無慈悲な夜の女王の月……005
思考が、止まった。
地球と連絡がつかなくなった、だって……?
聞き間違いかと、そう思った。
しかしカグヤは疲れたような笑みのまま語る。
「通信も定期便も、ある日を境に消えてしまった。緊急用の通信も繋がらなかった。母なる地球は月の民に対して、沈黙を貫いた」
そう言って宇宙を指していた――地球を意図していたのだろう――指を下ろす。
「……月面都市には『地球と連絡がつかない時』の対処マニュアルなんて無いんだよ。そんなことは想定されてないから。何かが起これば地球側から対処するから、月はただ待っていればいいってわけだ。それだけ現代のテクノロジーを信頼していたってことでもあるんだけど……そんな信頼が仇になってしまったんだ。
だから月の知識者たちは、地球と接触する方法を探った」
ナギはちいさく、つぶやくように言う。
「……うちゅうせん……」
そうだ、宇宙船があるじゃないか。
ナギは自分の言葉にひとつ頷いて、
「宇宙船を使って、地球に向かえば――」
けれど、カグヤはその言葉に首を振っていた。
「月に宇宙船はないよ」
「な…………」
愕然とする。
そんな、ばかな。
月は宇宙開発の、その最前線に位置する基地みたいな存在であるはず……!
カグヤはそんなナギの思考を読んだみたいにちいさく頷いて、
「港はある。燃料も。地球との定期便が停泊するための施設も整ってる。――けれど肝心の、月が独自に所有する宇宙船なんて、存在しない」
「なにそれ……おかしくない……? 誰も……誰もそうは思わなかったわけ……?」
「不測の事態ってのは……そういうもんなんだろうね」
他人事のように、その事態を見守り続けてきたであろうカグヤは答えた。
ナギが抱いた不満や憤りを、彼が抱かないはずがない。
とっくの昔に割り切ったか……あるいは飲み込む術を覚えたのだろう。
ナギは気づいた。疲れたような笑みは、大人だけが浮かべる表情なのだ。
こどもだけの都市で、見ることなんて、あるはずもなかった。
「そうした不測の事態の中、顔を合わせても、方針はまるでまとまらなかった。宇宙船を作るべき……通信機能の回復を待つべき……宇宙ステーションに装載艇を飛ばすべき……月面開発初期に作られたマスドライバーを改修するべき、って意見もあった」
いずれかの主張に思うところがあったのか、カグヤは一瞬、声をつまらせる。
「結局、顔を合わせて得たのは、一つの共通認識だけだった。『地球に何かがあった』」
「月を忘れるような、何かって――?」
「色々考えられるよ。自然災害、パンデミック、バイオハザード……あるいは戦争とかね」
いずれにしても――月から知る由もない。
ただ月の人間には、行き場のない現実だけが残された。
そしてそんな矢先に『それ』は起こった。
「月の知識人が揃って顔を合わせているその時に観測されたのが――流星雨。パニック状態で迎撃の範囲を見誤って迎撃に失敗。月が影響を受ける位置で二発目の核弾頭を使う羽目になり、そして――みんな仲良く、埋もれて。
地球どころじゃなくなった」
「…………!」
話が繋がる。
月の知識者――つまりはほとんどの月の大人たち――が集まった月面都市とは、隕石迎撃の際に生じたショックで埋もれたという、この下にある月面都市のことなのだ――
「……そんなの」
ナギは半生を振り返る。
月面都市で生まれ、〈ルナレイヤー〉が作るセミデジタルの世界の中で、当たり前のように生きてきた。成長に伴って知恵がついて、そしてようやく月面都市の『外』に意識が向くようになった。セミデジタルの世界に疑いを持つまでに育つことができた。
けど、まさか……都市ごと大人たちが埋まっているだなんて……
「――それが大体、十年前の話」
当たり前のことでも告げるように、カグヤは言った。
ナギの頭は真っ白になった。言葉の意味することを、考えて。
考えて、考えて、考えた。
一分近くも黙り込んで、それからナギは尋ねる。
「…………十年って……三六五〇日よ……」
カグヤはその言葉に「そうだね」と答えた。
