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月面上のアリア  作者: 七緒錬
第五章 風に遊ばれて
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風に遊ばれて……003

 ……どんな時代であっても、大人というものは、こどもに対して勝手な期待ばかりを寄せる。月で初めて生まれた最初の人間であるカグヤへの期待値は並外れたものではなかった。


 月面都市の大人はほとんどが何かしらの道のプロフェッショナルだ。学ぶ相手に事欠かず、月が降り注ぐ流星雨を観測する頃には健康管理の為に埋め込まれた〈ナノチップ〉に干渉して拡張現実を操ることだってできるようになっていた。


 技術の向上に対し、心の方も上手く育つことができた。

 AIと、それから何かとカグヤを気にかける少女、冥の存在があったためだ。


 冥。情報工学のエキスパート。地球で飛び級を重ねて月面移民計画に参加することになった。彼女自身も息苦しい幼少期を過ごしていたという。一般家庭に生まれついたギフテッド――想像に難くない。


 そんな彼女だからこそ期待だけを抱かれるカグヤに親身になってくれた。実の母よりも冥に抱かれた回数の方が多いかもしれない。彼女のおかげでカグヤは健全に人間性を育んでいくことができた。


 だからだろう、月に訪れた過酷な現実に対しても向き合おうと決心することができた。自分より幼いこどもたちが健やかに育てる場所を維持しようと、そう誓うことができた。


 カグヤはその孤独な決心の中、自分自身の中でひとつ、約束を決めていた。

 自分のところまでたどり着く誰かがいたら、すべてを明かそうと。


 逆に言えば、自分のところにたどり着く者がいなければ――カグヤはその秘密をずっと抱え続けていくと、そういう覚悟でもあった。


 実際、結局は十年もの間、たったひとりでその大きな秘密を背負い続けてきた。

 ……カグヤはそれに耐えられると思っていた。


『想像してるよりもずっと、失うものが多いよ』


 月の大地に埋没した都市の中から、冥はそう忠告してくれていた。


 失うもの……

 それはたとえば、無垢でいられる時間のことだった。


 現実を秘めて〈ルナレイヤー〉たる仮想現実の調整に根を詰めるカグヤ。そんな彼の気など知らずにすくすくと育っていくこどもたち。傍目に見ながらカグヤの心はどうしてか、ギシ、という軋むような音を立てていた。


 年を重ねてから、その音の正体に気づいた。

 ――大きな秘密を引きずることに耐えかねた心の、悲鳴だったのだ。


 模範生たろうと背筋を伸ばして生きてきたカグヤの心は上手に傷つくこともできず、錆びついた機械の内蔵があげるような不細工な音でしかその痛みを訴えられない。


『失うものが多いよ』


 自分が失っていたもの。両手で拾えきれないほどあった。


 そのひとつは上手な傷つき方。

 そのひとつは傷ついたことに気付くだけの神経。

 そのひとつは後悔という言葉の実感。


 失って久しい『後悔』という言葉を思い出させたのは、白い少女だった。

 不器用にカグヤの正体を、月面都市の秘密を知ろうと、接触してきた少女。


『外で何を見て、どんな目にあっても……あんたを責めたりしないって、約束するから』


 ――自分のところにたどり着く誰かがいたら、すべてを明かす……かつて誓ったその役を、果たす時が来たのだと思った。


 だから話した。

 沈黙した地球。大人たちを飲み込み埋没してしまった月面都市。残った〈リュウグウ〉で、心を健やかに育っていってもらう為に生み出したAI……


 ナギという少女の心は強く、その現実にも耐えられると思った。

 耐えられなくても――自分が支えてやればいいと、そう思っていた。


 けど現実を伝えた日の帰り道、カグヤの心にはただ、ずしりとした気持ちだけが残った。四輪車の隣に座り込んだ少女の横顔は見えない。気密服のせいだ。けれど沈んでいる雰囲気は感じ取ることができた。ヘルメットを合わせて何かしら声を掛けてやればいい――


 カグヤの理性はそう訴えたが、実際には何も口にすることなく〈リュウグウ〉に帰り、それから二週間近くも顔を合わさずに過ごすことになった。毎夜レッスン室に向かい、大鏡の前で座り込んで、無為に時間を消費する日々を送った。


