無慈悲な夜の女王の月……001
昨夜、ナギがレッスンに来なかった。
日付をまたいでからも、しばらく待ち続けた。
しかしナギが姿を現すことはなかった。
(……なにかあったんだろうか)
カグヤはひとりレッスン室でナギのことを待ち続けながら、悪い想像をしていた。
たとえば急な体調不良。……けれどそれなら保健委員でもあるイオを介して自分の耳に届くはずだった。
となると……
(……休みたくなる日もあるか。それなら、いいんだけど)
カグヤの立場上、ナギの皮下に埋め込まれた〈ナノチップ〉の座標を検出することもできるが、そんな横暴な真似はあまりしたくなかった。もし休みが続くようなら考えよう。そんなことを思いながら一晩を越した。
次の日。
登校をする傍ら、拡張視界の中で中等部の出席名簿を閲覧してみる。果たしてナギの名前は……ある。登校しているのが確認できた。
「……ふぅ」
ほっと一息。安堵しつつ、カグヤはその日の学業に臨んだ。
放課後には生徒会をはじめとする委員会から上がってくる仕事をこなし、夕方になって校門を出る。
けっとしぃが待ち伏せをしていることもなかった。いつもの道筋を進み、すんなりと人気のない路地に着いた。『外』に繋がる壁の目前……
そこに白いセーラー服に身を包んだ少女が立っていた。
「…………奇遇だね、珍しいところで会うこともあったもんだ」
カグヤは白々しくそんな軽口を漏らす。物憂げな表情や、落とした視線を見るまでもない。ナギは何か思う所があってこの場所でカグヤを待ち構えていたのだ。
はじめて会ったこの場所で。『外』に繋がる入り口で——
「……ぃが……って、……と……?」
ぼそりとナギはつぶやく。
「なんて?」
聞き返す。
ナギは顔を上げる。まっすぐ目が合う。
薄っすらとした隈の上、真剣な光を湛えた瞳。
「けっとしぃが、人工知能って、本当?」
カグヤは表情を変えることも、身じろぐこともなかった。
ただ自分に向けられた瞳に、問いに、口を開く。
「……本当だよ」
答えながら気づいた。昨夜にナギがレッスンに来なかった理由。
(……聴かれてたんだ、しぃとの会話を)
迂闊だった。
誤魔化すことはできる。
けど真剣な瞳をしたナギ相手に隠すべきではないと思った。
だから、二度言う。
「本当だよ、ナギ。けっとしぃは生身を持たない、〈ルナレイヤー〉の中にだけ存在できる仮想人格だよ」
ナギのまつ毛が、ちいさく震える。
「……そう」
ため息のような声だった。カグヤはそれに「そうだよ」と答える。
目が合ったまま、ナギはしばし押し黙る。
……けっとしぃが人工知能で動く存在だと知ってしまったら、新たな疑問はいくらだって出るだろう。ナギからどんな問いを向けられるか……カグヤは想像しながら押し黙る。
「連れてって」
果たしてナギは、そう切り出した。
「連れてくって、どこに」
「決まってる。あんたがこれから行く、外によ」
「……なんだって?」
思わず目を見開く。
ナギは真剣な眼差しをしていて、とてもふざけているようには見えない。
本気で言っているのか。カグヤは口内の唾液を飲み込む。
(……けっとしぃのことを知った上で、なんで今、そんなことを)
それらを結びつけて考えることがカグヤにはできなかった。
困惑するカグヤなどお構いなしに、ナギは目を合わせたまま、
「どうなの? だめなわけ?」
尋ねてくる。
しかしそれに対する答えは決まっている。
「……だめだよ。連れていくわけにはいかない」
きっぱりと答える。ナギは眉を寄せて、
「それってどうして? 危険だから?」
「そうだよ」
「危険なんだ、ふーん。……毎夜、カグヤは危険なところに出てるんだ?」
「それは……」
真空の世界。絶対に安全だなんて嘘は口が裂けたって言えない。けれど、
「おれは、平気だよ。もう慣れたし……」
そう答えるとナギは「ふん」と腕を組んで、
「なら大丈夫じゃない。慣れたあんたが近くにいるなら、わたしだって安全よ」
幼いこどものような詭弁。カグヤはつい苦笑しそうになる。
月面に出るための気密服は一定の温度を保つことができる上、一定値の宇宙線を断つことができる。それに加えて慣れた自分がいれば……そりゃ、危険性は薄くなる。
けどだからといってそう安々と連れていくことなんて出来るはずがない。
首を振ってみせる。
「屁理屈こねたって、だめな物はだめ」
「どうしても?」
「どうしても、だよ。連れてなんて——」
「だったら!」
ナギは声を荒げる。けれど次の言葉はひどく細かった。
「だったら……信じさせてよ。あんたを」
「…………、…………」
「危険はないって。人工知能も……理由があることだって……信じさせて」
……カグヤはその言葉に、答えることができなかった。
こどもしかいない〈リュウグウ〉で、唯一『外』に出入りする人間。
けっとしぃという、人工知能のアイドルをプロデュースしたという経歴。
彼女から見えるカグヤ像は真っ黒に違いないし、それを否定する術をカグヤは持たない。
「それができないなら、連れてって」
「……そうは、言うけど」
「約束するから」
「約束? ……何を」
「外で何を見て、どんな目にあっても……あんたを責めたりしないって、約束するから」
「ナギ……」
心に刺さるような真っ直ぐさ。情にほだされそうになる。けど……
(……連れていけって? ナギをあの暗黒の世界に?)
地平線まで続く白い大地の中に。
そんなことは……
カグヤはナギの瞳の中に映る自分の顔を見た。ひどく幼い顔をしていた。
「…………、…………長い旅になるよ」
ナギの瞳の中で、その銀髪の少年は唇を震わせて、そう言った。
白い少女はその言葉に、ただ口を引き締めて、
「うん」
と答えた。
真実を知りたいと願う少女の真剣な瞳の輝き。
それで覚悟は決まった。ナギを連れて、あの場所に行こうと思った。
(冥姉さんは……今日は、話せるかな)
話せればいい。そう願った。




