王子様を可愛がっていたはずなのに、気づけば私が可愛がられていた
「こちらが今日から一緒に暮らすことになったヴィレイス様だ」
突然の父の言葉に、私は目を何度か瞬かせた。
そんな私の視界には真っ白の絹糸のような髪が光を弾き、きらきらと輝いている。
特徴的な碧色の目はすべてを拒絶するかのように、床に敷かれている赤い絨毯をじっと見下ろしていた。
「え? お父様?」
ちょうど父が帰ってくる馬車が見えたから、何の気なしに出迎えただけだったのに。
なぜか、父の横には少年がいた。 そして、なぜか紹介されている。
なるほど。どうやら私たちはこれから彼と一緒に暮らすらしい。
……意味が分からない。
説明を求めるように父の顔を見上げれば、なぜか父は何もかもを諦めたような、淡い笑顔を浮かべている。
もう、なにも聞いてくれるな。
父の顔にはそう書いてあった。
「……クライフ伯爵家の長女、ルフィナです。これからよろしくお願いします?」
「……ヴィレイス・リンドです」
「うん、よし。二人とも仲良くな」
そんな父の気持ちを察しながらも、よくわからなさすぎて、あからさまに戸惑った挨拶になってしまう。
少年は戸惑ってはいないようだが、相変わらず絨毯を見つめたまま挨拶をした。
なんとも微妙な空気。けれど、父はそれを吹き飛ばすようにはっはっはと笑った。
「とにかく夕食にしよう」
空笑いを響かせたまま、父が歩き始める。
少年はその後を追い、私もそれに続いた。
***
そうして、よくわからないままに一緒に住むことになった少年。彼はなんと、歴とした、わが国の現在の国王陛下の子息であった。
うん。つまり王子様。
けれど、なぜか彼の姓は王族が名乗るものではなくて……。
それは、彼の出生にいわくがあったからだ。
彼の母親はなんと平民であったらしい。
つまり国王陛下は正妃様がいらっしゃるのに、違う女性に手を付けたわけであり、なんだかもう考えれば考えるほど、遠い目をしたくなる。
だから、彼は国名を有する姓ではなく、母方の『リンド』という平民の姓を名乗っている……と。
「なんかもう……なんなの……」
微妙な空気の中、父が空笑いをして終わった夕食。
自室に戻ると、母がやってきて、あらましを説明してくれた。
できれば、もっと早く教えて欲しかったが、本当に突然決まり、しかも彼は存在も秘匿されていたために、私に話す時間がなかったのだと言う。
だから、まあ、それについては仕方ない。
でも、胸にあるもやもやはなくならなくて……。
「なんで、あんなに小さい子がこんな目に……」
そう。それは彼のこれまでのことを思ってのものだ。
彼の人生があまりに波乱万丈すぎる。
まず、手をつけた平民の懐妊を知った陛下は、それなりの対処はしたらしい。
親子は市井から離れ、東にある王領の小さな屋敷で暮らすことになった。
しかし、そこで問題が起きる。
親子が隣国へと亡命してしまったのだ。
国王陛下の落胤のことはもちろん内密にされていたが、どこかから漏れ、隣国のものが母親に近づいたのだろう。
そして、亡命した親子は外交の道具として使われ、どんなことがあったかはわからないが、子供だけがこの国に帰ってきた。
その時の彼は三歳。
そこから約七年。十歳になる今まで、彼は監視され、王宮の一室にずっと閉じ込められていたらしい。
真っ白の髪と同じような真っ白な彼の肌。
あれは、ずっと外に出ず、陽の光を浴びることがなかったからだろう。
十歳にしては小さな体は動く範囲が狭かったから。
もしかしたら、食事もあまり取れなかったのかもしれない。
彼のことを考えれば考えるほど、胸の中がぐつぐつとする。
それを抑えるために、右手を握り、ぐっと奥歯を噛んだ。
父が彼をどうにかしてここに連れてきたのだろうということはわかる。確かに、王宮に閉じ込められているよりはよっぽどいい選択だったと思う。
先ほど話してる感じであれば、母も納得しているようだった。
「……私が、彼にいろいろなことを教えよう」
