月面上の少年少女……002
16:25。
朱色に染まる月面都市を背に、少年――カグヤ=ウエマツ=マクブレインは壁の中の通路に足を踏み入れる。人間の出入りを確認したセンサーが自動的に照明を点ける。
チタンで構成された物々しい通路が鈍色の光を反射する。ドーム状の都市の外周を覆う壁の中にこの通路は巡っている。だから左右に伸びる通路の先は緩やかな弧を描いていて、端は見えない。
カグヤはそんな通路の中、迷う素振りも見せず、左方向に足を踏み出す。
いくらか歩くと向かって右手に通路が分かれている。右折。
少し歩くとまた分かれ道。一度も歩みを止めることなく、カグヤは進んでいく。
ずいずい、ずいずいと。
月面都市から離れるように。
何度目かの曲がり角を経て一層物々しい扉の前にたどり着く。
華奢な両手を伸ばすと、ゴゴ、という重い金属の音を立てながら開く。
ロッカールームだ。
カグヤはそのうちの一つに取り付き、中から気密服を取り出し、着用する。
それにしても長い髪の毛が鬱陶しい。切ってしまおうかと毎日思うがそれも面倒で、括っただけで終わりにしてしまっている。時間が空いたら切ろう、と決意を新たにカグヤはロッカールームを出る。
その先でさらに入り組んだ通路を進んでいく。
とびきり無骨な扉を前に、カグヤは壁に埋め込まれたセンサーに顔を近づける。
ピ、ピピピ、ピ――という効果音。のちに、
――Retinal Scan....Clear〈網膜認証完了〉:Kaguya_Uematsu_Mcbrain.
気密服のヘルメットの内側に、そんなメッセージが表示される。壁のセンサー横にあるディスプレイにも同じ文字列が踊っていた。
すると無骨な扉の中でゴゴ、ゴゴ、ゴゴゴ……と大げさな音が発生する。いくらか待つとひとりでに扉は開いていく。カグヤは重い機密服に辟易しながら部屋の中へ入る。
厳重な扉と扉の間に挟まれたちいさな部屋。無菌室の前のエアシャワーのような印象。壁一面には様々な計器が配置されている。中にはコンソールがあり、カグヤはそれに手を伸ばしていくつかの操作をする。
すると重く感じていた機密服が徐々に軽くなっていくのを感じる。
計器に表示されるメッセージを見る。
元は1/1Gと表記されていたものが1/6Gに変わっていく。
都市や壁内を満たす、地球と同じ数値に設定されている人工重力。この部屋にも届いていたそれをオフにすることで、月本来の重力がカグヤの身体を縛っていた機密服の重さを軽減していく。
それが済むと扉のロックが解除される。扉を抜ける。再び扉と扉に挟まれたちいさな部屋。今度はエアロックだ、この先は真空の世界が広がる。
コンソールを操作し、しばしの間を置いて、カグヤは機密扉を抜ける。
視界は漆黒の空とまばゆい大地のツートンカラーで覆われる。
真空の世界――月の表層だ。
白銀の大地の上から、カグヤは宇宙を見上げる。
空に広がるのは底の見えない井戸をひっくり返したような、終わりない暗黒だ。その中には散りばめられた星明かりが点在している。
キラキラ、キラキラと。
恒星の光を反射し、ちいさな宝石のようなきらめき。
その中に、かつて名だたる宇宙飛行士たちが巣立った母なる大地の存在は、ない。
理由は単純。
ここ月面都市〈リュウグウ〉は、月の裏側に建設されているからだ。
公転の関係もあって、ここから地球を見上げることは叶わない。
「……………………」
カグヤはそんな母なる大地のない宇宙を見上げ、両手を開き、ちいさく深呼吸をする。肺いっぱいに気密服に仕込まれた酸素の味が広がる。決して美味くはないが、安心する。
二度、三度と深呼吸を繰り返したのち、近くにある四輪の月面探査車に乗り込む。
手慣れた仕草で充電量を確認し、ハンドルを握る。
「行くか」
カグヤは向かって左側を見る。そこには月面都市から伸びる巨大なパイプ状の通路が存在する。それに沿うように、カグヤは月面探査車を走らせる。
「……待ってなければ、いいんだけど」
独り言を聴く者はどこにも居らず、摩擦で溶け落ちる星屑のように、言の葉は霧散した。
***
都市内を走るリニアカーを降り、ナギは少年の背が消えた壁へと向かう。
そこは人通りの少ない……というか皆無の路地だ。ナギの足音の他に物音は存在しない。音を立てることに出処不明の後ろめたさを感じながら、その壁にたどり着く。
継ぎ目のないフラットな壁だ。その上部はドーム状の天蓋と繋がっている。天蓋は薄暗さを増した夕闇の色……黄昏時を迎える地表を再現している。ナギの立つ場所から見れば壁と空の境界が鮮明で、きっと払拭できないであろう違和感を纏っている。
「……………………」
ナギはおずおずと手を伸ばし、少年の消えた壁に触れてみる。
指先にチタンのひんやりとした感触。その冷たさに、思わず手を引っ込めてしまう。
「……む」
ナギは引っ込めた手をぎゅっと握りしめ、首を振って、もう一度手を伸ばす。
指先が壁に触れる。今度は離すことなく、つい、と指先を滑らせていく。冷たく堅いチタンの感触。なんの取っ掛かりもない。
(妙ね。この辺だったはずだけど)
記憶の中、少年がぺたぺたと触っていた場所を探る。
(……もうちょっと横かしら?)
手探りの範囲を広めてみることにする。
つつ、と指を滑らせていき、
――認証エラー:権限がありません
視界の中、そんなアラートメッセージが表示される。
ナギの口角が微かにつり上がる。
「ここね」
指を離す。やはりただの壁に見える。目印の類もない。
試しにノックをしてみる。
(……反響はなし、か)
壁が分厚いためか、裏側が空洞であるはずなのに反響音を捉えることができない。少年の後ろ姿が消えていく様を自分の目で見なければ、区画の存在など想像することもできなかっただろう。
ナギは指先が捉えた辺りに、マーカーを置いておく。ナギの視界にのみ『月で餅つきをするウサギ』のマークが表示されるようになった。これで壁から目を離しても見失うことはない。ちなみにこの『月で餅つきをするウサギ』のマークを選んだ理由はあまりない。趣味だ。
数歩、後ろに下がる。
視界の中で時刻を確認する。
16:35。
「……あとは戻ってくるのを待つだけね」
腕を組み、近場の壁にもたれかかる。
帰ってきた少年に向けてなんて言ってやろう? どういう反応を示すだろうか。
「クス……」
嗜虐的な笑みがナギの口元に浮かぶ。けれど長くは続かない。
ナギの瞳が再び時刻に向く。
16:36。
「…………。……何してようかしら」
待ちぼうけを食らったこどものような声でつぶやいてみる。
白鳥の飛び去った水面の波紋の如く、独り言は静かな都市に飲まれていった。