風に遊ばれて……001
ナギはしばらく学校を休んだ。
レッスンに行くこともなかった。
ただ無為に時間だけが流れた。拡張視界の中、届くメッセージに既読マークをつけながら、何をするでもなく自室の天井を見上げていた。一度人気のない時間にモール街に出て、加工前の〈ルナレーション〉を仕入れた。空腹を感じたらそれを口に運び、咀嚼し、嚥下し、満腹感に虚しさを感じ、眠りにつく……
不毛に何日間かの時間を過ごした。
ある日目を覚ましたナギは、身を起こして自室を見回した。
長い時間を過ごしてきた寄宿舎の一室。本棚の上に置かれた少女らしい仮想オブジェがナギの視線に応えた。
「……………………」
〈ルナレイヤー〉を外した自室を想像した。四方をルナニウムに囲まれた冷たい部屋を。
それはナギを囲う監獄のように思えて……ひどく息苦しくなった。
……一度想像してしまったら、ベッドに身体を横たえてはいられなかった。
自室を飛び出し、駆けた。
合成映像の青空を見上げる。昼過ぎの高い空。
……自室が監獄なのだとしたら、この空だって同じだ。
四三〇〇の魂を閉じ込めた檻。それこそが月面都市の正体だった。
白々しい空の向こうにある星空のことを思い、不意に叫びたい衝動に駆られた。
「はっ、はっ……」
走りながらナギは、すぅ、と息を吸い込んで……
「――――、」
立ち止まった。
吸い込んだ分だけ深い息を吐いた。冷たい吐息が唇くすぐって心を冷やす。
(……叫んで、どうする)
何も変わりはしない。何も。気だって晴れるかどうか。
ナギが……カグヤたちが直面した現実はあまりにも大き過ぎる。自分たちで行動をしたところで、何かを変えられるわけでもない。
手のひらを見る。まっさらな、子供の手。……無力な手。
自分たちに出来ることはきっと、ただ待つことだけ。
母なる惑星が月に生きる我らのことを思い出すこと。あるいは灰の大地の下に埋もれた大人たちが帰還する日のことを。
待って……待って……待ち続けることのみ。
ナギは両手を握りしめる。奥歯を噛みしめる。
なんて無力なのだろう。
カグヤに近づいて、現実と立ち向かうつもりでいた。
いざそれを明かされてみればどうだ、彼の口から出た現実の重さを想像するだけで、こんなにも深い衝撃を覚えているなんて……
「……お笑い草ね」
それだけつぶやく。空虚な心に自分の言葉が反響した気がした。
行く当てもなく歩きだす。
歩きながら――カグヤの内側に潜む強さのことを思う。
六才という幼少期から今日まで続いてる現実の中、彼は今でも戦い続けている。年長者だから。月で最初に生まれた人間の義務だから。そんなふざけた理由で両肩に月のこどもたちの命運を背負っている。
自分のちっぽけな決意と比べるべくもない。
なんて強いのだろう。そしてその強さは――なんてかなしいのだろう? ひどくかなしいと、ナギにはそう思えてならない。
どうしてだろう? どうして、かなしいと思うのか。
ナギは考えて、やがて気づく。強くあることを環境が強要した――後付けの強さであるはずだからだ。彼が強くあろうとしなければナギたちの命運は尽きていた。カグヤが強くあることを、この月という衛星が強いたのだ。
そして同時にその強さが秘める想いのこともナギは気づいた。月面都市〈リュウグウ〉に満ちた誰もが輝けるアイドル文化……ナギが歩んできた日常の光景。きっとそれこそが……
「……カグヤが幼い頃に迎えたかった毎日なんだ」
カグヤが幼少期に迎えられなかった物。カグヤからそんなこどもの無垢な時間を月は、運命は、現実は奪っていったのだ。当時六才の少年から……
無力なナギの心の中、ぽつりと熱が宿る。
感情はまたたく間にその熱に支配されていった。
それは憤りだった。
どうしてカグヤから明日を夢見るこどもの時間すら奪うのか。彼が享受するはずだった少年の日々を拭い取ってしまったのか。そんな権利が誰にあるというのか。
「…………最低」
ナギは運命を呪う。彼にその残酷な強さを強いた運命を。無慈悲な夜の女王を。
きっとカグヤは自分の運命を呪ったことはないだろう。人の良い生徒会長のことだから……心身を育んだナギたちのことを誇りこそすれど、自らの運命に対して憎しみを抱くことはないはず。あの疲れたような笑顔を浮かべて、しょうがないよ、なんて微笑むのが目に浮かぶ。
きっと彼はナギが彼の運命を呪うことに良い顔をしないだろう。
でもそれじゃあ、誰が彼の運命を呪える? 誰が彼を『かわいそう』と言える?