うん。私が、たくさん彼に見せてあげよう。
陽に照らされる熱さも、草の匂いも。
水の冷たさも、転んだ時の膝の痛さも。
全部。全部。
私ももう十七だ。
いつ婚姻して、彼といられなくなってもおかしくない。
だから、十年分をぎゅっと詰め込んで。
これからの彼の人生がずっとずっと幸せになるように。
***
彼が来た次の日から、私は早速行動を開始した。
なにせ、私には時間がない。
わずかな時間も惜しんで、ずっと彼と一緒にいた。
一緒に朝食を食べ、一緒に庭を散策する。
男の子らしい遊びをしたほうがいいと思い、時には私が男装をして、一緒に走り回ったり、馬で遠乗りをしたりもした。
「ヴィレイス様、見えますか? あれが我が領自慢の小麦畑です」
今日の目的地は小高い丘の上で、そこからは小麦畑がよく見える。
まだ稲穂をつけていない麦は青々としており、ちょうど麦踏みの時期だったようで、倒れている麦とまだ踏まれずに、まっすぐに伸びた麦とに分かれていた。
私は跨っていた馬から降りると、護衛としてついてきている者に手綱を渡す。
そして、まだ馬に慣れていないヴィレイス様のそばにより、馬から降りるのに手を貸した。
「……きれいです」
馬から降りたヴィレイス様が目の前に広がる景色を見て、ほぅと息を吐く。
馬に乗って、足が疲れているからだろう。すこし足元はおぼつかないが、私がしっかりと手を握っているので、問題ない。
風が通り抜け、ヴィレイス様の絹糸のような髪がさらさらと揺れる。
興奮したためか、白い頬に赤みがさし、少しだけはにかんだ様子が……なんというか、もう。
「ヴィレイス様はとても可愛いです」
私は我慢できなくなって、ヴィレイス様の頭に手を置いて、よしよしと撫でた。
すると、ヴィレイス様は嬉しそうにそれを受け入れて、私をちらりと上目遣いで見る。私を伺うようなその仕草に大丈夫だ、と笑みで返すと、ヴィレイス様は考えるように少しだけ視線をさまよわせた。
「……僕のこと、もっと呼んで欲しい、です」
――小さな、小さな願い。
ヴィレイス様の初めて出た自発的な願いが嬉しくて、私は任せておいて、と頷いた。
「ヴィレイス様。ヴィレイス様はとても可愛いです」
そして、また頭を撫でる。
これからも何度でも呼ぼうと決めていると、ヴィレイス様は少し困ったように私を見た。
「……あの、もっと……あの」
「はい。私が叶えられることならば、何でも聞きます」
「では、その、……もっと親しく呼んで欲しい、です」
「親しく?」
「……はい」
ヴィレイス様の言葉に、なるほど、とこれまでのことを考えてみる。
確かに、たくさん一緒にいたが、私もヴィレイス様もなんとなくずっと敬語で話していた。
お互いの立場が明確にはわからないからだ。
ヴィレイス様は王子様なわけだが、それはきっとこれからも公表されることはない。すると、伯爵家の一人娘である私のほうが位が高いことになるわけで……。
だから、微妙な立ち位置の私たちはお互いに敬語を使っていたわけだが、それではなんだか距離が遠いような気もする。
「わかりました。では、これからは敬語もなしにしましょう」
「……敬語も、ですか?」
「はい。では行きますよ」
ぱちんと両手を合わせて音を鳴らす。
これが今までのことを捨て去った合図。
「ヴィレ。あそこの麦踏みに私たちも行くから」
「え、あ」
「ほら、ヴィレは私の名前を知っているでしょう? 呼んでみて」
「あ、……ル、フィナ」
「うん。ヴィレは可愛いね」
いきなり口調を変えた私に、ヴィレイス様――ヴィレは頬を赤くしながらも、必死で合わせてくれる。
その様子が可愛くて、またよしよしと頭を撫でた。
「足が疲れただろうから、少し休憩してから畑に行きましょう。ヴィレがやったことがないことはもっといっぱいいっぱいあるのよ。私がたくさん見せてあげるからね」
ヴィレの顔を見ながら、にっこり笑う。
そう。まだヴィレに見せていないものがたくさんある。
……ずっと一緒にはいられないけれど。
