月面上の少年少女……003
「んっ……と」
人工重力がカグヤの身体を捉える。
ゆっくりと身体に掛かる重力の負担が増えていく。
ぴったり1G。これまでの六倍に当たる重力は随分とずっしりと感じる。
(重……。いい加減、慣れたとは言え……)
月面から戻ってきた時の、この重力の実感。
カグヤは深く息を吐きながら厳重な扉を抜け、見慣れたチタンの通路を歩く。
ロッカールームで気密服を脱ぎ捨て、迷いのない足取りは出入り口近辺に近づいていく。
「……今日も疲れたー」
外……つまりは宇宙空間での活動というのはなかなか骨の折れることだ。
真空。低重力。月面での活動に伴う過酷さは人体では克服できないだろう。
人の身体というのは地球の重力に適応して進化したのだなぁ、なんて感想を強く抱く。どれだけ神経をすり減らしても足りない。
カグヤはちいさくため息を吐く。
「……なおさら、ひとりでがんばらないと」
そう決意を新たに、出入り口に近づき……、
その時、聴覚が異変を捉えた。
歩みが止まる。
(……声? 人の近づかない区画のはずだけど)
月面都市〈リュウグウ〉には壁の外に通じる通路が三八箇所存在する。
その半数が人の目につきやすい場所にある。カグヤはそうした出入り口を避け、人通りが皆無な路地にあるこの出入り口を使うようにしている。
理由は単純。あまり『外』へと出入りする姿は見られたくないからだ。
念を入れて壁には反響音のひとつも洩れないよう、逆に内側は辺りの音をよく捉えるようにしてある。もっとも人通りの皆無なこの場所では、これまでそれらが活きることはなかったのだが……
(……なんだろう?)
見当もつかないまま、そっと耳を済ましてみる。
――ぁ…………ぇ…………の…………
声の数は……ひとり分。話し声というわけではない。
(ひとり言? ……ではなさそうだけど)
瞳を閉じ、その声を聞き取ることに集中する。
すぐに上手くいく。声が分かりやすいメロディを紡いでいたからだ。
歌。
少女の、歌声だ。
その事に気づいてみれば、歌声の紡ぐ言葉、歌詞を鮮明に捉えることができた。
――なみだ……れたよる……やさしい歌……いて……えた朝……救われ……
該当する歌詞をカグヤは知っている。
数年前に〈リュウグウ〉で流行った流行歌だ。
『涙で濡れた夜にやさしい歌をきいて 迎えた朝にすくわれた気がした』
そんなしみったれた歌詞だ。よく思い出すことができる。
(……なつかしいな)
カグヤは瞳を閉じたまま、その歌に聞き入る。
好きな曲というわけではない。嫌いというわけでもない。好き嫌いよりも、ただ流行っていたなぁという実感だけがある。都市のいろんなアイドルがカバーをしたし、口ずさむ少女たちの姿を見かけたりもした。
今では歌う者も見なくなった、どこにでもある、一昔前の流行歌。
ちょっとしたノスタルジーが胸中に去来するのを感じる。
(……んー、しかし……でもなぁ)
扉の向こうから聴こえるくぐもった歌声。
いろんなアイドルが歌うのを聴いてきたが……
「……超よくねー?」
そのどれよりも、歌声は歌に見合って聴こえた。
声量を抑えたようなウィスパーボイス。さらに壁越しという環境にも関わらずよく通る声質がそうしているのか、カグヤの心の内側を撫でるような……そんな印象を受ける。
声が良いというだけには留まらない。何の伴奏もないアカペラだと言うのに、そのメロディは少しも音域を外れたりはしていない。
完成度の高い歌だとカグヤは思う。
それこそオリジナルと遜色がないくらいに――
なんてことを思っているうちに、歌が止まる。
二度目のサビの途中だ。まだその後に続く歌詞があるはず。
(……? なぜそこで止める?)
カグヤは瞳を開いて、チタンで構成された冷たい壁を睨む。よく磨かれた壁にカグヤの輪郭の影が落ちている。壁の向こうが見えるわけでもなかったが、しばらく眺めていた。
待てど暮らせど、その先が聴こえてくることはなかった。
「…………?」
歌うことに飽いてしまったのだろうか。
内心で首を捻りつつ、カグヤは扉に手を翳す。
――Vein Scan....Clear〈静脈認証完了〉:Kaguya_Uematsu_Mcbrain.
視界の中、半透明のメッセージが表示され、扉が左右にスライドして開く。
出る時は夕方ごろだったが、もうすっかり夜の帳が下りている。
合成映像が作る夜空には白々しい星明りが点在している。笑い話のようだが、中には月までも存在している。ご丁寧に地球上の最も有名な天文台に合わせた月相を再現しているのだとか。
この日は上弦。半分にカットされたオレンジみたいな月がある。
そんな星明りに照らされた都市の片隅、うらぶれた路地の中、その少女の姿はあった。
ぺたん、と。
出入り口、カグヤから四人分ほど離れた位置、壁のすぐ前で屈んでいる。
なんだかやたらと白い。セーラー服の襟やスカートまでも白い。ウェーブがかったショートボブの髪や、足先のパンプス、それから中等部二年生を示す校章が差し色になっている。
角度の所為で顔は見えない。……少し待っても、カグヤの方を向く様子もない。
「……もしもし、きみ?」
声を掛けてみる。無反応だった。
少し悩んで、カグヤは少女の正面に立つ。それから膝を曲げる。
両膝の間に顎を乗せるような形の、彼女の顔。
「くかー」
ひどく無防備に、穏やかな寝息を立てていた。
「…………うーん?」
カグヤは膝を曲げたままの姿勢で、思わず腕を組んで悩んでしまう。
この娘がさっきの歌を?
