風に遊ばれて……004
グランプリが終わり、カグヤは真っ先にこの場所を目指した。
月の表面——埋まってしまった都市の上だ。幼いカグヤに様々なことを教えてくれた姉のような存在を身近に感じることができる、白銀の砂上。
冥……
十年もの間、現実と戦うカグヤをサポートしてくれた。
抗うカグヤを見守っていてくれた。
そんな彼女のことを想って——カグヤは口を開く。
「——死んじゃってるのかなぁ」
気密服の中、そのつぶやきは誰にも聞かれることなく、月面に解けるようにして消える。
……疑ってはいた。しかし言語化したのはこれがはじめてのことだった。
カグヤはこの十年、他の大人と会話をした覚えがない。
思い起こせば、古い記憶の中、交信中の冥の後ろには慌ただしい声があった。しかしこの所はそれらを耳にすることはなく、ただノイズ混じりの冥の声だけが聞こえていた。
カグヤは想像する。
月の大地に埋もれた都市。
ドームが割れても最深部にはシェルターがある。
空気や備蓄、水分もなんとか凌げるだろう。
……当面のうちは。
その当面の間に、大人たちは何ができるだろう? 抜け出すための方法を導き出し、実行に移す体力は残っているだろうか。
冥は、ある、と言っていた。
そう言ってこの場に訪れるカグヤを元気付けてくれた。
十年その言葉を信じてきたが……カグヤはある可能性を胸に抱いていた。
埋まってしまった都市の中、冥がシェルターに逃れて備蓄で生きることができていて、微弱な電波を月面調査衛星が捉えて、この場所に立つカグヤと交信できることを知ったとする。
カグヤのよく知る冥ならば——
「……自分を模したAIを作ることくらい、する」
なぜか。単純だ。カグヤを絶望させないためだ。
カグヤが〈ルナレイヤー〉の中に希望を満たしたように。
冥という大人だって……カグヤにそうした希望を残そうとしたって……おかしくはなかった。
カグヤは瞳を閉じる。
『……でもカグ君。プロデュースを引き受けたのなら、ちゃんと優先しないとだめだよ?』
『私だって会いたいんだもの』
いくつもの言葉が胸に去来する。
この場所、都市が埋まってしまった場所に足を運ぶことを、窘めるような口調だった。
カグヤは言った。『次はいつ会えるかな』と。
それに冥はこう答えた。『本当にそうだね』と。
どれだけの思いを込めて、冥は、冥という人物を自称する相手は、そう答えたのか。
閉じた瞳が震える。
胸を感情の奔流が満たす。じっと堪える。
それからぽつりと、カグヤはこぼした。
「…………ありがとう」
大切な場所に背を向ける。
次はいつ来ようか?
あまり時間が空かないうちに、訪れることができればいいけれど——
「それじゃあ、また。会いに来るから」
そう言って。
カグヤは埋まってしまった都市を後にするのだった。
十年前と比べ、ずいぶんと大きくなった背を向けて。
「おっそいわよバカ」
〈リュウグウ〉に戻ってくると白いセーラー服を着た少女からそんな言葉を受けた。この日も別に待ち合わせとかはしていない。ナギがただ勝手に待ち構えていただけである。
カグヤは「えぇ……」という顔を向ける。
ナギは両手を腰に当てて仁王立ちし、
「寝ちゃうところだったじゃない。肌が荒れでもしたらどうするの? 責任取れるの?」
当然と言った様子でそんなことを言ってくる。
カグヤはすっかり普段通り……いや、より威圧的かもしれないナギに苦笑し、
「少しくらい弱点が合ったほうが可愛げがあるってもんじゃない?」
さらっと軽口を叩く。
「可愛げとか、バカみたい。……バッカみたい」
なんか顔を赤くして視線を逸らすナギ。適当に言ってるだけなのだが。
ますます苦笑し、けれどカグヤはそんなナギに、
「……ごめんな、勝手に同じステージに立ったりして」
そう言う。
ナギがどういう気持ちでグランプリのステージに立ったか、カグヤにはわからない。
