1章 想いの発露 ①
観咲が階段を降り切った時、男は既に在人の傍に立っていた。
在人が倒れている。そう認識した途端、彼女は走り出していた。まだ2人との距離は開いているため、男は観咲に気付いていないようだった。
「おらぁ!」
男は在人を蹴り飛ばし、力なく横たわる身体をなおも痛めつける。
在人の身体は宙を飛び、砂を巻き上げながらグラウンドを滑った。
観咲は、駆け寄ろうとした。たとえ何もできないとしても、在人を守りたい。その想いだけで足を進めようとした。
――――本当なら、環奈ちゃんが――――
守れたとしても、自分が傷ついたら在人は気にするであろうことはわかっている。2人はお互いが、あえて言えば特別だった。
――――でも、今は私しか――――
しかし、動く前に、砂利をこする音が聞こえた。
「在――――」
瞬間、背筋がぞくっと震えるような感覚。
観咲の視線の先で、ゆっくりと立ち上がる在人。
その動きは普通の人が見れば、なんとか立ち上がる姿に見えるのだろう。しかし、観咲には、まるで幽鬼のように、在人自身の意思が感じられない動きだった。
「ハッ! なんだよ、まだやれんのかぁ?」
実際、男の方は何も感じていないらしい。
観咲には、在人の周りにわだかまるような黒い何かが見えているのに……。
「お……、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――――」
在人は、意味の取れない雄叫びをあげる。
自分を奮い立たせる叫び、などと考えることは観咲にはできなかった。
「なんだよ……そいつは……」
どうやら、今度は男にも見えているらしい。
在人から吹き出すように現れた黒いものが、在人にまとわりつく様子が。
「おおおおおおああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――」
在人にまとわりついた何かが、どう猛な獣のような姿に形作られていく。背中には翼のようなものができ、手や足の先には爪のような鋭利なものができている。叫び声も、何かの鳴き声のような、聞いたこともないようなものへと変わっていた。
もはや在人の姿は見えない。完全に飲み込まれている。
「ダメ……。それは……」
観咲には、それが何かはわからない。ただ、私の中の何かが告げていた。
――――あのままではいけない、と。
「っがぁっ!」
在人だった何かは、一瞬で男との間を詰めると、男を殴り飛ばした。
出鱈目な力で大きく殴り飛ばされた男は、受け身も取れずに転がっていく。
「くそが!」
ようやく止まった男は即座に立ち上がりながら腕を振り払う。すると、在人だったものの周囲で激しい爆発が起こった。
「へっ! 化け物が!」
男は吐き捨てるように言った。
しかし、観咲には何故かわかった。在人は今の爆発に巻き込まれていないと。
観咲が目を向けた先で、翼を広げたそれが、何かを撃ち出す。まるで散弾のように羽が射出されているようだった。
「なっ! うぐぁぁ!」
男は死角からのその攻撃を避けられず、砂煙とともに吹き飛ばされる。
「ルアアアアアア!」
それは、またも高速で移動し、男を空中で掴むと、遠くへと投げ飛ばした。そして、着地前にその先で待ち構え、殴って地面に叩きつけた。
「ごっ……う……」
男はうめき声をあげることしかできずにいる。あれほどの攻撃をまともに食らっていれば、それも仕方がないだろう。何せ叩きつけられた時、そこにはちょっとしたクレーターができていたのだから。
何もかもを飲み込み、暴風のように吹き荒れる災害を前に、男は爆発を起こすことすらできずにいた。
「ルアアアアアア!」
それは男を何度も何度も踏みつけ、大きな鳴き声を上げる。
鳥のもののようにも四足獣のもののようにも聞こえる不思議な声が空間を震わせ、びりびりとした衝撃がグラウンドに置かれていた道具や設備に傷を付けていく。
既にまともに動けない男に向けて、それは爪のようなものを振り下ろそうとする。
それはおそらく、とどめの一撃……。
ぼんやりと、理解していたのだろう。
――――殺ス
今の自分は、自分じゃないのかもしれない、と。
――――殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス
だから、何かが変わるのなら、何かが終わってもいいのかもしれない。
――――殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス
そんなことを思ってしまった。
――――殺ス殺ス殺――――
でも、彼女が映った時、そこにあったのは、決して、終わるべきものではなかった。
―――――やめろ―――――
少年は、手を伸ばす。
守るためではなく、もう一度、もう少し、変わらないために。
彼が誰かのために戦うのなら、支えてあげたいと思う。
彼が自分のために戦うのなら、信じてあげたいと思う。
彼が彼のまま選んだ道なら、他の誰が否定しても、私は肯定し続ける。
だから、それだけはダメ。それは、いけないもの。そう、この目が教えてくれる。
きっと、あなたはまだ、そんなものに頼っちゃダメなの。
だから……。
「ダメッ!」
いつの間にか駆け寄っていた観咲がそれに抱きついた。涙を流して、縋り付くように……。
「やめて、在人。もう、……もういいの」
それは、観咲を振り払おうと体を激しく動かし、掴んでいた男の体を投げ飛ばす。しかし、観咲は離れない。
「ルアアアアアア!」
「在人!」
業を煮やしたのか、それは、腕を振り上げ、彼女を貫くべく、その首筋を狙う。
だが、肌に届く直前、その動きが止まった。
いや、正確には、その腕に突き刺さるもう一方の腕によって、動きを止められていたのだ。
「ギ……アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
その光景に観咲が戸惑ったのは一瞬だけ。しかし、その後には悲しそうな顔を浮かべていた。
なぜなら、貫かれた場所から流れていたのは、黒い何かとは似ても似つかない、真っ赤な血であったから……。
その時、深淵から湧き上がるように、声が聞こえた。
『……随分と、……好きにやってるようだが……、いい加減に……して、もらうぞ……!』
ギリッ、と抉り込むように、突き刺した腕が少し捻じられる。骨が軋むような音を出す腕の痛みに、それは叫び声をあげる。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアあああああああああああああああああああ!」
その咆哮は、次第に人の声を取り戻していった。それに伴って、黒い何かは霧散していき、後に残ったのは、片腕に大穴を開けて血を流し、荒く息を吐く在人の姿だった。
「はぁ……、はぁ……。大……丈、夫か?」
「……ええ。もちろん」
観咲は、目尻に涙を残しながらも、在人に笑いかけて見せた。