誰にも言えない。
……それならば、ナギが呪う。
カグヤの代わりに。九〇余人の同胞の分まで、彼を陥れた運命を――呪う。
呪う。呪って、やがてナギは、立ち止まる。
目前に猫耳の少女が立っていた。
彼女の後ろに見えるのは――イベントスペース。
「きっと来ると思ってたにゃ」
ナギは目を見開き、拡張視界に日付を呼び出す。
なんてことだろう。――出るはずだったアイドルグランプリの当日だ。
すっかり忘れていた。
そのはずなのに始まる時間、始まる場所に、足を運んでいた。
「……? ひどい顔にゃ、眠れなかったにゃ?」
顔を覗き込むようにしてけっとしぃが言う。ナギは口を開こうとして、気づく。
――この少女は、自覚している人工知能の少女だ。
胸中に渦巻く複雑な感情の一端を共有できる相手なのだ。
「四三〇〇人の中の九〇人ぽっちって、あまりにも少ない」
気づけばそう口にしていた。けっとしぃは一瞬だけ目を見開いて、
「九三人にゃ」
そう訂正してきた。
彼女は、カグヤの前に立ちはだかった現実を『知っている』のだと再確信できた。
「驚いた。話したんだにゃ、ナギちゃんに」
「……聞いた」
そして見てきた。
自身の目で、真白く何もない月の大地を。生まれ育った不毛の地を。
「そっか……それは、よかったにゃ」
「……よかった? よかったって、一体なにが」
低い声が出た。彼女が何を指してそんな言葉を告げたのか。
けっとしぃは微笑んで見せて、
「カグヤが話すことを決める相手ができたことが、にゃ」
「あ……」
ナギはその言葉に、自身の想像を恥じる。
けれどけっとしぃは、
「にゃーが悪かったにゃ、不用意な言葉使いだったにゃ」
そんなふうに苦笑して見せて、
「許してにゃ? 許してにゃ? にゃにゃ?」
あざとく首をかしげてくる。
ナギはちいさく息を吐く。
「……その語尾だと謝られてる気がしてこない」
「にゃんにゃか♪」
けっとしぃはくすりと笑った。一瞬で毒気を抜かれたナギは頬を掻く。
数瞬の沈黙。
猫耳の少女が口を開く。
「……にゃーたちは、こどもが仲間と共に成長できるように作られたにゃ」
真剣な瞳で、けっとしぃは言う。人間以外の――四二〇七人の人工知能のこと。
「孤独の月という極限の世界の中、できるだけそれを感じさせずに、健全に心を育ませる……カグヤの意図通りみんな健やかに歳を重ねてるように思うにゃ。でもその一方で――カグヤはもう十年近く、あの顔のまんま」
あの疲れたような笑みを、ナギは思い浮かべた。月面の大地で見た大人びた笑顔……
「だから打ち明けられる人がいてくれて、よかった。そう思うのにゃ」
きっと姉か、あるいは母親がするような顔を浮かべて、カグヤのことを語る。
月の現実を知る人工知能として、彼女なりに思う所があるのだ。
「……聞いていい? カグヤがアイドルをやめたのは、どうして?」
誰もが輝けるアイドル文化。きっとそれは幼少期のカグヤが理想とした物だったはず。理想を体現した世界の中、彼だって輝くことで皆を照らしてくれていた。
それが彼自身の救いにならなかったとは思わない。
ステージの下、光の庭で歌ったナギには淡い確信があった。
報いの日々は、きっとあったはずなのだ。ステージという光の庭の中に。
歌を介して心を通わせることは……心の救いに違いないはず。
それなのになぜ、ステージを去ったのか。けっとしぃは、その疑問に答える。
「カグヤ自身が賑やかす必要が、なくなったからにゃ」
理想としていたアイドル文化が根付いたから。
だから少年は歌うことをやめ、そして生徒会長として裏方に徹していたのだ。
……ナギが、見つけ出すまで。
「ナギちゃんには感謝してるにゃ。カグヤのやる気スイッチを押してくれて」
「カグヤが再び……アイドルに……絡むようになったことを?」
「そうにゃ。おかげで……にゃーの至上の目的にも近づくことができたにゃ」
けっとしぃが持つ、目的。果たしてそれは何か。
「……それって?」
ナギが尋ねると、けっとしぃは胸を張る。
「――みんなに笑顔になってもらうのにゃ!」
月の現実を知った上で――彼女はカグヤが作った文化の中で歌い続ける。
月面都市〈リュウグウ〉に暮らすすべての者に笑顔を届けたいがため――
「実在することができないにゃーが、できることなんて、それだけにゃ!」
自分に課せられた運命を克服したかのように、けっとしぃは答えた。
なんてまぶしい少女なのだろう。
(……あぁ…………)
勝てないなぁ。
たった一言、そう思った。それがステージのことなのか、あるいは別のことなのか……ナギにはわからない。わからなかったが、ただその一言だけが胸いっぱいに満ちていた。
勝てないなぁ――、と。
「さ。早く行くにゃ! 雌雄を決するにゃ! 白黒つけるにゃ! 甲乙を分けるにゃ!!」
「ま、待っ……」
けっとしぃはナギの手を引っ張る。イベントスペース……アイドルグランプリの大舞台に向かって。
(今さらわたしが歌ったって……)
そういう思いはある。元から差がある上に、二週間近くあった猶予をふいにして過ごした。そもそも今となっては――ナギはステージに希望を見出すことができるのだろうか?
ナギは自身の心にそれを問いかけてみる。
「……………………」
答えは出ない。出なかったけれど……
(……託された分だけ、わたしは)
使命感に突き動かされながら、ナギは自らの意思を持って駆け出す。
――せめて、歌おう。できることなんて、他にありはしないのだから。
ナギは強く、そう思った。




