読書感想文廃止論について思うこと
読書感想文と聞いてみなさんはなにを思うだろう。
夏休みの宿題ではおなじみとなっている読書感想文。作文が得意な人ならともかく、大勢の人たちにとっては苦痛の所行であったろう。私もそのうちの一人である。
さして興味がない課題図書から適当な本を選んで、ペラペラと興味がない内容を読んで苦手な感想と言う名の作文を書かされる。時間がかかる宿題であったこれは、夏休み終盤に宿題をする人たちにとって鬼門の一つであるはずだ。
恥ずかしながら私も夏休み終盤に宿題をする人であったので大粒の涙を流しながら最終日に書いた記憶がある。今でもその忌々しき記憶は右手中指にペンたことなって刻まれている。今でもクッションがついていないシャーペンで書くととても痛い。
苦手な作文。教師にだめ出しされ書き直しを余儀なくされる感想。興味のない本の中身。
苦痛も苦痛でマイナスな記憶感想しか残らないこの読書感想文なるもの、はたして書いていて意味があるのだろうか。
こんな苦痛しか残らない宿題なんぞ、ただ本嫌いな子供を増やすだけの手段ではないか。
読書感想文に意味など無いのではないか。
読書感想文なんていらないのではないか。
そうだ、読書感想文を廃止しようではないか。
ーーなんて言うはず無いだろう。
確かに読書感想文は苦痛でしかなかった。小学校低学年まで文字だけしかない小説を読むのは苦手だった。それ故に読書感想文も苦手だった。
だからと言って読書感想文を書いて損があった、なんてことは一度も無い。
むしろ読書感想文をある程度書いていてよかったと思うことのほうは多々ある。
たとえば授業のレポート。たとえば小論文課題やテスト。卒業論文。企画書。報告書。
なんとなく適当に書いてはいるが、それだって幼少期にやった読書感想文やら作文やらがあってこそだと思っている。
では、なぜそう思うのか。次の章で話そう。
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読書感想文がなぜ存在するか。
それは、「他人に自分の考えを伝えるための文章を書けるようにするため」である。
高校や大学、社会人になった人はわかるだろう。小論文や卒業論文、企画書、報告書。「自分以外の人に自分の考えを文章で伝える」という行為は一生を通してやっていく。
学生時代、それをやらずに社会へぽんっと放り出された後、急に何か書けと言われても書けるわけが無いだろう。なにをどうやって書けばいいのか何もかもわからないのだから。
実際、私の知り合いで幼少期感想文やら作文やらをやらなかった人を知っている。その人がものすごい苦労をしていたのも知っている。
自分の考えを相手にうまく伝えられない。特に文章で書くことや人の前で発表することが苦手なようで、見ているこちらもどぎまぎしたものだ。
本人も、読書感想文や作文などと言った「相手に伝えるための文章」を書くことをしなかったが故に、このようなことが苦手なのだと自己分析していた。
読書感想文とはいったい何のために存在しているのだろうか。
それは先ほども言ったが、「他人に自分の考えを伝えるための文章を書けるようにするため」である。
では、「他人に自分の考えを伝えるための文章」とは?
まずは、自分の考えをきちんと伝えられること。そして、それを順序立てて書けること。
これが「他人に自分の考えを伝える文章」である。
こんなこと、初めてでうまく書けることができるかと言われたら無理であると答えよう。
自分の考えを伝えるってどういうこと?
順序立てるって何?
