無慈悲な夜の女王の月……002
壁の中の通路に足を踏み入れる。
いつもは無音の空間。カグヤの後ろからちいさな足音が重なる。息遣いすら感じられそうな距離に、ナギは立っている。
チタンで構成される物々しい通路。
一面に鈍色を反射する光景に息を飲んだようだった。
「行こう」
「う……うん」
向かって左方向に、足を踏み出す。
と。
後ろから、カグヤの手を包む温かな感触があった。
ぎゅ――。
その手のぬくもりを、そっと握り返す。
「……………………」
「……………………」
カグヤはナギの手を引いて、通路を進んでいく。
ひたり、ひたり……聞き慣れた自分の足音が、前後の空間に反響する音。
ぺた、ぺた……それよりもちょっとだけ小さくて軽い足音が、それに重なる。
「……………………」
「……………………」
無言のまま、ふたりで歩いて行く。
そうしていくと分かれ道に到達する。進んで、肩越しに振り返る。
「! ……な、なに?」
本当にすぐ側にいる。手の届く範囲なのだから当たり前なのだが、カグヤは少しだけほっとする。なんでもない、と苦笑を向けて正面に向き直ろうとして、そこで気づいた。
……この壁の中の通路は一応、月面都市の内側だとカグヤは認識している。
それは月面都市――ドーム状の都市という構造上の問題であり、下層で動く人工重力の制御装置などの話も絡むため、決して間違った認識ではない。
のだが。
カグヤの表情はナギを見て、固まってしまう。
「……? 本当にどうしたの? わたしになにか――」
ナギは自分の身体を見下ろす。
ビッチシと肌に密着する〈レイヤースーツ〉に包まれた、緩やかな曲線を描く身体を。
「……………………」
「……………………」
そうだった。
……そうだった!
通路まで訪れた以上、〈ルナレイヤー〉の影響範囲から逃れているのだ。
当然、服の描写機能は及ばない。
質感としては、ナイロンやポリエステルを混ぜた化学繊維のそれに近くて、光の当たる箇所は『ツヤツヤ』というよりは『しっとり』としている。
〈レイヤースーツ〉は月面都市で生活するための物であって、着用していること自体を忘れてしまうような下着みたいな存在で。
それが揃って丸出しで。
ちなみにナギのそれは、白だった。
「……………………」
「……………………」
耳に痛い沈黙。
しばらくして顔を上げたナギ。真っ赤で涙目だった。
震えた声で彼女は言い放つ。
「もーまんてぃあ」
「モーマンタイ、をうっかり西洋風に発音するくらいには、動揺したんだね……」
しかも絵に書いたような強がりの表情でだ。カグヤは頭を掻く。
「……なんだ、その。一言くらいあってもよかったよね……ごめん」
完全に失念していた。思い出して言っておくべきだった、中では服が消えるよ、とでも。伝えてあれば心の持ち様は違ったはずだ。ナギは首を振る。
「約束したでしょ、あんたを責めたりしないって」
「遠回しに結構堪えてるって宣言されてるんだけど!」
「どうよ、増量とかしてないのよ、天然物だったわけ。スゴイっしょ、クラスで一番早熟なんじゃないかしら」
「わかったから涙目のまま胸を張るな!」
メンタルが強いのか弱いのかわからない少女だった。
(……っていうか、)
カグヤがこの通路に入ってからナギを振り返るまでしばらくの時間があった。けどナギの方は? ずっと着いてきたナギはカグヤの後ろ姿を見ていたはず。〈レイヤースーツ〉の密着したカグヤの後ろ姿を。
「……ナギ。ナギは中に入った時、おれを見て……何か思わなかったの?」
そう尋ねる。ナギは首を振って、
「…………あんたのことは顔しか見てない。前だけ見てたもの」
よってカグヤと同じタイミングで互いの姿を見ることになった、というわけか。見知らぬ場所で手を引かれて歩くのだ、カグヤのことよりも先を気にするのも理解できる。
「そっか……」
「その…………似合ってるわよ? それ」
カグヤは自分の身体を見下ろす。スーツは筋肉の質感が軽く浮いて見えるくらい薄い。
「それは……どうも」
「別に……」
……この場合、自分も褒めた方が良いんだろうか? なんて? 白がまぶしいねとか?……それを口にしたら殺されるかも、という理由のわからない確信だけが胸中にある。
瞑想が必要な設問だ、カグヤは一六年という生涯の中、これほど使ったことがあるだろうかというほどに脳機能を酷使する。
(冥姉さんどうしよう!)
