自称常識人、和田恭二と中二病転校生との心温まる交流
時間は公平だ。誰に対しても等しく流れている。
たとえクラスメイトでも、あるいは近しい友人であっても、俺という人間が知らない時間というのは確実に存在し、その間にも彼ら彼女らは知らぬ時を刻んでいる。
春、新学期。
始業式という大きな変革の時に風邪をこじらして休んでしまうという常識人としてはあり得ない失敗をしてしまった俺は、二年間も歩き続けてもはや慣れ切ったはずの登下校の道を、不安と期待の入り混じった、大げさにいえば新入生の気持ちで歩いていた。
心配することなどない。それは分かっている。
新年度とはいえ、我が鎌倉高校には、二年から三年時のクラス替えというものは存在しない。
担任も、世話好きながら嫌味でねちっこいあの鎌倉先生に違いないし、クラスメイト達もよく見知った顔のはずだ。
そう、なにも変わらないはずだった。
「や、和田くん。風邪治った?」
慣れない二階教室。二年の時と同じクラス番号を探して入ると、見知った顔が並んでいた。
声をかけてきたのは三浦弥生。
幼馴染の腐れ縁だ。眼鏡でセミロングの髪を高く結いあげている。
こだわりがあるのか、きまって緩い三つ編みに纏めているのだが、それが伊勢海老に激似と評判である。
しかし、これを口にするような命知らずは居ない。以前うっかり口にした俺が半殺しの目に遭ったことをみな知っているからだ。
「おお、弥生。平気だ。しかし変わないメンツだな」
感慨を込めて俺が言うと、弥生は妙な顔になった。
「どうした?」
「恭二は知らないだろうけどね、たった一人だけ、あんたが知らない人がクラスに加わったのよ」
「ふむ? 転校生か? どんな奴だ?」
俺の言葉に対する弥生の反応は、至極微妙なものだった。
「一見清楚な美少女風なんだけど……見ればわかるわ」
弥生はそう答えた。
ふたりの会話を聞いていたのか、周りの人間も微妙な顔をしている。
その時、ばん、と、扉が開かれた。
時が凍った。
そう感じたのは、けっして錯覚ではあるまい。
それほど。入ってきた女の子が纏う雰囲気は、それほど異質なものだった。
切れ長の瞳、真っ白な肌。
腰下に届く長い髪を、まとめもせずに流している。
――すべての造作が、美の理想形から寸分も外れていない。
そう錯覚させるような圧倒的な存在感が、彼女からは放射されている。
なにより、身に纏う漆黒のマント。
私服の学校とはいえ、そのあり得ない装いは、日常の象徴のような教室を、異空間に変えてしまった。
思わず呑まれ、立ちつくしていると、少女はすたすたと歩いてきて、俺の目の前でぴたりと立ち止まる。
「―――障害」
彼女は静かにつぶやくと、限界まで捩じった“奇妙”な手つきで髪をかきあげた。右手には、包帯が不自然に巻きつけられている。
「―――貴様、障害か」
「ほら恭二、邪魔だって」
あわてて弥生が俺の襟首を引く。
たたらを踏んだ俺を冷たい瞳で一瞥してから、彼女はすたすたと窓際一番後ろの席へ向かい、とんととん、と、机の三か所を不規則に叩いてから席に着いた。
「……なんだ、あの中二病を三年ほど熟成させたような非常識なヤツは」
「恭二が感じた通りだと思うよ。転校生の、自称畠山ディートリヒさん」
「なんだその名字と名前が喧嘩売り合ってるような自称は。というかどう見てもハーフじゃないだろうあのごっつきれいな黒髪とか特に」
「だよねー。自己紹介の時は輪をかけてすごかったよ。目元を隠しながらクラス全員を指差して、「貴様らに求めることはひとつ。わたしの障害になるな」とか――てうわあっ」
ひそひそと話していると、弥生が小さく悲鳴を上げた。
視線を追うと、畠山ディートリヒ(自称)がこちらを睨みつけていた。おもいっきり。
