アイドルカツドウ……001
血の気の失せた肌のように真白い大地が広がっている。
見上げる月は宝石のように綺麗かもしれないが、触れてみればただ白いだけの土塊だ。過酷な宇宙空間にむき出しの地表は荒れ放題で、これを美しいと思う心をカグヤはとうの昔に失ってしまっている。
すぐ真横にはパイプ状の通路が地平の先まで伸びていて、ここまでやってきたのとは逆方向に辿れば月面都市〈リュウグウ〉がある。
まるで遠い星でも眺めるように目を細めて、
「……そうだ。なんかアイドルをプロデュースすることになったよ」
気密服の中でつぶやく。
〈リュウグウ〉から三時間に近い旅路をたどってきたカグヤ。毎日この場所で二〇分ほどの時間、語りかけるようにしている。
それはたとえばカグヤの身の周りで起きた出来事……とりとめのない話だ。
生徒会長という立場上、話題が尽きることはない。
この日はもちろんあの白いセーラー服の少女――ナギのことがメインになる。
「うまくやっていけるかな、プロデュースだなんてさ。ちょっとだけ心配だよ」
楽しげに話すカグヤだが、少女の話題が尽きるよりも早く終わりは訪れる。
――ピピピ、ピピピ……という電子音。
気密服の内側から聴こえるそれは予め時刻を設定したアラームだ。
「時間か」
カグヤはアラームを止めながら上空を見上げる。降り注ぐ雨粒の断面みたいな星の世界。人工物はどこにも存在しない自然体の星空だというのに、作り物めいて見えた。
「……なぁ、姉さん? 姉さんもそう思わない?」
そう言ってカグヤは上半身だけ振り返って見る。
白い岩肌。延々と、ごつごつと、不格好に伸びている。
応えない大地。思わずちいさくため息を吐いてしまう。
「また……また会いに来るから」
そうこぼし、すぐ近くに停めてある四輪駆動の月面探査車に乗り込む。
ハンドルに手を掛け、
「あぁそうだ。その女の子はさ……」
カグヤは月面探査車の上、振り返る。
「歌が、うまいんだ」
笑顔を浮かべて見せて、プロデュースの依頼を受けた時のことを思い返す。
「わっ……わたしをプロデュースして!」
『外』から〈リュウグウ〉に戻って来たカグヤに、ナギはそんなことを言ってきた。
カグヤは顎に手を当てて考える。
プロデュース。このやたらと白い少女を?
カグヤの視線を受けたナギは肩を丸めようとして、けれど途中で止め、両手を腰に置いて胸を張って見せる。仁王立ちだ、仮にもアイドルプロデュースを依頼しているのだから決めポーズでも取ればいいのに。もっともまぁ、仁王立ち姿にも愛らしさはあるが……
まったくどうしたものか。
ナギの目はまっすぐにカグヤを覗き込んでいる。
真剣な瞳だ。
少しの思案の末、答える。
「いいけど?」
「あらそうざんね……え、あ、……はっ? ……いいわけっ!? アーハン!?」
なんか本人からそんな反応が返ってくる。
なかなかに情緒が安定していない少女だ。
「構わないよ、そりゃ金の卵は歓迎だよ」
いつもの調子で軽口を言う。少女ナギは、
「……あ、…………そう……ヤッタワ…………」
目を泳がせながら、ぎこちなくガッツポーズを作る。
なんかあまり嬉しくなさそうだ。
プロデュース。それは別に構わない。ただ――
「……おれのことはどれくらい知ってる?」
出し抜けにそんなことを尋ねる。ナギは「ふぇっ」と驚いたような声を上げ、
「も、元トップアイドルでっ、生徒会長ってことくらい! 誓って本当! それだけ!!」
半歩後ずさりながらそう答える。
妙な慌てっぷりだ、緊張でもしているのだろうか。
「それだけ知ってるならわかると思うけど……」カグヤは『どう、どう』と暴れ馬をなだめるようなゼスチャーをする。
「生徒会長ってのは結構、多忙でね。今日だって帰ってきたのはこの時間だもの」
拡張視界の中で時刻を見る。
22:52。
「きみは普段、この時間はどうしてる?」
「えと……歯を磨いて……ううん、磨き終わったところだと思うけど」
……えらく具体的な返事。少し苦笑して、
「そういうこと。おれの時間が空くのはこれくらいの時間帯だから、もしレッスンをつけるならその後ってことになる。……寝るの遅くなっちゃうよ?」
まっすぐにナギの目を見つめる。
数秒だけ視線が交差し、やがてナギは視線から逃れるように空を見た。同じようにカグヤも見上げる。合成映像の夜空……
作り物の星明かりの中に一層強く輝くものがある。上弦の月。半分の月は笑うチェシャ猫の口の形にも似ているな、なんてことを思う。
「あの、さ……」
ナギが口を開いた。視線を戻すが、ナギの視線は夜空に向けられたままだった。
「生徒会の仕事、で……そこの壁の中に、入って……るってわけ?」
見られていたか。
……まぁそうでなければここでカグヤを待つ説明はつかないが。
その疑問への答えは厳密には違う。あくまでカグヤ個人の意図だ。
しかし最終的な目的を考えれば……
「そうだよ」
この答えは嘘にはならない。
