1-2-4.獅子瓦建設【七瀬厳八】
最終更新日:2025/2/26
「……カッコ悪いっすよ先輩」
署に戻る車の中、ハンドルを握りながら、情けないと言わんばかりの声で九条が話しかけてきた。
そう、俺は現場検証中に、なぜか御厨緑の父親に制され、失神してしまったのだ。俺だってこの職業に就いて、ある程度体は鍛えているつもりだ。でも、あの父親の馬鹿力は俺の想像をはるかに超えていた。それに、失神したと言っても五分程度だ。その後、父親を何とかなだめて今の所の状況を説明し、後は鑑識に任せて現場を離れた――でも、頭がガンガンする痛みと、血まみれの部屋に漂う冷たい気配が、俺の意識にまだ残っている。
「かっこ悪いもクソもあるかよ……あの馬鹿力、思いっきり首絞めてぶつけやがって……まだ頭がガンガンするわ……」
「すごい力でしたからねー。引き剥がすの三人がかりでしたよ。何やってる人なんですかね。あんな馬鹿力そうそういませんよ。 まぁ、あの現場を見たら無理もないんすかねぇ」
「……彼とは前に少し話をした事があるんだが、獅子瓦建設の法務部で働いてるらしいってのは聞いた記憶がある」
「へぇ、獅子瓦建設っすか。あそこも黒い噂絶えませんからねぇ。昔あった、車の暴走で複数の死者が出たのも獅子瓦建設の役員かなんだかが関わってましたよね。となると、今回は怨恨の線もありそうですね。法務部となると、事件だか事故だかを隠蔽して怨まれてる可能性もありますし」
「そうだな……可能性の一つとしてはあるかもしれないな。今起こっている一連の事件を模倣して家族を殺す。身近な人を殺されるってのは一番精神に来るからな。今回だけ被害者の状況が少し違っていたってのもあるからそういう事も考えられなくは無いが、これはあくまで可能性の一つだ。前に殺された大貫や小枝の件も、はっきりとはしていない以上、決め付けて捜査は駄目だぞ」
とは言ったものの、この推理だと不可解な点も残る。被害者の遺体状況を公表していないので、模倣犯というのが考えにくいのだ――でも、この血まみれの現場に潜む、どこか説明のつかない冷たい影が、俺の心をざわつかせる。冬の十八時を過ぎ、日はとっくに暮れて暗くなり、車窓の外は冷たい闇に包まれている。その暗闇が、血まみれの「目玉狩り」の遺体の影と重なり、不気味な気配を帯びる。
「っすね。でも、僕は遺体を見た感じで思ったのは、正直模倣犯とは思えませんね。今回含めて三件とも同じ犯人っすよ。きっと」
「だなぁ、俺もそう思う。しかしまぁ、あの親父がああなるのもわからんでもない。……御厨さんの亡くなった娘さんなんだがよ、俺の娘の同級生なんだ。去年同じクラスだったみたいだし……俺だって娘があんな状態で発見されたら、多分正常なんて保ってられんさ。それに、無理に振りほどいて怪我させちゃいけないってのも思ったんだが、俺の心のどこかに『俺の娘じゃなくてよかった。他人の子で良かった』って気持ちがあったのかも知れんな……。だから胸倉掴まれた時、どっか後ろめたい気持ちがあって振り払えんかったのかも知れん」
車窓から外を眺める。すれ違う人、追い抜く人、遠くを歩く人、信号待ちで隣に止まった車の運転手。見慣れた町並みが、冬の夜の闇に沈み、冷たい静寂に包まれている。町に灯る街灯の光が、血のように赤く不気味に揺れ、歩く全ての人々が、突然、犯人に見えてくる。もしかしてこいつが、もしかしてあいつが、もしかして、もしかして……。これも、経験のなさが生み出す迷いの一つか――でも、その視線の奥に、血まみれの「目玉狩り」の遺体の影が重なり、闇に溶け込む不気味な気配が、俺の心を震わせる。
「自分を責めることないっすよ。他人の事なんてみんな他人事です。僕だって刑事じゃなけりゃ、お昼のワイドショー見て、この事件知って『あー、また凶悪な事件起こってんなー』程度にしか思わないと思いますし。人ってそんなもんですよ。みーんな、自分の事で精一杯なんす。自分に関係の無い大きな事件を知って、その展開顛末を見て楽しんでるんすよ。関わってない人は娯楽程度にしか思ってないですって」
「お前は、薄情だな。それにお前に諭されてちゃ世話ないな」
苦笑交じりに返事をしておく。
「いつでも相談乗りますよ」
こっちを見て、ニッと嫌な笑みを浮かべる九条――その笑顔が、車内の薄暗い光に照らされ、どこか冷たい手が記憶を操るような不気味さを帯びる。
「アホ言え、お前に相談するくらいだったら課長に相談するわ。余所見してないで前見て運転しろ。警官が現場帰りに交通事故でも起こしゃ、マスコミのいい飯の種だぞ」
署に戻る車の中、窓から外を眺める。視界に映る過ぎ行く町並みが、冬の夜の闇にどす黒く染まっていく様に感じた――その闇が、緑の遺体の血まみれのパソコンの赤い輝きと重なり、理解を超えた何かが町を包むような錯覚に、俺の心が震える。妻と、娘と、長く住んできたこの街が、少しずつ壊れていくような感覚が、胸からこみ上げ、抑えきれず溢れていく。