「ま、まあ、とにかくそういうことだから――ご愁傷様」
「ご愁傷様? なにがだ?」
弥生の謎の言葉に頬をかいて、俺は鞄を持ちなおす。
そろそろホームルームの時間だ。常識人である俺はチャイムが鳴ってからも席につかずにいるような非常識な真似はできないのだ。
「……そういや、俺の席はどこだ?」
問いかけた俺に、弥生はとびきりの憐れみの表情を向けてきた。
「畠山さんの前の席」
それは、俺のこれからの生活の展望に暗い影を落とすに足るバッドニュースだった。
◆
「――であるからして、この部分の訳は……」
英文の講義は、担当教師である鎌倉先生の淡々とした抑揚のない声と進行のせいで、集中して勉強するには性根の居る授業だ。
なんとなれば、まかり間違って眠ってしまったなら、陰険で粘着質な鎌倉先生の恨みノートが火を噴き、事あるごとにねちねちと嫌味を言われるからだ。
同じクラスの新田くんなど、一年生の研修旅行時にやらかした大遅刻のことをいまだに責められ続けている。
だから常識的で小心者な俺などは、いまだに背筋を伸ばして過剰に聞いていますよアピールをしなくては心配でシャーペンを机に置くこともできない。緊張と集中を強いられる授業である。
しかし今日に限っては、俺はまったく授業に集中できなかった。
なぜなら、後ろの席の転校生、畠山ディートリヒ(仮)が小声でぶつぶつつぶやき続けているからだ。
「障害め……くそっ、障害め」
微妙に涙声な気がする。
まあ常識的な俺からしたら、授業中の私語など信じられない行為だと思うのだが、転校生はお構いなしだ。
鎌倉先生の授業で、大胆極まりない。
もっとも、この転校生はまだ鎌倉先生の恐怖を思い知っていないのかもしれないが。
「畠山、私語は慎みたまえ」
思っていると、さっそく先生の声が飛んできた。
手にはきっちり恨みノートを持っていて、鉛筆でなにやら書きこんでいる。
がたり、と席を立つと、畠山ディートリヒは半泣きになりながら、なんと俺のほうを指差した。
「障害が……障害が」
「……なるほど。和田」
彼女の言葉を聞き、鎌倉先生は俺のほうに顔を向けた。
「お前の無駄にでかい図体が邪魔で、黒板が見えないそうだ。しゃがんで授業を受けろ」
理不尽だ。
このあふれんばかりの常識人で理非曲直をわきまえた俺が、こんなことで教師から非難の視線を受けることになるとは。
――そんなに俺の身長がうらやましいかこのチビ教師。
と言いたいところだが、小心者な俺は、教師の言葉に唯々諾々と従うしかない。
「結構だ」
なぜか恨みノートの別のページ(おそらく俺のページ)に何かを書き込みながら、鎌倉先生は授業に戻った。畜生。心を読めるとでも言うのか。
まったく、理不尽な。
なぜこんなに常識的な優等生が、ただ背が高いと言うだけで冷遇されるのだ。
そして畠山め。黒板が見えないくらいで延々つぶやき続けた挙句に泣くな。常識的で良心的な俺が割を食うなど理不尽極まりないではないか。しかも他の連中まで、俺が悪いみたいな視線を向けてくるではないか。
これもあいつが美人過ぎるせいだ。
おのれ畠山。俺の好みどストライクの美人でなければ、復讐を誓っていたところだ。
むろん常識人である俺は、復讐に置いても常識を逸脱するようなまねなどしないが。
さて、常識人らしくない戯言は置いておくとして。そうこうするうちに昼になった。
普段なら教室で弁当を食べるのだが、午前中通して、なぜかにらみ続けてくる畠山の視線に耐えきれなくなった俺は、弁当を持って学食へ向かった。
さりげなく、まるでいつものようにと言った風を装いたかったのだが。
「あれ、恭二、外で食べるの? 珍しいね」