なんでこんな場所で?
この姿勢で?
歌いながら寝落ち?
数多の疑問が頭によぎる。
(……いずれにしても)
カグヤは首を振って考える。まずは起こしてみないことには始まらない。
声を掛けてみる。
「ね、きみ。……朝だよ」
初手は嘘だ。息をするように嘘をついた。
「くかー……ふえぇ? あさぁー……?」
全く期待していなかった嘘が効果を発揮する。
少女の瞼が震え、開く。邪気のない瞳がカグヤを捉える。
いやに澄んだ目。寝起きのそれは赤子のように無垢だ。
少女の瞳はカグヤから逸らされ、辺りを見回す。
それから、
「まだよるじゃない……ふにゃふにゃ」
そう言って普通に寝なおそうとするものだから、カグヤとしては心中穏やかではない。
「いやいや、まず屋外で寝てることに疑問を覚えよう」
「なにをいう……きゃくは……かみだぞ……」
「神を自称するところ申し訳ないんだけど、神って屋外で寝るの?」
「あめにもまけず」
「負けとけよ雨には……寝ようよ家で……」狼狽のあまり倒置法気味に言う。
「おかけになったわたしは……げんざい……つきりょこう……」
「……寝惚けってこわいなー」
はじめて酔っぱらいを見た地球の学生みたいな感想をカグヤはつぶやく。
まぁもう少し話してみれば意識も覚めるだろう。そう判断し、声を掛ける。
「ほら、寄宿舎に帰った方がいい。自分の部屋で暖かくして寝よう? な?」
「やーや」
「そんな赤ん坊みたいな駄々捏ねない」
「やーやぱぱ」
「……確かに大人になったけど」
世界規模で有名な絵本のキャラクター風に言ってくるから困ってしまう。やーやまま、とか居るんだろうか? カグヤはそのスケールの大きな発想に怯みつつ、言葉を重ねていく。
「ほら文明人よ、夢を見るなら屋根の下に行こうよ? な?」
「きょうからここが……わたしの……ほーむ……」
「そんな劇的な嘘はいらない。外泊はだめだぞ」
「がいはくしょうめいしょ……さいんするから……」
「……それは止めた方がいい気がするよ」
理由なく冷や汗を流しながらカグヤは声を掛け続ける。
そうしていると、再び開いた少女の瞳がカグヤを捉える。
「……………………」
まっすぐにカグヤを見る目。瞳孔がぎゅっと締まるのが見える。
「ん……起きた?」
みるみるうちに眉に角度がついてくる。なぜか白い肌が紅潮していく。
そんな少女に向けて、カグヤは言う。
「夢の続きは自分のベッドで見ること。いい? 白いお嬢さん」
「ねっ……寝てない! これは、そう……あの! ……染みを数えてたの!」
「ルナニウムの?」
「そうよ、悪いっ?」
「白い上に面白いと来やがる」
予期せぬ返答にカグヤはビックリだ。
「ちなみに何個あった?」
「に、にひゃくじゅうさん那由多」
「染みったれた月だな……」
劇的な数だった。カグヤは苦笑し、肩をすくませる。
「……とにかくもう夜だ。自室に戻るように」
それだけ言い残して少女に背を向ける。
寄宿舎まで連れて行くこともできる。しかしまぁ出歩く目的もあったのだろう。起こすことに成功した以上は、その先まで面倒を見る気はない。
(歌の上手い娘、ね……機会があればまた会うだろう)
なにせ狭い都市だ、可能性は低くない。
そんなことを考えながら数歩。すると背後から少女の声が掛かった。
「ま、まって……待てっ! ステイ!」
あまり人間を留めるようなセリフではなかったが、振り返る。
立ち上がった少女の姿。どうでもいいがその頬には膝の跡がついてた。少女はカグヤを射抜くように見ながら、
「……っそい……」
「うん? もう一回言って」
「おっそいわよバカ、って言ったの! 真夜中じゃん!! もー、信じらんない!」
まるで待ち合わせに数時間も遅れた人間を責めるような恨みのこもった口調。
カグヤは思わず指で自分を指す。おれ? みたいな感じで。
少女は大きく頷く。おまえ! みたいな感じで。
視界の中で時刻を確認する。
22:40。
確かに真夜中も良いところだ、待ち合わせでもしてたならその怒りももっともだろう。
けどそんな約束など交わした覚えのないカグヤからすると、その初対面の少女が向けてくる言葉に対する気持ちはただひとつ。
……Why?