美奈子の首に何本もの赤い線が出来ていく。じわじわと肌に広がる赤い染み。それが次第に、プツップツッと玉を作って跳ねて飛ぶ。
血だ。
美奈子の首筋から血が出ている。とてもタネや仕掛けがあるようには見えない。それが飛んできて俺の鼻先についた。液体からは紛れも無い血の臭いもする。
「え?」
疑問の声を上げる美奈子。突然の出来事に、俺の頭の中も「え?」である。
全開の水道の蛇口を下から押さえて水が飛び散る、まるでその様な勢いで美奈子の首筋から大量の血液が流れ吹き出してきた。
本当に突然の事で何がなんだか分からない。勢いよく吹き出た血を身に浴びつつ、俺は呆然として見ていることしか出来なかった。
半開きとなった俺の口には飛んできた血が飛び込んでくる。口の中に広がる鉄の味。生臭さ。
「え? 嘘……? 何、これ? どうなって……ん……」
その言葉を最後に美奈子の体は地面へと力なく崩れ落ちた。虚ろな目、最後の言葉を紡いだまま開かれた半開きの口が力なくゆっくりとパクパクと動いている。指先も痙攣するようにピクピクと動いているが、それも次第に動かなっていった。
「ふうわあああああああああああああ!!?? はひっ!? 何っ!?」
美奈子のその姿を見て、意識もせずに何とも言えない腑抜けた叫び声が洩れ、辺りに響き渡る。そして腰が抜け足が崩れ地面にへたり込んでしまう。
目の前に倒れている美奈子は、血溜りの中に沈みピクリとも動かない。
「美奈子? みなちゃーん? 何? 何やってんの? も、もういいって。 おい、聞いてんの? ここまでやるか? 冗談だよね?」
死んでしまったのか? 一体何が起こったんだ? やはり、性質の悪いドッキリなのか? 仮にそうだとしても、普通ここまでするか? デート中にお気に入りだっつってた服も、俺が買ってやった鞄も赤い液体で染まっちまってるぞ? 洗濯して取れんのか?
様々な考えが頭の中に浮かんできたが、目の前の現実から正解を導き出す事が出来ない。
「赤い赤イ赤い赤イ赤い赤イ赤い。ケタケタケケタ。着セタ着セタ」
地面にへたり込みながら震えていると、不気味な声が聞こえてきた。先程聞こえた声だ。
誰かと思い声のする方を見上げると、横たわる美奈子の傍らに立つ青白い肌をした奇妙な人影が薄っすらと浮かび上がってきた。
肩を落とし、頭を奇妙な角度にまげてケタケタと笑っている。
手先を見ると、さきほど美奈子の首に手を添えていた奴だ。誰だ、誰なんだ。俯いて髪隠れている上に、暗くて顔がよく見えない。だが、その顔が人が作れる形相をしていないのだけは分かる。
見た事のある服を着ている。近くにある学校の制服だ。しかし、僅かな外灯に照らされたその制服は、首にぱっくりと開いた二つの傷から流れ出た血液で、まるで赤いチャンチャンコを着たかのように赤黒く染まっていた。
そして、倒れた美奈子を見下ろし、意味不明な言葉を発しながら小さな声で笑い声を上げている。
「な、なん……」
頭を駆け巡る様々な疑問や恐怖を口から吐き出そうとした時だった。勢いよく頭だけ回り、目の前に倒れる美奈子からこちらに向き直る。
目が合ってしまった。その見開かれて充血した目を見て固まってしまう。
「赤イ、チャンチャンコ、キセ……マショカ?」
「へ? 何?」
人影は俺の返事を待つ事も無く、全身をこちらへ向けるとへたり込む俺に一歩近づき、両腕をだらりと伸ばしたかと思うと一回ずつブンブンと左右に振り回した。
じわりじわりと首筋に痛みが走り出す。手を当てると生暖かい感触。当てた手を見ると手の平は真っ赤に染まっていた。見上げる俺の首からも先ほどの美奈子のように血液が噴出する。
「なんで……?」
血液が俺の体から逃げ出して行くと共に、徐々に意識が遠のいていく。痛みよりも、体から命が抜けていくふわっとした感じが、俺の思考を奪っていく。
視界に入る目の前の人影は大口を開けて笑っている。だが、その声は俺の耳には入らない。頭をカクカクと壊れた歯車のように震わせ笑っている。
俺はなぜ笑われているんだ?
そんな小さな疑問を相手にぶつける事も、もうできない。
真っ赤になった目、鋭く尖り並ぶ歯。人間とは思えない、その一度見たら忘れられない不気味な顔。だが、それは俺の記憶に残る事はなかった。
記憶に残る前に俺の命は……。
なに?
訳分かんねぇ……。
それが、俺の頭に浮かんだ最後の言葉だった。