「壁の中、ってことは……〈リュウグウ〉の舞台裏、みたいなものよね」
「そうだね」
「ドームの重力制御、気候制御、空気循環、そういうのを……点検してる?」
これには首を振る。
「確かにおれはその辺りを司るコンピュータを確認、調整することはあるよ。だけど専用の制御端末は壁の中じゃなくて、都市中枢にあるんだ。だからその質問の答えは、ノー」
「そう……」
吐息のような返事をするナギ。彼女の瞳はおそらく上弦の月を捉えている。半分に割ったような月。カットされたオレンジみたいな月。チェシャ猫の口みたいな――月。
月の明かりに彼女は何を思うのだろう? 生まれてからずっと月面都市の中で過ごしてきた少女は。
「もうひとつ、聞かせて」
ナギは視線を下ろす。まっすぐにカグヤの目を見た。
「壁を抜けて。そして〈リュウグウ〉の……月面都市の『外』に出てるの?」
――そういうことか、と。
カグヤは薄っすらと、彼女――ナギ=シフォン=テラサキの目的に感づく。
まっすぐな目が、雄弁に語っていた。
(都市の外……っていうか〈ルナレイヤー〉の外に、興味があるってわけか)
四三〇〇人の学生だけが暮らす月面の学園都市〈リュウグウ〉の生徒会長、カグヤ。彼が元トップアイドルであることを突き止めたナギは、それが『弱味』になると考えたというわけだ。
それが弱味にならず、蹴躓いて出てきたのが『プロデュースして』という言葉。
もし用意していたのでなく、咄嗟に出たのだとしたら、
(……めちゃくちゃ面白いやっちゃなー)
カグヤは思わず、ちいさく笑ってしまう。
それを見たナギが顔を赤くする。
「なっ……なによっ、わたし、変なこと言った!?」
「いや、ごめん……はは」
変なことしか言ってないだけだが、カグヤはそれを口に出すことはしない。
代わりに、
「月面都市の外、ね。……うん、出てるよ。生徒会長の特権かな」
答えるとナギの目が一瞬、細くなった。彼女は微かに喉を鳴らす。
「…………そうなんだ。ふーん……」
あんまり興味ないけど、みたいな表情でそっぽを向く。
瞳の輝きはまるで隠せていない。非常に分かりやすい横顔だった。
(……もっと、ぐいっと来るかな?)
さすがにこれ以上を語れない。どうやってはぐらかそう、なんてことを考える。
「いいよ。寝るの、遅くなっても」
しかしナギの口から出たのはそんな言葉だった。
顧みずなようで、けれど慎重さも持ってるようだ。
(へぇ……)
関心していると、ナギは手を差し出してくる。
「ん」
「うん?」
カグヤが首をひねると、ナギは手をニギニギとして「んっ!」と唸る。
……ああ、握手しようってこと。
「……オーケー。でも、別んとこで睡眠は取ること。寝るのは重要だからね。いい?」
「授業中がいいかしら」
「生徒会長の前で面白いことを言いやがる」
カグヤはちいさく笑って彼女の手を取る。
ちいさな手。思いの外強い力で握り返してくる。
「ま、よろしく――カグヤ=ウエマツ=マクブレイン」
「あぁ……よろしく――ナギ=シフォン=テラサキ」
ぎらりとした目つき。野心のこもった眼光。
互いに肝心なことは隠したまま、プロデュースという約束が交わされた。
月面都市への帰り道、月面探査車の上で昨夜の出来事を思い返したカグヤ。
気密服の中、その口元は少しだけ緩んでいた。
『外』……この終わりない真白い大地に、この冷たく空虚な星空の下に、興味を示す少女。好奇心と慎重さを持ち合わせた目つきの悪いお茶目な白い少女。
「ナギ、か……」
カグヤはその名前を口にして、やはり少し楽しそうに微笑む。
理由は単純。彼女をアイドルとしてプロデュースするのが――楽しみなのだ。
たとえカグヤの持つ『月面都市の外』に関する情報への関心が動機で、駆け引きのための口実だったとしても……カグヤはナギという少女に月面都市のアイドルとしての可能性を見出していた。
(……歌には光る物がある)
『涙で濡れた夜にやさしい歌をきいて 迎えた朝にすくわれた気がした』
壁越しに聴こえた流行歌。非常に心地よく聴こえた。もし本当に――アイドルとしてのレッスンに彼女が応えてくれたなら。
そう思うとカグヤは楽しみでならない。
かつての自分がそうだったように、彼女は〈リュウグウ〉に知らない者のいないアイドルになれる日がくる。彼女の歌に、ステージに触れた人間はそれを忘れられず、夢にすら見るだろう。そんな資質を持つ少女をアイドル育てる機会が巡ってきた。それが楽しみでないはずがない。
けど、そのカグヤの期待は、彼女の歌を聴いたことに起因しているわけで……歌だけで心を揺さぶるステージを作れるはずもない。
カグヤは懸念する。
(……彼女、きちんと踊れるんだろうか?)
どんなレッスンをすればいいのか。
そんなことを考えながら、月面探査車を走らせていく。退屈でしょうがなかった四輪車の上で過ごす時間。
この日の帰路はけれど、あっという間に過ぎていった。