「ナギは最初、訊いてきたね。『どうしてカグヤがそんな役目を担ってるの』って」
地球との連絡がつかないこと……知識人たちのほとんどが埋もれていること……
そういうことを知らない時に尋ねた言葉。
けれどそれらを知った今、ナギの中でその疑問はより強くなった。どうしてカグヤの、細い両肩に、そんな重い運命が伸し掛かっているのか。
カグヤはやはりどこか疲れたような笑みを浮かべて、その疑問に答えた。
「残った月面都市で、おれが、最年長だったからだよ」
なんてシンプルな答えなのだろう。
なんて残酷な答えなのだろう。
カグヤは十年前の出来事だと、そう語った。
今のカグヤの年齢は――一六才だ。……当時、六才という計算になる。
「…………、…………?」
ナギはしかし、その言葉に疑問を抱く。
〈リュウグウ〉の中、年を取る先輩たちがいる。
……そうだ、カグヤよりも年上の生徒たちがいるじゃないか。
ナギはさらに思い起こす。毎年、高等部で卒業式が開かれていることを。
卒業した彼らは別の月面都市に行くと、そう聞いたことがあった。
「……それって、おかしい。矛盾し……て――――」
言葉の途中。
ナギは全身の皮膚が粟立つのを感じた。
天啓に打たれたような思いつきに心が震える。
(ま、さか)
その想像が、間違っていればいい。
間違っていることを期待し、頭の中で様々な可能性を展開させる。
(学園の教師……舌の上で再現される料理の味……触れられる幻想の服……)
そもそもナギはなぜ不自由のない暮らしに不満を抱いたか。ディストピアではないかと、そんな感情をぶつけた原因……〈ルナレイヤー〉。皮下の〈ナノチップ〉が実現するセミデジタルの世界。
そして昨日聞いてしまった猫耳の少女の秘密……人工知能。生身を持たない〈ルナレイヤー〉の中でのみ生きる仮想生命のこと。
それらが存在しているという現実と、ナギのその思いつきは――矛盾しない。
間違っていることを願いながら、つぶやくように言う。
「……〈ルナレイヤー〉は、〈ナノチップ〉が見せる世界は、」
喉を慣らし、震える声で――
「生徒の数を……暮らすこどもたちの数を……水増しするために……あるのね?」
つまり……
月面都市〈リュウグウ〉で最年長というカグヤよりも年上の先輩たちはみな――人工知能。
きっとそれだけではないはず。ナギの同世代、あるいは後輩たちの中にも混ざっているのだろう――人工知能の少年少女たちが。
けっとしぃのように。
想像は、次々と――ナギの連想を手伝う。
「セミデジタルの世界で……衣服や食を発展させたのは……それを覆うために……」
空虚な月面都市をセミデジタルの世界が被覆した。人波に交じる人工知能の学生たちの存在が露見しないように。
「アイドル文化も……そのうちのひとつに過ぎなくて……」
誰もが輝けるステージという絆で仲間たちと繋がることすら、仕組まれていたことなのかもしれない。事実ナギはけっとしぃと打ち解けようとしていた……肉体を持たない少女と。
目的までは判らない。けれど、その構造はあまりに……
ナギはカグヤを見る。最年長の学生の顔を。
「……………………」
カグヤはナギの言葉を、否定しなかった。
全能の生徒会長はただ、ちいさく微笑んだ。
それが答えだった。
「………………ほんとは……」
ナギは細い声で、尋ねる。
「ほんとは、何人? 四三〇〇人という生徒数のうち…………人間の、数は」
聞いてどうするのか、ナギ自身にも判らないまま尋ねた。
カグヤはその数を答える。きっといつも気にかけていた数字を。
〈リュウグウ〉で生きてる人間の、数を。
「九三人だよ」
……もう驚くこともなかった。
「は…………」
ただ、渇いた笑いが出た。
ナギは昨夜、四三〇〇名の仲間たちの中に、人工知能が混ざっていても受け入れられると、そう思った。でもそれはあくまで数十、あるいは数百に留まる範囲だと考えていた。
それがどうだ……四三〇〇人が暮らす都市の中――本当の人間の数は、たったの九三人。
全体のおよそ2.2%。