初めてなのだからわからなくて正解だ。わからなくて当然なのだ。
読書感想文では次のようなことを書かなくてはいけない。
一、選んだ理由。
二、自分の考え・思ったこと。
三、思ったことの理由。
だいたいこの順番で書けばいいのだ。これが順序である。これを誰でもはじめから知っていて、誰でもすぐに書けるのであれば読書感想文なんて必要ないだろう。
だが、実際はそんなこと無い。誰も知らないから練習するため、手っ取り早い読書感想文という形で書くのだ。
読書感想文でよくあることだが、「おもしろかった」とだけ書いて駄目だしをされる。なんてこともあったろう。
これは「おもしろかった」という感覚の話しだ。読んでおもしろかったなんて誰でも言える。
重要なのは「何が」おもしろかったのかなのだ。
たとえば「かわいそうなぞう」を読んだとしよう。
それに対する感想で「ぞうがかわいそうだった」と書けば十点満点中二点である。ちゃんと読んだ感想は言えているが何がどうしてそう思ったのかが、書けていないからだ。
たとえば、「死ななくてはいけないぞうがかわいそうだった」だとか「餓死するぞうがかわいそう」だとか、「殺さなくてはいけない飼育員がかわいそう」だとか。
かわいそうと思うポイントはたくさんある。どこでかわいそうだと思ったのか、それを書くのが感想文であり、他人に自分の考えを伝えるということなのだ。
作文が苦手な子が振り絞って書いた「ぞうがかわいそうだった」という一文。教師や審査官は決して否定しているわけではないのだ。その感想は合っている。しかし、知りたいのは「どうしてそう思ったのか」である。それが書ければ十点満点中七点であると、現役小学校教師の人が熱弁してくれた。
その感想を否定しているのではない。そこは勘違いしてほしくない。
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課題というものは好き嫌い関係なく強制的にやらなくてはいけない。
読書感想文は「本を読んでもらう」というよりも、「課題をこなす」という面の方が強いだろう。
本を読むことが苦手な子がいるから、本が苦手になるから読書感想文は廃止するべし。
そんな理論がまかり通るのであれば「算数が苦手な子がさらに苦手になるから算数は廃止にするべし」「国語が苦手な子がさらに苦手になるから国語は廃止するべし」そんなとんでも論がまかり通ることになる。
苦手だろうがなんだろうがやらなくてはいけないのが課題だ。幼いうちは嫌だからやらない。それでもかまわないかもしれないが、大きくなるにつれて嫌でもやらなくてはいけないことが出てくる。
嫌でも何でも課題なのだからやらなくてはいけない。それは子供だろうが大人だろうがいずれ来るべきことなのだ。
読書感想文では「本を読んで感想を書く」という課題だ。本を読んでおもしろいと思ったことを相手に伝えるための文章を書けば良いのだ。
知っている人もいるかもしれないが、課題図書というのは必ずそれから選んで読まないといけない訳ではない。マンガ以外の本なら図鑑だって良いのだ。
私も小学校教師の人から聞いて初めて知ったのだが、読書感想文は三つの分類で分けられるのだそうだ。
第一類は小説や童話などの自由図書。
第二類は一類と二類以外の図書。
第三類は課題図書。
この分類によって感想文は分けられその分類の中で審査される。ボクシングで言うならば階級別で審査すると言った所だろう。
ではなぜこのように分類によって分けられるのだろうか。
第一類である自由図書では読む前の先入観がある場合が多い。有名な著者の本だったり、以前読んだことがある本だったりと事前の知識やほかに読んだ人の感想を聞いている場合がある。そうすると読んだ人がどれだけ事前情報を知らされているかによって感想が変わってきてしまうのだ。
なので誰もまだ読んだことがない、読んだ人の純粋に思ったことを書いてもらうために第三類の課題図書があるのだ。
だが、だからといって課題図書を読まなくてはいけないわけではない。読むのが辛い、興味がないなら課題図書を読まなくても良いのだ。
恐竜が好きなら恐竜図鑑を読んで感想を書いても良いし、虫が好きなら虫の図鑑を読んだってかまわない。(これは私が決めたわけではなく実際に小学校教師の人が言っていたこだ。もしかしたら図鑑は駄目だとか言う教師もいるかもしれないが、ちゃんと感想文を書けるなら図鑑でも良いのだそう)
