月面上の少年少女……004
「二〇〇一年冬、日米露三カ国における共同開発によって択捉島に人類初の軌道エレベーター〈クモノイト〉の建設計画が始動。二〇一六年春には試験的な打ち上げを行い、国際宇宙ステーションにて物資の回収に成功。以降の四年、計五二回の打ち上げを繰り返して安全性を確認し、ついには〈クモノイト〉での有人飛行の着手に至った」
……どうもやたらと眠い。睡眠が不足気味かもしれない。
拡張視界に自身のパラメータを呼び出して、バッドステータスの確認をする。オールグリーン、すこぶる健康体だ。ナギは(……おかしいな、こんなに眠いのに)と腑に落ちない気持ちになりながら、ふわああぁ、と大きなあくびをする。
教鞭を振るう教師の目を盗もうともしない、なかなかにふてぶてしい大あくびだ。見咎められることこそないが心象が悪いことには変わりない。事実、ナギのそのあくびを見た教師は眉を微かにひそめる。ただ、まぁ――
「……三カ国間のバランス関係は終始に渡り理想的だった。一九八四年の冷戦終結以降、先進国の宇宙開発事業というのは国にとって金食い虫に他ならなかった。そのために手を取り合った共同開発の関係が上手く行かない理由はなかったというわけだね」
眉をひそめるに留まり、口頭の注意もない。
どんな時代でも、素行に難がある生徒にそれを吹き飛ばすだけの何かがあれば、帳尻はあうというわけだ。
近寄りがたい目つき、姿勢のよさ、はたまた強気な口調などから、クラスにあまり馴染めずにいるはみ出し者気味なナギ。しかし彼女は文句のつけようのない成績を誇っている。
成績優秀。才色兼備であり、知的好奇心を兼ねている。
この日の授業内容に至ってもそんな彼女からすれば退屈な物で、教師の口調はどこか眠気を誘う呼び水めいて聴こえていた。
「無論他国も金食い虫の分野だからと言って未来への投資を怠る理由はなく、EUに中国やインド、中東や南米などの国々でも宇宙開発への関心は高かった。君たちが普段口にしている宇宙食〈ルナレーション〉の前身、栄養と食物繊維を取れる固形食品の加工に成功したのはスイスの食品メーカーだし、君たちの身体を守り人工重力の恩恵を授ける〈レイヤースーツ〉はドイツの医療メーカーから派生し、転じた物。月面都市〈リュウグウ〉の生活そのものが、当時の各国が常に革新技術を宇宙開発に転用できるように取り計らっていた証明でもあるわけ」
心ここにあらず、と言った様相でナギの視線は窓の外に向いている。
合成映像は昼前の高い高い空を映している。とてもあそこに天井があるようには見えない。睨むように見上げ、ナギは自身のウェーブがかった髪を指先に絡め、思う。
(……いつ見ても白々しい空)
いいや、空だけじゃない。
ナギは自身の衣服をつまむ。絹っぽい手触りのセーラー服。
その指先の感触もそうだし、月面で採掘された資源〈ルナニウム〉で建設されてるこの都市その物もそうだ。白々しいの一言に尽きる。
ナギの目に映る月面都市は地球の町並みとそう変わりない物だ。自身の目で見たことはないが、そう『設定』されてることを知っている。
たとえばこの教室の床などは木材でできているように見える。
たとえばグラウンドには芝生が広がっているように見える。
たとえば夏が来れば暑いため薄着になるし、冬が来れば寒いため厚着になる。
ナギは瞳を閉じ、
(ひどい欺瞞)
手の中、セーラー服の裾を握りしめた。
「中でも先進医療の先駆けとして名高い皮下埋込み式の端末は先鋭化を重ね、君たちの第二の心臓であり、第二の脳としてこの瞬間も脈動している」
教師の言葉がナギの思考に重なる。
皮下埋込み式端末――通称〈ナノチップ〉。
月面都市〈リュウグウ〉で生まれ落ちたすべてのこどもの皮下に埋め込まれる。体内の熱を利用して稼働する微小の電子端末は、宿主の生体情報を常にモニターし続ける。
病気の前兆どころか、睡眠不足や運動不足などの身体機能が低下する要因まで見逃すことなく知らせてくれる。地球上でも多くの人達が体内に埋め込んでいるという話だ。
(……モニターするだけなら、別にいいけど)
