妖精の見る夢……002
「ひかりの……にわで……」
早朝の月面都市〈リュウグウ〉。
一際背の高いタワービルの屋上、歌を口ずさむ少女の姿がある。白いセーラー服姿のウェーブがかった髪の少女は誰あろう『期待のアイドル』へと昇格を果たしたナギだ。
昨夜は遅くにベッドに入った。すぐさま深い眠りに落ちたが、しかし理由なく朝早く目が覚めてしまった。ベッドの上で二度寝を決め込もうとしても眠気はすっかり失せてしまっていた。だからこの場所まで足を運んで月面都市を見下ろしていた。
生まれ育った都市を。一三年間、生きてきた都市を。
誰もがアイドルになれる、その都市を。
「みちかけ……くりかえす……かたわらで……」
口ずさみながら昨夜のフェスを振り返る。あまりにも満ち足りた時間だった。万華鏡の中みたいな極彩色の一日だったが、振り返ってみればただ一言で表現することができる。
(……大変だった…………)
大変。本当にそれに尽きた。
すべてのステージが終わったのち、参加したアイドル全員がステージに横並びに立って、ランクアップを果たしたアイドルが順にスポットライトに照らされる演出があった。
ステージに光の柱が立つ度に歓声が湧き、照らされた少女は光の下で同じ表情をする。とびっきりの笑顔だ、自然体の。
……ちょっとだけ自信はあった。自分も照らされるだろうなーって。
しかし同じくらいに不安もあった。当たり前だが、照らされない少女の方が多いのだ。ずっと心臓が止まっていたような気がする。とても生きた心地がしなかった。小心である。
けれど、呼ばれた。ナギと。そして光に包み込まれた。
「てゅふっへ……」
思い出していると気持ちの悪い笑みが溢れる。くしゃくしゃと歪んだ顔を、
「えへへ……あう、止まんない……もー……」
両手で覆う。弛緩した頬は隠しきれなかったが。
――報われた、と。そう思ったのだ、光に照らされた瞬間に。
いや……正確にはその瞬間に訪れた気持ちじゃない。
ステージで歌を終えた時、歓声や拍手に笑顔が迎えてくれた時から思っていた。あぁ、満たされた、と。たったの一週間のアイドル活動。けれど精一杯、まっすぐに取り組んだ。
はじめは口実だったが、きっとレッスンの初日から口実という言葉を忘れていた。なぜならきっとプロデュースを引き受けてくれたカグヤが真剣だったからだ。
衣装を作るトリトンも、歌を作るイオも。ひたむきに向き合ってくれた。
それに応えたい。応えなきゃと、そう思うようになったのだ。
その末に生まれた『G線上のフルムーン』という歌を歌って、そして――報われた。
三ランクの昇格。前例のない話だ。
晴れて『期待のアイドル』になったナギはこれからステージをする度、けっとしぃと同様の動員を見込めるようになってしまったわけだ。
見上げるばかりだった存在と、同様の。
「……てゅふ」
そりゃ気持ちの悪い笑みも浮かぶというものだった。
けれどにやけてばかりもいられない。アイドルはカグヤの側に近づくための口実だったはずだ。本当の目的の方はどうだ、一週間もの時間を使った成果は。
……とても芳しいとは言えない。
というかほぼゼロだ、全く前進できていない。
なんて体たらくだろう、口実だったアイドルの方に夢中になってしまうなんて。
ただ、しかし、けれど。
「ま、悪くない……かも」
カグヤと出会ってからの七日間を、ナギはそう総評した。
偽りない気持ちだった。カグヤに声を掛けるために、この屋上から駆け出したあの時の自分を少しだけ褒めてやりたいとすら思う。思えばこの屋上からあの壁を見下ろして始まったのだ。
……と、拡張視界の中、壁に動きがあった。
ズームしてみる。
カグヤの姿だ。
「ん? ……、……あ」
彼が『外』へ出、都市に戻ってくるまで、平均して六時間強の時間がある。いつも夕方から夜中に掛けて『外』で時間を過ごしている。昨日はその時間帯に開催されるフェスに付き合ってくれたため、中止にしたのかと思っていた。
けれどそうではなかった。フェスが終わった後に『外』に出たのだ。
ナギが寄宿舎に戻って、眠りについて、目が覚めて、それからこの場所に来るまでの時間……カグヤは『外』で過ごしていたのだろう。
「……………………」
銀髪の少年が都市の内部を走るリニアカーを拾い、そのリニアカーが見えなくなるまで、ナギは真剣な目て眺めていた。
やがて拡張視界のズームを切って、都市をぼんやりと見てみる。東の空に上り始める陽の光に照らされていく、閉ざされた月面都市を。
いくらかの沈黙。それから口を開く。
「……あの人のこと、ちっとも知らない」
カグヤ=ウエマツ=マクブレインはあまり自分のことを話そうとはしなかった。この七日間で知った彼のことなんて、思っていた以上に面倒見がいいことくらい。
どんな曲が好きで、どんな色が好きで、どんな映画が好きなのか。
気を許せる友達が何人いるのか。……『外』で何をしているのか。
「ちっとも知らないままなんだ、わたし……」
もう一度つぶやく。
知っていることなど、せいぜい――意外とお子さま舌ってことくらい。
そんなことを考えるナギの表情は、どうしてか、笑っていた。
ナギは立ち上がる。
両手を広げる。
都市を見下ろしながら胸いっぱいに思う。
「――はやく真夜中になーぁれ」
あまりにも無垢な笑顔が、そこにあった。