月面上の少年少女……001
月面都市〈リュウグウ〉。
直径九〇〇〇メートル、最大高さ四〇〇メートルのドームの内側には多くのビルが立ち並んでいる。材質こそ高純度なルナニウムでできているが、地球上のビル街の景観とそう変わりはない。合成映像の黄昏空がビル街を朱色に染め上げる様を、一際背の高いタワービルの屋上から、純白の少女が眺めていた。
「……………………」
やたらと白い肌。襟やスカートの色まで白いセーラー服姿で、白いニーハイソックスを履いている。ウェーブがかったボブカットの髪と学年を示す赤い校章、それから茶色いパンプスが少女の『白』を引き立たせるアクセントとして機能している。
切れ長の瞳は何か気に入らないことでもあるのか、挑むようなつり目だ。
もっとも少女――ナギ=シフォン=テラサキは不機嫌というわけではない。
素であり、地だ。ナチュラルなのだ。単純に目つきが悪く、姿勢の良さも相まって同世代の少年少女たちは彼女に『ちょっと恐い』という印象を抱く。大人からすれば『少し生意気そう』といったところだろうか。
階下のビルを見下ろすこの瞬間の姿勢も普段と変わりなく仁王立ちだ。
一際高いビルの上から仁王立ちで都市を見下ろす少女。まるで悪役だ、絵になりすぎている。幸いなことに異様に見栄えするこの様を見る者はいないが。
「……………………」
ナギの不機嫌そうな視線は都市から少女自身の足元へと移る。
無粋な手すりやフェンスの類のない屋上の端。二〇センチもないちいさな靴の先端からビルの外側までほんの数センチも離れていない。わずかでも傾けばすんなりと転落できそうな位置取りだ。
そこでナギはふと、片足を持ち上げて、そのままビルの先に伸ばす。
くらり、と身体が傾く。
前へ、ビルの外側へ、空の中へ――
すると、
――マップエラー:次の項目を参照できません。
――参照できないオブジェクト:〈床〉
視界の片隅にそんなエラーメッセージが表示され、外側に傾いた身体は何者かに引っ張られたかのようにビル側に傾き、そのまま尻もちをつく。
「あたっ……」
ナギは大して痛くもなっていない尻をさすりつつ、
(……ま、ホントに落ちたら困るわけだけどさ……)
胸中でそんなことをぼやいた。
フィルタリング機能のおかげで、月面都市〈リュウグウ〉創設以来ただの一件も事故がないと聞いている。
これだけ精密なら、そりゃそうだろうな。そう思いつつナギは都市を見下ろす。
朱色の都市のあちこちに、出し物でもあるように人の流れが集まっているのが見える。アイドルたちのステージだ。ここから適当に見回すだけで両手の指の数を越える。
この月面都市リュウグウの中においては珍しくもない日常の光景だ。
ナギの視線はそうした珍しくもないアイドルたちでなく、その向こう側――合成映像の空の『終わり』に向けられる。ドームの天には当然、壁に接する箇所がある。空の果てと詩的な表現をすることもできるが、ナギは単純にドームの外周と呼んでいる。
そのドームの外周。ルナニウムとチタンで構成される壁の一箇所。
壁に手を置く人影があった。
「……………………」
ナギは両手で輪を作って目の前にかざす。視界がより鮮明になり、人影を中心にズームアップしていく。視界の片隅には『x2...x4...』と小刻みに変わる倍率が表示されている。最大は一六倍だ。ナギは六倍でズーム機能を停止。
人影は少年の物だった。身長は一七〇センチ弱ほどで体型は細め。服装は飾り気のない男子学生のそれだ、あまり目を引くような後ろ姿ではない。
背中に括った、男子にしては長めの髪が月のような銀色をしていること以外は。
「みつけた」
ナギはつぶやき舌先で唇をぺろりと撫でる。
少年は壁をぺたぺたと触る。すると壁が横開きのドアのように開いた。壁の先の空間にはチタンの冷たい質感があった。少年は空間に身体を運んで、振り返る。これから後ろめたいことをする人間みたいに周囲をきょろきょろと見回す。その際にナギには少年の顔が見えた。中性的で整った顔立ち。長い銀の髪のこともあって性別を誤認することもありうる。ナギとて事前に彼を知っていなければ騙されていたかもしれない。
少年がふたたび後ろ姿を晒すと、開いた壁がゆっくりと閉まっていく。それを確認し、ナギは視界の倍率を戻してから立ち上がる。
「みーつーけーたー」
二度目のつぶやき。口にしてから視界の端に目を凝らし、視界に時刻を呼び起こす。
16:25。
それだけ確認した白い少女は身を翻し、エレベーターに向かった。