97.8%が――人工知能。
「でも……彼らは自身がAIである自覚は、ほとんどないよ」
「……………………」
「〈リュウグウ〉で生まれて育った彼女たちは、自分たちのことを人間だと思ってるし、おれもそれは否定しようとは思わない。十年もの間、彼らが培ってきた生涯があるから。……自覚あるけっとしぃみたいな例外もいるけどね」
ナギは自分のクラスメイトたちに思いを馳せる。はみ出し者という立場のナギだけれど、それでも……同級生たちに対する親愛の情はある。
そんな彼女たちの、きっと大半が無自覚の人工知能――AIなわけだ。
人の『なり』をした、本当の肉体を持たない学友たち……
ナギはここ最近でできた友達を思い浮かべる。
トリトン。
イオ。
彼女たちは果たしてどうなのだろう? その魂を閉じ込めているのは肉体か、あるいは。
……知りたくないと、そう思った。
「……ぅ…………」
ひどい寂寥感が心を満たす。
地球の声が届かなくなった月の世界。
隔絶された月に住む自分たちは、なんと孤独なのだろう? 無限とも思えるほど広がる宇宙の中、地球の1/4ほどの大きさしか持たない小さな衛星……それですら、ナギたち九三人の共同体にとってはあまりにも広すぎる。
(カグヤ……カグヤは……)
その孤独を紛らわす温かな仕組みを作った、カグヤのその胸中を思う。
十年もの間、彼は、見守り続けた仲間に――自分たちの孤独を語ろうとはしなかった。
彼はただ独りで、ずっとずっと独りで、抱えてきた。
「……、…………ぁ……」
聡いナギは、気づく。
ヘリウム3を使った核融合によってエネルギーの問題はクリアできるだろう。
けど……
……月で水や食料を得られるはずがない。
地球から孤立した今、それらは減っていく一方なのだ。
どこから? 決まってる。備蓄されている保存食からだ。
それで十年、保った。
埋まってしまった知識者……大人たちは、どれだけ保つだろう。
〈リュウグウ〉はあと、どれだけ保つ――?
自分たちに残された、ピリオドまでのカウントダウンは、いくつなのか……
――彼が過ごした孤独の十年には、そんな絶望的な数字が常に付き添っていたのだ。
どうして、耐えられる。
当時六才のこどもであったはずのカグヤが。
「……もちろん、おれだけの考えじゃなかったんだ」
ヘルメット越しに見るナギの表情に何を思ったのか、カグヤはそう語る。
「埋まってしまった都市にさ……拡張現実のエンジニアがいたんだ。彼女は最年少の移民でね――おれと五つしか離れていないギフテッドだった。そんな彼女も埋まってしまって……途方に暮れながら六才のおれはこの場所にたどり着いて、会話をすることができた」
吐息のような声。
「おれは彼女と相談を重ねて、こどもだけが残った〈リュウグウ〉という月面都市を、拡張現実によって――心を健やかに育める場所に築こうって、そう決めたんだ」
ナギは両手を握りしめる。
平穏を無理やり注ぎ込まれるディストピアの世界。そう思っていた。
真実の世界を目にするためにカグヤに近づいて、そしてその結果が、これ。
「いつの日か訪れる、酷な真実を知る日に、心が折れてしまわないように……」
ナギの覚悟などでは、とても耐えきれない現実だった。
「それに。最年長だからって理由のほかにも、もうひとつ理由はあってね」
……まだあるのか。聞きたくない……
思わず耳をふさごうとした。ヘルメットの感触がそれを拒んだ。
「おれが、月で初めて生まれた人間だったから」
ヘルメットを抱えたまま、ナギはカグヤを見た。
あの疲れたような表情ではない。
いつもの、人の良さそうな笑み。
「だから『カグヤ』って名付けられた。性別無視でさ。ひどいって思わない?」
ちいさく笑って、
「月で最初に生まれた人間の義務かなって。そう思いながら、生きてきたんだ」
それから。
ふたり並んで、月の岩肌を眺めていた。
しばらくしてから、自分たちの都市に戻った。
会話のない三時間の帰路、ナギは真白い月の大地を眺め続けた。
もう美しいとは思わなかった。




