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月面上のアリア  作者: 七緒錬
第四章 無慈悲な夜の女王の月
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無慈悲な夜の女王の月……003

 月へようこそ。

 そう笑いかけてくれたカグヤの運転する四輪車で白い大地を進んでいく。


「……………………」


 ナギは過去に触れたことのあるゲームの景色を思い返す。


〈ルナレイヤー〉といういわば拡張現実の世界の中、意識没入型のゲームがいくらか存在している。製作者不足のためにアイドルほどの盛り上がりこそないが、月面都市にいながら触れることのできる異世界の感覚は少年少女たちの心を虜にする。


 そんなゲームの世界の中、ナギは花畑の中に足を踏み入れた経験があった。その花は『スノウラベンダー』と呼ばれ、名前が示すとおり真白い花畑だった。


(……あの世界に少しだけ、似てる)


 灰色の大地は恒星から降り注ぐ光を受けて朧げに光っていて、それが真白く見える。まるで新雪の雪原みたいだ。雪原ほど深く轍は刻まれていないけれど。


(本当に月かどうかすらわからない、か……)


 かつての自分はそんな疑念を抱いていたっけ。

 しかしもはや疑う気も起きない。


 ここは月だ。


 ナギは空を見上げる。暗黒の空が果てなく広がっている。

 ナギは振り返る。白い大地の上に『あぶく』のような半透明のドームがあった。そこから伸びるパイプ状の通路に沿って四輪車は進んでいる。


 体感速度は正直に言って遅い。走った方が早い気すらする。


(……そうだ、しかも重力は1/6だから……)


 跳ぶように駆けることができるはずだった。

 ナギはカグヤに向け、ヘルメットを触れ合わす。


「……どれくらい走るの?」


 カグヤはナギを一瞥して、


「およそ五四キロ」


 そう答えた。


「どれくらい掛けて?」

「三時間近く」

「……うわ」


〈リュウグウ〉で計測したカグヤが『外』に出て帰ってくるまでの時間が約六時間だ。行きと帰りの時間を合わせれば計算は合う。合うが……果たしてたどり着いた先には何が待つのだろう? おそらくは二〇分にも満たない程度の滞在時間の中で、一体何をするのだろう。


 そんなことを考えているナギに向け、ヘルメットの向こうでカグヤが呆れたように笑う。


「言ったろ、長い旅路になるって」

「それは。聞いたけど……」

「退屈?」


 ナギはヘルメットの中で視線を逸らして、


「いいえ。……不思議。同じような景色なのに……見てて飽きない」


 嘘ではなかった。

 はじめて見る月面都市の外。似たような景色が続いても新鮮だった。


「おれは退屈だ」

「……そう?」


 視線をカグヤに移すと、口を尖らせるカグヤの顔が見えた。


 ナギは思う。……彼は毎夜、片道三時間も掛けてこの白い大地を独り進んでいくのだ。今は新鮮な気持ちで見れるこの月景色を見飽きるのに必要な日数は、どれくらいだろう?


 一週間か、一月か。あるいは……


「……少し、昔話に付き合ってもらおうかな」


 カグヤはそんなふうに切り出した。

 ナギはヘルメットの中で神妙に頷いてみせた。


 カグヤは語り始める。

 きっとナギの求めていた、月の話を。




 二〇一六年の軌道エレベーター〈クモノイト〉の完成以降、人類の宇宙開発の気運は高まる一方だった。二〇二〇年には〈クモノイト〉からの有人飛行が実現し、それに拍車を掛けた。


 人類の手が月面開発の着手に至るまで時間はそう必要ではなかった。

 ルナニウムなどの単純な鉱石から、核融合による莫大なエネルギーを生むヘリウム3。それらの存在が宇宙開発を夢物語でなく、実益のある事業へと形を変えさせた。


 そうしたあらましの末に――月面移民は現実化した。


 はじめは採掘者のために作られた月面の基地が発展し、人工重力をもたらし、ついには直径九〇〇〇メートル、高さ四〇〇メートルというドーム型の都市の完成に至った。

 それもひとつではない。月面にいくつかのドーム型都市が開発されていった……




 カグヤの語るそれは、ナギもよく知る月の近代史だ。


 出来上がったドーム型都市は一つにつき、万規模の人間が生活することができる。もっとも、そんなメガシティ状態にまで人口が膨らんだことは一例もないが。


 現在の月面の総人口は四万に届く程度だと――ナギはそう聞いている。


「……わたし、地球の人って、ちょっとやだな」


 ナギは率直にそんな言葉を漏らす。


「嫌だって? ……どうしてそんな感想を?」

「予習してて知ったのよ。月で生まれたこどもに国籍(・・)がないってこと」


 月面移民は健康で若い人間に限られた。月の開発に携わる様々な職種の人間がそこには数えられる。天文学者、月面鉱夫、原子物理学者、地質学者、医者、エンジニア、etc……


 そこには国籍の壁は存在しない。月面開発が国境に囚われない共同事業だからだ。月面都市の中ではどんな言葉を使っていても、皮下の〈ナノチップ〉によって親しんだ言語に翻訳することができる。月で暮らす人間にとって地球での生まれなど取るに足らない思い出のひとつでしかなかった。


 月面都市の中で暮らす若者たちの中、関係を持つ男女もいた。

 そうして月で生を受けるこどもが、出てきた。


 そこでナギが口にした国籍問題が生まれた。結局それは、


「合衆国がドヤ顔で『地球に帰還した時に合衆国国籍を取得できる』とか結論を出して、他の国も似たようなことを言って、それで終わり。そうでしょ? でもそれって……地球外で生まれた人間には、人権がないって言ってるのと同じじゃん。

 あの人たちは地球で生まれた人間だけが、地球人だと思ってる」


 そして宇宙人には、人権はない。

 言外にそう語ってるようにしか――繊細で多感なナギには思えなかったのだ。


 カグヤは困ったように苦笑する。


「確かに、軽んじているかもしれないけど」


 そう言って、カグヤは四輪車のハンドルを握り直す。


「ま、それはそれとして。話を続けようか」


 ナギは素直に「うん」と頷いた。




 月に居を構えた人類。彼らが生き抜く上で必需とされる物が何点か存在する。月での採取が困難な水や食料などの他、地球では馴染みのない物がある。中でも最重要なのは隕石への対策だ。


 大気圏のない月では、隕石が摩擦熱によって燃え尽きることはない。無数の隕石の落下によって月面のクレーターは誕生してきたのだ。


 人類が住まう場所に落下してくるのであれば、これを迎撃する必要がある。


 ある程度の大きさまでは光学兵器で迎撃することができる。問題は巨大な隕石だ。光学兵器の迎撃では間に合わないようなサイズの隕石……これには旧時代の負の遺産である核弾頭を用いることになった。


 月から遥かに離れた位置で迎撃し、月まで降り注ぐ破片を光学兵器が取り除く。隕石対策はそれで整った。


 そうして月面都市は降り注ぐ隕石の下で安寧を得ることができる……

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