 大鏡に映るジャージ姿の、長い銀髪の少年。その表情が形作る感情のことをなんと呼ぶか……カグヤは長らく思い出すことができなかった。


 その正体こそが『後悔』だ。

 カグヤの口から、月が直面した現実を耳にした時のナギの顔。どんどん曇っていった。最後には月のような顔色を浮かべていた。


『全部嘘だよ』と、そう言ってあげられたら、どんなによかったろう? けれどカグヤはそんな嘘を言うことはできなかった。真実以外なにひとつ、口にすることができなかったのだ。


 真実以外の何か。やさしい言葉。彼女の心に寄り添う言葉……なんだって良かったはずだ。告げられれば、きっと少女の心を癒やすことができたはず。


 なのにどんな言葉も出なかった。愕然とした。まるで幼いこどもに知識だけを詰め込んで、いたずらに歳を重ねたような……そんな不出来な自分自身に気づいてしまった。


 レッスン室の大鏡の中で『後悔』の表情を浮かべる自分を見ているうちにカグヤは思い返していた。つい先日までその大鏡の中に映っていた少女のことを。


『外』のことに興味を持ってカグヤに近づいてきたナギ。彼女は果たしてどんな気持ちでカグヤの側に立っていたのだろう? どんな気持ちでアイドルとしてのレッスンを受けていたのだろう。想像することは難しい。


 けど……ひとつだけ、判ることがあった。

 それはナギがはじめに思い描いていたであろう計画とは、まるで違うということだ。


 元トップアイドルという過去を持つカグヤの、弱味を握ったつもりでいたナギ。彼女はアイドルランクを上げるためのレッスンなんて望んでいただろうか? きっと望んでいなかったはずだ。にも関わらず一週間という時間、彼女はこの大鏡の前で努力を重ねた。


 めげない少女だった。転んでもタダでは起きない少女だった。

 このレッスン室でそんな少女と共に、短い時間を過ごしたのだ。


 短くて濃い時間を。


「――――――――」


 やがてカグヤは――立ち上がる。

 拡張視界で日付を確認する。グランプリ当日の早朝だった。


 大鏡の中で銀髪の少年が口を開いた。


「……失ったものは、まず失ったことに気づかないと、取り戻そうと足掻くことさえできない。それはどうしようもないことだけど……でも逆に言えば、気づくことさえ、できたなら」


 遠い月面都市の、月の砂の下にいる少女から授かった言葉の真意……


「取り戻すことができるものって、意外と多い。教えてくれようとしたんだ、冥姉さんは」


 ナギという少女の姿を思い返して、そして気づくことができた。

 取り戻そうと、そう足掻くことができること。


「取り戻そうとすることは、絶対に間違ってはいないはず。……そうだよね?」


 心のどこかに晴れ晴れとした気持ちを懐く。カグヤはレッスン室を後にしてイベントスペースに向かう。ナギは今もひとりで過ごしているのだろうか? だとしたら、


「おれを責めろよバーカ、って言いに行かないとな」


 軽口を叩く。


 もしもナギがグランプリに現れたら、その時は……

 少女がめいっぱいの勇気を抱けたなら、その時は――


「――次はおれの番。失った物をひとつ、取り戻してみようかな」


 つぶやいた声は誕生日を迎える少年のように、微かに弾んでいた。



  ***



 ナギは目を細めてステージに上がった存在を見た。


 黒いドレスに散りばめられた煌めきはいくつもの星座をあしらっているようで、ステージに降り注ぐ光を受けてキラキラしている。月のように神秘的な輝きを秘めた銀色の髪は、まるで発光してるみたいに中性的な顔に浮かぶ微笑を輝きで包んでいる。


 長らく姿を消していたトップアイドルの登場に、観客が静まり返る。


 カグヤ――――

 なぜステージの上に。

 疑問を抱いて、けれどすぐに感情が掻き消した。


(……そっか。また立ってくれるんだ、ステージの上に)


 穏やかな気持ちがナギの胸中を満たしていた。

 カグヤは歩み、そしてナギの隣に立つ。

 目が合った。


「……………………」

「……………………」


 どちらともなく、ちいさく笑いあった。

 言葉は必要なかった。

 歌だけがあれば、それでよかった。


 ふたりは口を開き、奏であう。

 かつてカグヤが残した流行歌を。

 ふたりの出会いに色濃く残っている流行歌を。


 万という人数を収容できる客席は、ただただ、ふたりの歌を聴き入った。

 曲の終盤になると、一緒に口ずさんでいく。

 歌はどこまでも響き渡っていく。


(――もっと)


 ナギは連なる風に包まれながら、思った。


(ずっとずっと、ずぅっとこのまま、歌っていたいなぁ――)



 月面上のアリアは、そうして奏でられた。

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