普段は頼らないようにしている相手の名前を呼んだりもした。地球の無神論者がトイレの個室の中で神の名前を連呼するようなものだ。
六秒ほど悩んだのち、結局はナギのそれには触れないことにした。
「い、行こう。もう少ししたら、機密服があるから」
「ん……」
こくん、と頷く気配。触れないというのはこの場合の唯一の正解である。
そうして少しだけ気の緩んだふたりは歩みを再開する。
不自然なほど前だけを見て。
幾つかの分かれ道をロッカールームに到達する。
手を離す。
「あ……」
「ん?」
「……な、なんでもない」
ぷい、と顔を背けて両手を後ろにやるナギ。
また何か気に触るようなことをしただろうか……内心で首をひねるが思い当たらない。
そのことを留意しつつ、カグヤは気密服の着方をレクチャーする。
「……重いのね」
「色々詰まってるから、酸素とか。すぐに軽くなるから、ちょっとの辛抱だ」
ヘルメットの内側が簡易的なモニターになっていて、閉め忘れなどのチェックを行う。
それを確認したのち、カグヤはナギに、真空下での会話方法をいくつか話す。
「えっと……こんな感じ?」
こつん、とナギがヘルメットを押し当ててくる。気密服を密着させあうことでできる、デジタル補正が掛かった振動伝達による会話法だ。
もちろん気密服に備わった通信機を使うのがてっとり早いのだが、真空という環境下での意思疎通は限られるわけで、不測の事態に備えて教えておくべきだと思ったのだ。
「オーケー、覚えておいて損はないはずだから」
ヘルメット越しに笑いかけてから、カグヤはロッカールームを出る。
気密服越しに手が握られる。体温を感じないゴワゴワとした感触。それを握り返して、ふと思いつく。
「あ、さっき、もう少し握ったままの方がよかった?」
「……っ!? ば、バッカじゃないの!!」
違ったらしい。
どうしてか不機嫌そうなナギと手を繋いだまま進む。
とびきり無骨な扉の前に立ち、センサーに顔を向ける。
――Retinal Scan....Clear〈網膜認証完了〉:Kaguya_Uematsu_Mcbrain.
ヘルメットにそんなメッセージが表示され、扉が開く。
ふたり揃ってその狭い部屋に身を滑らす。
「ここは?」
精密機械が左右の壁に埋まっている。
それらを見回しながらナギが、ヘルメットを当てて振動伝達で尋ねてくる。……ここはまだ真空ではないし、あまつさえ通信機が備わってるため、そうする必要はないのだが。
「ここで重力を抜く。突然、重力が1/6の月面に出ちゃうと、内蔵がやられちゃうから」
「……そう、なんだ」
実際にはもう少し複雑な理由があるという話だが、カグヤはあまり気にしたことがない。ただいくらかの時間を掛けて月の重力に身体を慣らしていく方が良いという実感がある。
「心の準備は?」
「どんとこいよ」
心強い返事にちいさく笑って、カグヤは壁のコンソールに向けて手を伸ばす。
ゆっくりと、身体が軽くなっていく感触。
ナギを見ると、
「……うわ、…………わゎ……、…………ふえぇ」
重力が変わるにつれてそんな声を漏らしている。
「大丈夫?」尋ねると、
「……ダイエットってこういう気分なのかしら?」
斬新な返事だ。
そういう感性もあるんだな、と気に留めながら重力が変わるのを待つ。
1/6。月面の数字になる。
「どう?」
「……おもいっきり、ジャンプしてみたい」
「健全だ」
そう答えながら次の部屋に進む。
エアロックだ。この部屋を出たら真空状態になる。気密服の不備がないことと酸素の残量を確認。ナギの分も終えてから部屋の空気を抜く。
顔を見合わせる。真剣な瞳を浮かべ、ナギは頷いた。
カグヤは機密扉を開く。
そうしてふたりは目にする。
白と黒のコントラストが地平線まで広がる世界を。
「…………………………………………」
目を……それどころか口すらも開いて、ナギは月面の景色に見入っていた。
生まれてからずっと暮らしていた大地の、本当の姿を。
カグヤはこつんとヘルメットを合わせて、
「月へようこそ」
そう言った。
ナギはきょとんとしてから、「バカ」とちいさく笑った。




