彼女は過去を夢想し、彼は停滞を望む
「お帰りなさいませ、ご主人様……」
返事は無い。
いつものように、氷のように冷たい瞳でじっと私を見つめるだけだ。
彼はそのまま、部屋から出ていってしまう。
残されたのは私一人だけ。
「どうして、こんな事に……」
灯りの無い暗い部屋に、私の呟きだけが木霊する。
ジャリ、と。四肢に付けられた鎖の音が鳴った。
◇ ◇ ◇ ◇
レナ・ハリスン。それが、今生での私の名前だった。
伯爵家の長女として生まれた私は、自分が転生者だという事、前世では男子高校生だったという事を隠して生きてきた。
よくある中世ヨーロッパみたいな時代に生まれた。
ラノベ主人公みたいなチート能力は無かったけれど、両親はとても優しく、私は女として生きていこうと努力した。
この世界では転生者が子供に乗り移った悪魔として討伐対象だという事を知った時は、絶対にこの秘密を墓まで持っていこうと決意した。
学校にも行って、友達が出来た。
この国の王子様らしく、金髪で、とても整った顔をしていた。
まあ、私も顔には自身がある。
燃えるような赤い髪を短く切り、鋭い目つきをしたカッコいい系の女だ。
やがて前世の私の年齢だった16まで成長すると、婚約の話を両親から持ち出された。
これまではのらりくらりと避けてきた話題だったが、遂に捕まった。
両親に連れられて行くと、そこは王城だった。
相手は、あの王子様だったらしい。
確かに、私と彼は仲がいい。
彼の弟と妹とも小さい頃から知り合いで、幼馴染と言っても過言ではない。
でも、私の心はまだ男だった。
男と結婚だなんて、ましてやその先だなんて、正直考えられない。
だから私は、皆が居る前で秘密を話した。
悪魔がどうこうは、これまで築いてきた私の人望でどうにかなると思ってた。
皆優しいから、受け入れてくれると思ってた。
「騙してたの? 女の振りをして、私に近づいて。
そう言えば、一緒にお風呂入った事もあったよね……? い、いやああああ!!!」
「嘘よ……レナが悪魔だったなんて……」
「しっかりしろ! おい悪魔、レナから出ていけ! その子の体はお前の物ではない!!」
「ち、ちが……」
「悪魔を捕らえろ!」
「待って! 話を聞いて! 父さん! 母さん!」
そこからの事は、よく覚えていない。
暗い場所に幽閉されて、沢山痛みを感じた気がする。
そして、気づけば鉄の首輪を付けられてて、ご主人様が目の前に居た。
よく笑う男の子だった。
兄と違って剣が得意で、私と良く模擬戦をしてたっけ。
「今日から、俺がお前の主だ」
第二王子。
いつからか名前ではなくそう呼んでいた彼が、冷たい瞳で私を見下ろしていたのだ。
彼は私を部屋で飼った。
服を着せず、四肢を重い鎖で繋いだ。
「お前の世界の話を聞かせろ」
私は彼に地球の事を色々話した。
きっと彼は、私から異世界の情報を知ろうとしているのだ。
飽きられたら、どうなるか。
死にたくない。その思いで、私は飽きられないように、言葉で、仕草で、体で、彼に奉仕をする。
どうして、こんな事になったんだろう。
決まってる。私が間違えたからだ。あの時秘密を話さず、大人しく王子と婚約しておけば、私は幸せなままで居られたのに。
私は戻りたい。
過去に。あの、輝かしかった過去に。
◇ ◇ ◇ ◇
「なあ、レナはどうしてる?」
「兄さん、もうあいつに名前は無いですよ」
「そう……だったな。じゃあ、お前が買った奴隷は今、どうしてる?」
「何もしてませんよ。普通の生活をさせてるだけです。兄さんの首尾はどうですか?」
(奴隷としての、だけどね)
「ああ、こっちは順調だ。信頼できる協力者とも連絡を取れた」
「そうですか、頑張ってくださいね」
「ああ、俺は必ず、レナを取り戻す。それまで、あいつを頼む。……こんな事をさせてしまって済まない」
「どうって事無いですよ。それでは」
馬鹿な兄だ。僕はもう、あいつを手放す気は無いというのに。
「お兄ちゃん」
「どうした?」
「いや……奴隷の事なんだけど」
「奴隷がどうかしたのか?」
「な、何でもない!」
愚かな妹だ。だが、感謝もしている。
妹があの場で騒いだお陰で、僕はレナを手に入れる事が出来た。
転生者が悪魔ではないと証明しようと手を回している兄と、それに秘密裏に協力している妹。
それまで安全な場所に保護するという名目で、レナを奴隷にした僕。
協力者が僕の手の者とも知らずに無駄な努力を続ける兄も、罪悪感から生意気な口を叩かなくなった妹も、見ているだけで愉快だ。
「お帰りなさいませ、ご主人様……」
レナは、僕の奴隷だ。
子供の頃から僕に模擬戦で負けた事が無くて、いつも対等な立場で接してきて。
いつからかは分からないけど、恋をした。
自覚してすぐ、兄と婚約すると知った。
あの時は、世界を呪った。
でも、世界は僕に微笑んだ。
レナが転生者だと、元の性別が男だと知って、妹が騒ぎ出した。
あれよあれよと言う間にレナは幽閉され、肉親に拷問を受けていた。
僕は、どうしてもレナを手に入れたかった。
「お前の世界の話を聞かせろ」
伯爵家はもう無い。
一年前に謎の放火が起きたからだ。
「えっと、じゃあ……」
元の世界の話をする度に思い出しているのか、レナの表情は少し柔いだものになる。そしてすぐ、今の現実を叩きつけられて、絶望に染まる。
一度足りとも勝てなかった相手を、首輪を付けて跪かせる感覚。
心に背き、生きるために僕に奉仕するあいつの表情。
僕の今は、輝いている。
手に入れたい物を手に入れて、それを手放さない準備を整ってきている。
離さない。
僕は停滞を望む。
兄と、僕と、妹と、あいつ。
皆で笑い合う日々など、僕には要らない。