問題は〈リュウグウ〉の〈ナノチップ〉が、神経に干渉するという点だ。
教室の床が木製に見えるのも、グラウンドに芝生があるように見えるのも、大嘘だ。
そう見え、そう感じるように〈ナノチップ〉が演出しているに過ぎない。実際は都市の八割がルナニウムによって構成されている。当然だ、地球から月面まで木材や芝を運んでくる理由がない。
しかし冷たいルナニウムの質感に囲まれた生活はあまりにも窮屈なのだろう。
ナギは電子メディア化された書籍で読んだ中世期の『船の中』での生活を思い返した。代わり映えのない閉所での生活というのはそれだけで人体へのストレスを高めるという。
想像できない話ではなかったし、そのこと自体には納得できないでもない。
「そうして積み重ねられた宇宙開発の歴史はやがて、水と食料、それから空気以外を自給自足で補えるようになった月面移民を実現する。ここ〈リュウグウ〉のようにドームの中を人工重力が満たし、空気循環システムが稼働することによって、地球上でのそれとほぼ変わりない生活を再現できるため――」
教師の言葉を完全に聞き流しつつ、ナギの思考は沈んでいく。
月面都市での生活を享受する者たちが身につけたテクノロジーの数々。
たとえば〈レイヤースーツ〉……肌に密着するスーツを着用することで、月面都市内でオブジェクト化された衣服を投影し、あたかも様々な衣服を着ているかのように見せる、技術。
たとえば〈ルナレーション〉……固形の保存食に、味と見た目と香りを付加することで、あらゆる食材の質感と食感を再現する、技術。
〈ナノチップ〉というテクノロジーの末に手にしたセミデジタルの世界。月面都市でだけ触れられるそれらの技術に、人は〈ルナレイヤー〉と言う文化の名前を授けた。
月面という人類に適さない世界で、なるほど優れた環境を得たと言えるが――
ただ。
そんな優れた〈ルナレイヤー〉の中、ナギが気にかかることが二点ある。
ひとつは当の〈ルナレイヤー〉をオフにできない点。
もうひとつは行動制限まで設けている点だ。
前者は文字通り。ナギたちは生まれてこの方、ありのままの月面都市を見たことがない。〈ルナレイヤー〉によって覆われた都市を揺りかごに育ってきた。これをオフにすることはできない。
強制的にセミデジタルの世界に生きることを強いられている。
後者はフィルタリング機能に代表される。ビルから飛び降りたり、リニアカーの車線に飛び出したりすることは、偶然であってもできないように設定されている。
ナギはこうした事実に不信感を懐き、憤りと、それから恐怖も覚えている。
(……そういうのって〈ディストピア〉ってやつじゃん)
理想郷の反対の意味を持つ言葉だ。管理の行き届いた、自由のない、窒息しそうになる社会のことを指す。
ナギはこの月面都市〈リュウグウ〉に張り巡らされた強制平和を促す〈ルナレイヤー〉を、そんなディストピアその物ではないかと感じていた。
あるいは月面都市の外に出ることが叶うのであれば、そうした感想は抱かなかったかもしれない。しかしナギは生まれてから十三年、月の大地を踏んだことがない。というのも月面に出るにはいくらかの手順を踏むことが必要で、そのうちのひとつは一八才になることで――
要するに、こどもを月面に出す意図がないと、そういうわけだ。
ナギが不信感を抱くのも無理はない。
彼女の視点からすれば、極端な話――
(――ここが月だって言う保証だって、ないじゃん)
〈ルナレイヤー〉が表示するセミデジタルの世界の中、教鞭を振るう者たちによって教え込まれた知識。ここが月だという大前提を証明する手立てはない。
まずは一八才という年齢になること。それまでは――
(ただ学生やって。ただ生きることしかできない。嘘かもしれない世界の中で。
……んなの、冗談じゃない)
そう考えたナギは、行動した。
月面――『外』に近い人物を探し出し、接触し、話を聞く。
見つけ出すことは簡単だった。
その人物こそあの白銀の髪の少年、カグヤ=ウエマツ=マクブレイン。
この月面都市〈リュウグウ〉の多くを占める学園の、生徒会長だ。