少しでもヴィレにあげられるものを探すから――。
***
――と、思っていた時が私にもありました。
すぐに婚姻すると思っていた十七から早七年。
気づけば二十四になって、立派な嫁ぎ遅れになっていた。
……なんでだろう。
社交界にも出たし、それなりに親しくなった人もいた。
けれど、誰ともそういう関係にはならなくて、気づけばずっと家にいる。
……自分が怖い。
「ねえ、ヴィレ、聞いてる? 私だって伯爵家の一人娘だから、婿入りしてくれる人が絶対いると思ってたの」
「そうだね。爵位が継げない次男、三男にとっては魅力的だね」
「そうよね? 魅力的よね? ……どうして誰もいないのかしら」
東屋にある長椅子に座り、はぁと溜息をつく。
私の隣に座ったヴィレはそんな私に微笑んで返した。
「僕がルフィナの魅力を一番わかってる」
「うん……ありがとう」
いつも私の味方をしてくれるヴィレ。
ヴィレと出会ってから七年経って、ヴィレももう十七歳になった。
あんなに小さくて可愛かったヴィレは今では私の身長を越し、肌は小麦色に焼けている。
お人形さんのような顔立ちはそのままなのに、真っ白な髪とのコントラストのせいか、その大きくなった体つきのせいかとても男らしい。
……どんどん変わっていくヴィレになんだか自分だけ置いて行かれているような気分になる。
はぁと溜息をつくと隣に座っていたヴィレが、テーブルに置かれたチェリータルトをフォークで小さく分けた。
そして、それを器用にフォークで掬うと、私の口元にそれを差し出して……。
「あーん」
「……ヴィレ」
とろけそうなくらい優しい笑みを浮かべて、私にチェリータルトを食べさせようとするヴィレ。
……さすがにこの年になってからそれはない。
だから口をなるべく開けないように、ヴィレの名を呼ぶ。
けれど、ヴィレはそんな私に構わず、ね? と首を傾げた。
「僕がしてもらって嬉しかったことを、ルフィナにもしたいんだよ」
……うん。そうだね。確かにしていたね。
ヴィレが可愛くて可愛くて、あーんもしたし、膝にも乗せたし、頭もたくさん撫でた。
でも、それはそれ。これはこれだ。
「あれはヴィレが可愛かったから。私は可愛くないからいいの」
「可愛いよ。ルフィナは世界一可愛い」
首を振って辞退しているのに、ヴィレは当たり前みたいに私の頭を撫でる。
そして、フォークでタルトを小さくすると、懲りずに私に向かって、あーんと言いながら微笑んだ。
……その笑顔がやっぱり可愛くて。
「……世界一可愛いのはヴィレだと思うけど」
溜息をついた後、そっと口を開ければ、そこにタルトが入れられる。
チェリーのシロップ漬けは甘酸っぱくて、周りのアーモンドクリームがほろほろと崩れていく。サクサクのタルト生地にはココアが含まれているようで、チェリーとの相性もばっちりだ。
「おいしい」
だから、にっこり笑ってヴィレに告げると、ヴィレも嬉しそうに目をとろけさせた。
「可愛い。ルフィナ」
幼いときよりもずっと低くなった声で私を呼ぶ。
そしてまた、タルトをフォークで小さく切り取った。
「あーん」
……もはや、なにも言うまい。
ヴィレが嬉しいのなら私も嬉しいし、チェリータルトはおいしいし、もう、細かいことは気にしないでおこう。
ヴィレが甲斐甲斐しく運んでくれるチェリータルトをぱくぱくと食べていく。
あっという間にお皿の上には何もなくなり、私のお腹には幸せな重さが増えている。
おいしかったな、とお腹をさすると、ヴィレがそう言えば、と言葉を漏らした。
「ルフィナのお婿さんになりたいっていう人はこれまでもたくさん来たよ」
「……えっ!?」
「何人も挨拶に来てる。で、クライフ伯爵がこう言うんだよね。『俺を倒したやつにしかルフィナはやらん』って」
「……え?」
ヴィレの言ったクライフ伯爵というのは父のことだ。
つまり、父が挨拶に来た人に決闘を申し込んでいるようなもので……。
……知らなかった。
なんかもう、今、聞いたこと全部知らなかったんだけど!
