風に遊ばれて……002
「みんなありがとにゃー! にゃーたちの王国はもうすぐそこにゃ! おまえも猫の国の民にしてやろうかにゃ!! にゃー!」
スタジアムを歓声が包む。けっとしぃのステージは大成功だ。
客席には笑顔以外の表情は見つけられない。
……もういつランクアップを果たしてもおかしくはないだろう。
そう確信できる見事なステージだった。
関係者控室の中、カグヤはそんな感想を抱いていた。
「……………………」
舞台袖に消えていくけっとしぃを見送る。
それから拡張視界に出演者リストを呼び出し、ステージ順にソートする。けっとしぃのすぐ真下にずっと気にかけていた少女の名前があった。
レッスンをサボり続けた、不肖の弟子の名前が。
「……………………」
拡張視界の中、管理者権限で都市中の中継映像を呼び出す。
イベントスペース。会場。客席。ステージ。楽屋前。順繰りに見ていく。
ステージ裏の通路の中に、その真白く着飾った少女の姿があった。
ナギ。
数日ぶりに見る少女の姿。表情は緊張しているのか青ざめているが……とにかく姿を見ることができた。カグヤは、ほぅ、と安堵の息を漏らした。
少女の足はステージに向かって歩んでいる。
歌うつもりなのだと、そうわかった。
それを見たカグヤは、曲目リストを表示する。
彼女が歌うのは二曲。
「……間に合うかな」
そう呟いて、カグヤは関係者控室を後にする。
***
グランプリのステージ、持ち時間で歌えるのは二曲だ。
ナギの持つ唯一の持ち歌である『G線上のフルムーン』を後に回し、一曲目はカグヤの曲をカバーして披露するつもりでいた。
カグヤのその曲は慣れ親しんだ曲だ。どんな時だって歌える、そんな自信がある。もしかしたら心のどこかでこう思っていたのかもしれない——カグヤの歌を届けたい、と。
……あるいは、カグヤの力を借りたい、かもしれない。
(どっちも、かな)
いずれにしてもナギの心は今、少年の歌と共にある。
心強さと同時に感じるのは、
「ひどいプレッシャー、かな」
ステージに続く道を歩みながら、ちいさくぼやく。
と。
「にゃ」
ステージの裏。自身の番を終えた、けっとしぃの姿があった。
デジャヴ。昇格フェスの時と同じだ……ステージに上がるナギを待ち構えるけっとしぃ。あの時は結果的に発破を掛けてくれたが、今日は果たして。
「…………」
無言のまま、その猫耳の少女は片手を挙げてみせる。
無言のまま、ナギはそれに倣う。
すれ違いざま、手を交わす。パチン、と快い音が立った。
……言葉なんて何一つ残すことなく、けっとしぃは楽屋へと引き返して行く。
ただ、けっとしぃの手のひらに篭った微熱を……ナギはしっかりと受け止めた。
一度、立ち止まる。
深呼吸。
肺に酸素が満ちる。一緒にステージの熱気も落ちてきた気がした。
「……行こう」
白いドレスをはためかせ、ナギはステージに上がる。
期待のアイドルというランクに上がったナギ。観客はステージ衣装に身を包んだナギを見ただけで歓声を上げる。関心度が高いというのはこういうことなのか、と勝手の違いに戸惑う。
……どこかでトリトンやイオは見ているだろうか? もらったメッセージに返信することもなく、そのくせにステージには立つナギの姿を。……終わったら謝らなくちゃ。
「……、…………」
ぺこっ、と頭を下げる。それだけでちいさな拍手が起きた。
姿勢を正してまずは一曲目、カグヤの曲のカバーだ。この曲はサビのメロディのアカペラから入り、そこにオケが加わる形でイントロが始まる。
「すぅ……」
しん、と静まり返ったステージの中。
まばゆいライトの下でナギはひとつ深呼吸をする。
最初の音を紡ぐため、口を開いて——
「——、————ぁ————、————」
——か細い吐息がこぼれ落ちた。
肺に音を置き忘れてきたかのように、言葉を乗せて紡ぐはずの声は、出てこなかった。
(……!? も、もう一度——)
そっと息を吸って、歌詞を思い浮かべ、メロディに乗せて紡ごうとする。
けれどただ……熱い吐息に唇が震えるのみ。
音は出ることがない。
(なん、で……)
もう一度、試す。肺に空気を落として、口を開く。
ただ空気だけが漏れていく。
もう一度、もう一度、もう一度——
「——、————っ、————!」
何度も試す。けれどだめだった。喉の奥が震える感触だけがある。
……客席がざわめき立つ。
出ない声を絞るナギの姿。どう見えているのか。
(早く、歌わないと……早く!)
