1-38-6.ありがとうの言葉【陣野卓磨】
「……千登勢ちゃん……私、もう戻れないから……」
はっきりと聞き取れる言葉が伊刈の口から放たれた。
錆び付いた機械の様に頭が上がり、顔をこちらに向ける。
目は前髪で少し隠れて見えづらかったが、その視線が桐生の方に向けられている様に感じられた。
「早苗ちゃん!? 早苗ちゃんだよね!? 私……!!」
桐生が顔を上げて伊刈の方を見た。
「千登勢ちゃん……ありがトウ…………ワタシ、楽しカッタ……生きテて 良カッタ……貴方がイテくれて、本当によかった……」
伊刈の声は、先程までの叫び声が嘘だったかのように、途切れ途切れで弱々しく力がない。
だが分かる。これは伊刈の声、本当の本物の伊刈の声だ。二人が必死に訴える声が伊刈に届いたのだろうか。
「それなら、これからもずっと……!」
「駄目、ダヨ……モウ、お別れ……もう、存在スル 世界が 違うノ……」
「そんなの……そんなの……嫌、私嫌だよ! 本当は早苗ちゃんともっと一緒にやりたい事あったのに! もっと行きたい場所もあったのに! こんな終わり方って、こんな別れ方ってあんまり……あ……ぐすっ……うう……わあああああああ! やだあああああ!」
再び泣き崩れる桐生。正直見ていられない。それは伊刈も同じなのか、視線が桐生のその姿から背けられたように見えた。
「ガ、ア、ア……だめ、だめなのおおお!」
伊刈の様子がおかしい。まさか、完全に意識が戻ったわけじゃないのか?
「き、斬って……キッテエエエエエエ!! おネがい斬っテええええエエエ!! ガガガアガガアアアアアアアアア!」
再びガタガタと小刻みに震えだす伊刈の体。
見ると体中の穴という穴から黒い靄の様なものが僅かに噴き出している。
見ているだけでも、その吹き出した黒い靄が伊刈に渦巻く様々な黒い感情である事が伝わってくる。
その揺れ動く空気に、自身の心が圧迫されるような錯覚を感じさせられる。
「キキキキ……オネガ……キ……テ………………あなたならできるのをしってるあなたならきれるのをしってるあいつのいしきがつたわってきたからわたしにつたわってきたからわたしをかいほうしてみんなをたすけてあげて……キ、キッテ……オワラセテ……」
残された力を搾り出したかのような、とても早口な小さな声。それに呼応するかの様に割れた頭から覗く目玉が四方八方へとグルグルと回転している。
俺には伊刈が何の事を言っているのかさっぱり分からなかった。
「何……? 何言ってるの早苗ちゃん?」
「おねがいおねがいおねがいきってわたしの げんいんをきってきりおとしておわらせて」
桐生の声も余所に、妙な早口で意味の分からない言葉を挟みながら、グルグルと回転していた目玉達を停止させる。
そして、血走った無数の視線がこちらへと向けられ、誰かを探すかの様に無数の目玉がゆっくりと辺りを見回し始めた。そして、その全ての視線が一点で止まる。
「オ・ネ・ガ・イ」
「人の心を取り戻した屍霊に、敬意を払いましょう」
目を向けると、いつの間にか影姫が立ち上がり刀を構えていた。
その視線は伊刈を真っ直ぐに見つめ、どこか悲しみが漏れていた。
「オヲオヲヲオヲヲヲオヲ ヲ・オ・ワ・ラ・セ・テ」
「……御意に……っ!」
それは自我を取り戻した屍霊に、伊刈に対する敬意を含めた影姫の返事。
ザンッ! という肉と骨を断ち切る鈍い音と共に、伊刈の頭が宙を舞った。
渾身の力を振り絞って振り払われた影姫の刀によって首は切断され、切断された首からは黒い憎悪に染まった血とも取れる液体がが噴き出し飛散し、斬られた長い髪がゆっくりと宙を漂い廊下に散らばる。
涙をこぼしながら宙で回る伊刈の頭は、時間が緩やかになったかの様にゆっくりとゆっくりと落ちていくように見えた。
斬られた勢いで、伊刈の眼鏡が耳からはずれ、桐生の目の前に音を立てて落ちる。
「早苗……ちゃん……あ……あ……」
それを呆然と見つめる桐生と天正寺。
ごとん。
伊刈の頭が重い音を立てて廊下に転がった。
その顔は残された髪の毛で覆い隠され、表情を伺うことはできなかった。
「天正寺……サン……」
「な、なに……?」
急に振られて慌てる天正寺、涙をブラウスの袖で拭いながら返事をするも、次々と涙が溢れてくる。
もう伊刈は完全に正気に戻ったのだろうか。切り離された体は黒い血を噴出し終えてピクリとも動かない。
「モウ、誰も 虐めナイデネ……」
「何で……なんでアンタは最後まで人の事ばっか考えてんのよ……っ! 自分が、自分がこんなになってるのに……虐めない! 虐めないから! 虐めるわけない!」
「約束……」
「約束する! 絶対守る!」
力強い言葉で返事をする天正寺。
「ち、とせ、ちゃん……」
「早苗ちゃん……うっ……」
「私の事は、もう、忘れて……新しい、友達と一緒に……新しい……せい、か、つ……」
「やだ! 絶対忘れない! 絶対忘れないから! 早苗ちゃんはいつまで経っても、私の一番仲のいい親友で幼馴染だからああああ! うわぁぁぁーん!」
それを聞いた直後、残され立ち尽くす伊刈の体が手の先から灰のように崩れ始める。ボロボロと少しずつ崩れ落ちていく。
「陣野クン……」
え?俺?
俺なんかあったか?
「光、見えタ……消え……大切……記憶……ミエタ……思い……出した……ありが……と……」
その言葉が最後だった。最後まで元の姿に戻る事のなかった伊刈の体と頭は一気に灰となって崩れ落ちた。光に包まれるでもなく、天に昇っていくでもなく、文字通り粉々の灰となって。そして俺の手元にある伊刈のスマホ画面もプツッと切れ、真っ黒になった。
まさに、一つの命が消えた瞬間。そう感じられた。
一陣の風が廊下に吹きすさぶ。灰となり崩れ落ちた伊刈の残骸が吹き飛ばされ宙へと消えていった。