嫌なことでも課題は課題だ。苦痛を減らすことができるなら、このような抜け道だってあるのだ。
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読書感想文を書くなら作文を書けばいい。なんて言葉を聞いたことがある。
だが、作文の方が読書感想文より人の格差が出やすい物だ。
作文と言っても途方もないほど種類はたくさんある。何について書けばいい? どんなことを書けばいい? テーマはそこらじゅうにあって絞るのも大変だ。
では、テーマが決まったからと言ってそれは本当にそれで良いのだろうか。
たとえば「サッカーについて」がテーマだとしよう。
サッカーが好きな子得意な子ならスラスラ書けるだろう。しかし、サッカーをやったっこと無い子、苦手な子興味ない子は必ずいるだろう。
サッカーについての知識の有無で書ける幅は変わってくる。それは、その人の経験に基づいて書くので、知っている知らないで土俵が違ってくるのだ。
そんな文章を評価するのは大変難しい。土俵を同じにしてやれば評価もしやすければ指導もしやすい。
だからかなり程良い限定的なテーマでほぼ同じ土俵で見ることができる読書感想文が選ばれたのだ。
まあ、こんなこと子供たちにとってはしらんがなとしか言いようが無いがな。
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読書感想文に代わるであろう物として、「本の作者に感想の手紙を送る」があるらしい。
自分が好きな本の作者に手紙を送るのだそう。
私はこれについては反対だ。こんなことやるべきではない。
読書感想文は書いたものを審査する人がいるが、作者に手紙を送ったところでそれを審査する人もいなければ大量に送られて手紙に対して一つずつレスポンスが帰ってくるなんてこともない。
作者だって困るだろう。突然大量の手紙が届き、うれしかろうが読んでいる暇もなければ返事を書く暇も無い。
純粋に感想の手紙ならまだ良かろうが、さして興味もないのにとりあえず宿題だから書いたなんて文章だったら悲しいし、その作者に対する侮辱にもあたいする。私が教師ならそんな課題殴り捨てて絶対にやらせないだろう。
作者に感想を送るというのはその人にとって一大イベントにもなりうるのだ。それを嫌々で書いて送るなんてもったいないことさせたくない。
読書感想文なら、賞だったりコメントだったりとレスポンスが帰ってくるが、直接感想文を送るなんてしたってレスポンスが帰ってくる可能性は限りなく低い。そうしたらせっかく感想を書いたのにつまらないだろう。
読書感想文の苦痛より、そっちの悲しみを味わってほしくない。
百害あって一利無しだ。生徒も作者も嫌な思いをするだけ。あるのはそんな課題を出した人間の自己満足だけだろう。
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読書感想文が無くなれば、その一瞬は良かろうがその後後悔や辛い思いをするのは自分である。
はじめは簡単な感想を書くことからはじめ、読書感想文のような長い作文を書き、文章の書き方を覚える。そして作文は論文となる。
小論文などを一切書かない人生を歩むのは難しい。
はじめからできる人などいないのだから、小さなうちからこつこつとやり方を覚えさすのだ。
ここで一つ、誤解しないでほしいことがある。
読書感想文はその人の感性を評価しているわけではない。決してない。
感性はその人の物であり、数人の人が評価できるものではない。
読書感想文で評価しているのは「自分の考え意見をちゃんと書けているか」「どうしてそう思ったのか書けているか」「順序立てて書けているか」これらを評価しているのだ。
感想文を書くときの指導だってそうだ。「おもしろかった」というのはそう思ったのならそうだろう。では、どうしてそう思ったのか。それを書くように指導されているはずだ。
その一言の感想にチェックが入ったからと言って、その感想を否定しているわけではない。断片的にしか捕らえず、その部分だけ注目しないでほしい。
読書感想文なんて、と思っている人はこの文章を見て考えを改めてくれるとうれしいと思っている。
拙い文章だったが最後まで読んでいただき感謝する。