「おかしいと思ってたのよ! パーティーでいい雰囲気になって、家に挨拶に来てくれるっていうから、ちゃんとお父様に報告して、待ってたのに誰も来ないんだもの!」
そう。これまで挨拶をする、と言って、私がもう一度会えた人は誰もいないのだ。
社交辞令だったんだなと落ちこんでいたのに、原因は父であったらしい。
「お父様に勝てる人なんて……」
どうしよう。頭が痛くなってきた。
右手でこめかみを押さえれば、なんだか余計にずきずきしてきたような気がする。
だって、父はそれはもう剣が強い。
そもそもクライフ家は代々、武で名を馳せており、戦う領主として有名である。父もそれに漏れず武の人であり、私が少し活発に育ちすぎたのもそのせいだ。……うん、多分。
とにかく、父を倒せる男の人を探さないと、私の結婚は絶望的だ。
「どうしよう。私、可愛い人が好きなのに……」
その事実が余計に私の頭をずきずきと痛めつけた。
そう。人には好みと言うものがある。
私は強そうな人よりも、可愛い人が好きだ。だから、そんな人が父に勝てるとは到底思えなくて……。
「ルフィナ、ここに可愛くて強い男がいるよ?」
こめかみを押さえていた手をそっと取られる。
その声に促されるように、ヴィレへと視線を向ければ、真剣な碧色の瞳がそこにあった。
「本当はずっと伝えたかった。……ルフィナが好きだ」
低い声でまっすぐに告げられるそれ。
可愛いってだけじゃ言い表せない熱を持ったその瞳。
「ルフィナが可愛いって言ってくれる度に嬉しくて、そんな自分が誇らしくて……。この世界が。僕を否定するだけだった世界が、全部違う色に変わった」
その瞳が優しく細まる。
「昨日、クライフ伯爵からようやく一本取った」
……ヴィレが父から一本取った?
あの小さかったヴィレが。
腕なんか全然筋肉がついていなくて、外を走ったことがないから、擦り傷だって作ったことがなかったヴィレが。
「すごい、ヴィレ。すごいじゃない!」
思わず声を上げれば、ヴィレが照れくさそうに笑う。
いつからかしなやかな筋肉のついた体はいつもどこかに傷があった。それは毎日、剣の稽古をしていたからだ。
……ヴィレががんばっていること、ずっと知ってたよ。
少しずつ大きくなるヴィレが、私も本当に誇らしかったから。
「やっと伝えられる。僕がどれだけルフィナを好きか。どれだけルフィナのことだけを見ているか」
大きく成長したヴィレが、今、ここにいる。
可愛いだけだったヴィレが、私の知らない顔をして、まっすぐに私を見ている。
「僕にいつも愛を降らせてくれたあなたに。いつも優しくて、笑顔が可愛いあなたに」
ヴィレが私の手を握ったまま、長椅子から下り、そっと片膝をつく。
そして、ゆっくりと私の手の甲に唇をつけた。
「僕のすべてであなたを幸せにします」
……どうしよう。
ヴィレが男の人だ。
「……ルフィナ、顔が真っ赤だ」
ヴィレと一緒にいてこんな風になったことなんてないのに。
「僕をお婿さんにしてくれる?」
そう言って笑うヴィレは今までで一番可愛くて――。
――今までで一番格好いい。
4/19活動報告に父視点の小話をupしました