けれど月が直面した現実を知った上で立つということ。きっと勇気が必要だったはずだ。もしかしたら、ひとりきりで臨みたかったかもしれない。
ナギはきょとんとして、首を振る。
「……見てたじゃん。わたし、ひとりじゃ歌えなかった」
出てきたのはそんな素直な言葉だった。
一時ステージの上で声を失っていたことを言ってるのだろう。
「そうだね。でも歌えただろ、客席から風に押されてさ」
「……うん」
その時のことを思い返しているのか、ナギの表情が穏やかになる。
「すごかった。吹き飛ばされちゃうって、そう思った」
「声で?」
「声で。それくらい、すごかったの」
そう言うとナギはちいさく笑う。カグヤはその純粋な笑顔に笑い返す。
仲のいい兄妹みたいに白い歯を見せ合った。
ふたりがそんな無防備な笑顔を向け合うのは、この瞬間が初めてのことかもしれない。
「……きっとあんたの……、……だったから……」
ぽつりと。ナギが呟いた言葉を、カグヤは聞き逃す。今なんて? とそう尋ねようとするも、ナギはカグヤに背中を向けて遮って、大股で数歩。
それから振り返って、
「ね。お願いがあるの」
そんなふうに切り出す。
「……お願い?」
カグヤが尋ねると、ナギは両手を頭の上に置いてつき立てて見せる。
猫耳のつもりか。
「わたし、けっとしぃとユニットを組みたい」
そんなことを口にする。
両手で作った猫耳をぴょこぴょこと動かし、
「けっとしぃもオッケーって言ってくれた。きっと楽しくて、すごいユニットになる」
力強く、そんなふうに言う。
カグヤはふたりが同じユニットでステージの上に立つ想像をしてみる。
方や白い衣装でまだぎこちないステップを刻み、天上の歌声を響かせる少女。
方や猫耳をぴょこぴょこと動かし、見てる人間から笑顔を引き出す少女。
チグハグで、デコボコで、けれど——ピッタリとハマり合っているように思えた。
(……ふたりで決めたんだな)
不足を補い合い、しかも最高に楽しい日々が待つ……そんなユニットになる。
少女たち自身で見つけられたことが嬉しくて、誇らしくて、少し寂しかった。
「それでね。お願いっていうのは……」
ナギは頭上の両手をぺたんと伏せて、
「……わたしたちのプロデュースを、してほしいなって」
カグヤは息を吐く。あぁ——そうか、と。
ふたりのちいさな確執はそこを落とし所にして——決着を迎えたのだ。
きっとそれは最高の結末だった。
それ以上の和解を想像することができなかった。
けれどカグヤはちいさく肩をすくめる。
「なんだ、そうしたのか。ちょっと無駄になっちゃったな」
「? ……無駄って?」
心配げな視線がカグヤに向けられる。
「『外』に行くの、控えることにした」
「え……」
「それで浮いた時間を使って、ナギのことも、けっとしぃのことも……見ようって」
それがカグヤの出した答えだった。
毎夜毎夜、欠かさずに行っていた『外』への時間を、ナギたちや〈リュウグウ〉に向ける。そう決意し、カグヤは『外』から帰ってきた。
口をパクパクさせるナギ。カグヤは歩み寄って、その頭の上に手を置く。
「いいんだ」
それだけ言うと、ナギの表情が和らぐ。
「……そっか」
「そうだよ」
答えると、ナギは不敵に笑う。
「ふん……ちっとも無駄にさせないわよ。わたしたちはライバルだもの」
たとえ同じユニットだとしても、互いに競うことを忘れないと、そう言う。そうやって、ひとりでも多くの人間を虜にしてみせると。笑顔にしてみせると、ナギはそう言うのだ。
カグヤは笑って、ナギの頭に置いた手を左右に揺らす。
「む……こども扱い……」
不服そうな声。けれどカグヤが撫でる手を止めようとはしない。
なでり、なでりこ。
しばらくそうしてから手をどける。
あまりにも無垢な瞳がカグヤの目を見ていた。
「……………………」
不意に。
カグヤの心臓が、強く強く、トクンと脈打つのを感じた。
(? ……なんだ?)