咳き込みそうになりながら、咽そうになりながら、ただパクパクと口を動かす。
呼吸が浅くなり、歌ってもいないのに息が切れはじめ、身体中に珠のような汗が浮かぶ。
(どうして……どうして!)
何度やっても同じだった。
歌い方を忘れてしまったように……声が、出ない。
パニック寸前で拡張視界の中、身体的な異常を示すアラートを探す。
……正常。
(そんな——)
原因不明の失声。ひゅう、という悲鳴のような吐息が漏れていく。
ナギは、心に穴が空いたような気持ちになった。空いた穴から月の表層を満たす果てのない冷たさが忍び寄ってきた気がした。
(歌うことすら——できないの?)
不意に、気づいた。
歌がなければ……ナギがこの場所に立つ意味がないということ。
歌えないアイドルなど誰の力にもなれない。
それはまさしく……今のナギその物だと気づいた。
月を襲う現実を、それを一身に受けるカグヤの姿を知って、何もできない。
せめて歌おうとしたって、それすら——叶わない。
なにもできない……なにも……!
「う、……ぁ…………」
視界が滲む。瞳を灼熱の熱が覆っていく。
涙を浮かべたまま、立ち尽くす。
……むかし、ナギ、という名前の意味を調べたことがある。
日本語の『凪』に由来するのだと判った。風が止んだ状態をそう呼ぶらしい。
それを知ったナギは自分の名前にひどい嫌悪感を抱いた。だって月に風はない。常に凪いでいる宇宙の中、自分の名前は嘘のようだと、そう思ったのだ。
そしてこの時、ナギはステージの上で立ち尽くし——凪いでいた。
凪とは、どうしようもなく無力で……ひどく悲しかった。
(……下りよう)
客席に背を向けようとした、その時。
——満ち欠け繰り返す光の庭で
歌が、聴こえた。
顔を上げる。客席からだ。
——あなただけを待ってた満月に戻るその日まで
G線上のフルムーン。イオが作曲し、ナギが作詞をした曲。
たった一度だけ歌っただけの曲。それなのに……
『光の庭で あなたを待ってた』
ひとつだけだった声が、瞬く間に——ハーモニーに変わる。
即席の合唱。たった一度だけ歌った曲を……ナギが短い時間の中で作った詩を——
(……ぁ……)
覚えて、くれたのだ——アイドルに憧れる月の少年少女たちは。
(あ……、あ……)
ステージライトが眩しい。思わず目を細める。その端に雫が浮かんだ。
光射す庭の中、ナギは知った。
(月にも——風は、吹くんだ……)
月面上に吹く風とは、声なのだ。
ナギは今、幾千の風に包まれている。やさしい風に吹かれている……
「ナギさん! がんばって!」「あたしたちもついてるっすよ、ナギ!」
ナギの名前を呼ぶ声。そちらを見ると見知った顔を見つけた。
トリトンにイオ。来てくれていたのだ、返信もしないでいたナギのステージを。ふたりも声を合わせて合唱に加わる。
……それは月で暮らす人々を歌った歌だ。
本当の太陽や本当の地球、それどころか本当の宇宙を見たこともない少女たち。
けどそれでも、人の心だけは、地球を満たす日光のように……
満月の中には、満ちている。
満ち欠けを繰り返しても、いずれ必ず満月に戻る。
そんな光射す庭の歌が、客席中から響いている……
——誰もが輝けるアイドル文化。
これじゃあどちらが客席なのかわかったものではない。
「クス」
どれくらいぶりか。ナギは自然と笑顔を浮かべることができた。
胸中を確かめてみる。
凍えそうだった冷たさは、吹いた風によって拭われていた。
今なら歌えるだろうか。
ナギの声は奏でることができるだろうか。
大切な歌を——
(きっと歌える)
理由も確証もない。けどそう確信することができた。
「…………すぅ、はぁ…………」
ちいさく、深呼吸。
……これから歌うのは、ナギの為に生まれた曲ではない。
幾千の声たちが紡いでくれた曲とは違う。
この月面都市〈リュウグウ〉でもっと前から歌われていた曲だ。トップアイドルが歌った、一昔前の——流行歌だ。
(風の勇気をもらえた。今度はわたしがみんなに笑顔を返す——カグヤの歌で)
そのことが、ただただ嬉しくて——
知らず、その白い少女はステージの上で天使のような微笑みを湛えていて。
客席はその少女の表情に呑まれたように、合唱を止めていた。
しん、と。
凪いだ月面都市の中で、ナギは口を開く。
そしていま一度、声を出そうとした、その瞬間だった。
『涙で濡れた夜にやさしい歌をきいて 迎えた朝にすくわれた気がした』
……ステージに響き渡ったそれは、一昔前の流行歌。
けれどナギの口から出たものではなかった。
息を飲んで、そして振り返る。
光の中——トップアイドルの姿を、見つけた。