一応、拡張視界の中、健康状態を呼び出す。極めて良好、健康体だ。
(でも……動悸が……なんだろう、これ)
自己主張でもするように、カグヤの心臓は早鐘を打ち始める。
トクン、トクン……と。
「? なぁに?」
戸惑いが顔に出てしまったのか、ナギが首をかしげる。
「今、心臓が脈打った」
素直にそう答える。
「え……どうして? まさか身体が悪いの?」
「健康だよ。……わからない。ナギを見てたら、なんか、鳴った」
「……ほんと? 本当に?」
頷いて答える。ナギはどうしてか、ちいさく笑った。
「そっか。……そっか、ふーん……へんなの、クスクス……」
そう笑うナギの顔は、かすかに赤くなっていた。
どうしてか、まっすぐに見ていられなくなって目を逸らす。
理由なく居心地が悪い。カグヤは「あー……」と誤魔化すように口を開く。
「……そういえば、グランプリを見てた人数、がさ」
顎に手を当てて、
「おれが設定したキャパを、遥かに上回ってたんだ。演出じゃなくてね」
「……え?」
誤魔化すつもりで口にした言葉だが、答えの出せない現象だった。
月面都市〈リュウグウ〉に暮らす意識の数は四三〇〇だ。仮に自覚あるAI……教師などの存在を合わせても五〇〇〇に満たない数。
けれどあの瞬間……ステージから見回した時、
「客席は、満席だった。……万規模の収容ができる客席が、だよ」
それが何を意味しているのか。
仮説は立てられる。証明手段は、失っているけれど。
ナギの表情が、驚愕に染まる。
「——別の、月面都市から……」
カグヤはもう一度、ナギの頭に手を置く。
確かめる手立てはない。
だってパイプ状通路の埋没によって、交信手段を失っているから。
けれど……カグヤは言う。
「忘れちゃいけないよな。アイドルって、見守られてるから成り立つんだ」
「……そうだね。だからこそ」
「笑っていないとな。人を笑わせるために」
そう言ってナギの頭を撫でた。
ナギはしばらくしてから、カグヤの手を離れて正面に躍り出る。
「でも、」
いたずらを思いついたような笑顔。
「それって、他の月面都市『だけ』かな?」
質問の意図がわからなかった。
カグヤが首をかしげて見せると、ナギは「クス……」と笑って、
「わたしたちの歌、どこまで届いたかなぁ?」
合成映像の星空を見上げて、言った。少女の見つめる先には合成の月があった。
夜空を見上げながら、真白い少女は笑っていた。
言葉の意味するところはわからない。
けれどその笑顔だけで、カグヤは満たされた気持ちになった。
だから笑った。
しばらく笑ってから、歩きだす。
何を言うでもなく、ナギは横に並んで歩きだす。
ずっとそうしてきたみたいに、歩調はしっかりと揃っていた。
少し歩いて、ナギが口を開いた。
「ね、カグヤ。もしもさ……」
ナギは視線をカグヤに向けて、
「確かめたくなったら、いつでも言ってね。わたしがついてるから」
そう言った。
「……………………」
思わず立ち止まる。
前を行く形になるナギが立ち止まる気配。カグヤは視線を落とす。
……ヘリウム3という資源を利用した核融合炉のエネルギーがあるのに、時速一八キロしか出ない前時代的な月面探査車の他に月面を駆る方法がないこと……
作れたであろう、より高度な月面行動ができる乗り物を作らないでいた、その理由……
ルナニウムの採掘に使う重機を改修しないでいた、カグヤの真意……
カグヤに残った一握りの臆病さを、少女は察した様子だった。
だから彼女は言った。確かめたくなったら、と。
——確かめる。
その言葉に、その言葉の示す行いに、カグヤは足がすくむのを感じた。
カグヤは想像する。埋まってしまった月面都市を確かめに行く日のことを。
身震いする。あまりにも怖くて。
けれど、
——わたしがついてるからね。
けれど新雪のような月面の大地に刻んでいく見えざる足跡が、ふたつなら……
カグヤは顔を上げる。
口にした少女は二歩分だけ先にいて、穏やかな笑みでカグヤを見ていた。
年上の少女を見るような……そんな気持ちでカグヤは頷いて、
「うん……」
なんとかそう口にする。ナギはやっぱり「んっ」と微笑んで答えた。
ふたりなら。ナギと共になら——いつかその勇気が持てる日が訪れるかもしれない。未来へ思いを馳せながら、歩みを再開する。
「カグヤはさ、」
歩みを止めることなく、ナギが言う。
「カグヤは自分の名前、好き?」
歩みを止めることなく、カグヤが答える。
「好きだよ。そういうナギは?」
尋ね返すと、ナギは駆け出す。
数十歩分だけ離れてから、少女は振り返る。
「おしえない!」
満面の笑みで、ナギはそう答えた。
カグヤは苦笑しつつ、もう一度、人工の夜空を見上げてみた。
月が綺麗だった。