空気を読めない幼馴染のために、その目論見は破壊され、俺は逃げるように教室を出る羽目になった。おのれ伊勢海老娘め。
◆
飯はいい。
腹が満ちれば、たいていの不安はどうでもよくなってしまう。
美味い飯ならなおさらで、我が母お手製の弁当ならば、もはやすべてが忘我の淵に消えてしまう。
――これでこの中二女さえいなければ、もっと最高だったのに。
と、こんな程度の愚痴くらいは許されていいはずだ。
「―――学食へ行くのか。ならば……案内しろ」
見かけだけは美人の彼女にそう頼まれては、極めて一般的な良識を持つ常識人の俺が断れるはずがない。
券売機のメニューの選び方が分からず(タッチパネル方式である)半泣きになっている彼女にごく常識的な親切心から、かわりに券を買ってやり、彼女が料理を受け取っているあいだに席を確保しておいてやった。
「余計なことを」
と口では邪険だが、尻尾があったらぶんぶんふってそうな表情の畠山ディートリヒ(自称)。なんというか、わかりやすい。
大きなスプーンを持て余すようにしてカレーライス(大)と格闘する姿などは、常識的な視点で見てもかわいいと思えるのだが、しかし高校三年生にもなってそれはどうなんだと突っ込みを入れたくもなる。
そんなこんなで、なんとなく。
腐れ縁的になし崩しに、俺は中二病少女の介護役に収まってしまった。
常識的に考えて、この年になって日常生活に補佐が必要だというのはどうかと思うのだが、なにしろその対象がすこぶるつきの美少女である。男として悪い気はしない。
「恭二よ」
「なんだ。畠山」
俺が応じると、こいつはきまって不満げな顔を見せる。
自分が名前で呼んでるのに、こっちが名字読みに不満があるのだろうが、常識人である俺はこの美少女を人前でディートリヒなどと呼び捨てることに多分のためらいと照れがある。
「恭二は、その……いつも、助けてくれる……盟友、だ」
あるとき、探るように口にした黒髪の少女の言葉に、俺は自然にうなずいていた。
「ああ。俺はお前の盟友だ」
しかし、この頃には、俺の心には少女に対する友情とはまた違った感情が芽生え始めていた。
当然だ。畠山ディートリヒはすこぶるつきの美少女だ。
常識に外れた行動が多いとはいえ、そんな彼女と四六時中いっしょに居て、やましい感情を覚えないはずがない。
いや、正直に言おう。彼女の容姿は俺の好み直球ど真ん中であり、排他的で見下ろしたような態度に隠された、少女が精いっぱい背伸びしたような必死さをかわいいとさえ思っている。正直男女の交際を申し出たい。
だが、それでいいのか、とも思う。
彼女には友達がいない。他の女子ともつるまない。
いま友人として彼女を支えられるのは俺だけであり、それを崩しかねない行為は……常識人としてはばかられる。
だが、好きなのだ。
ちょっと引いてしまうような中二病全開さも、日常生活に支障をきたすようなぽんこつさも、なにもかもが愛おしく思えてくる。
思い余った俺は、ある時ついに、幼馴染の三浦弥生に相談した。
最初驚いた様子だった弥生は、話を聞き終えると、がぜん目を輝かせた。
「あなたの決意が固いのなら応援するわ。むしろバッチ来い!」
なぜか謎のテンションで背中を押してくれる幼馴染の優しさがありがたい。
弥生はいい奴だ。彼女のことを非常識な趣味を持つ天然暴君とか思っていた俺は、自分の目の曇りっぷりに恥じ入るばかりだ。
ならば。怖いものは無い。
俺には好きな女がいて、応援してくれる友がいる。
迷う余地などない。非常識とののしられようが、ポジションをズルく利用したと言われようが、俺は彼女にこの思いを伝えるのだ。
熱い思いを胸に、拳を握りしめ、放課後を待つ。
そして放課後、「大事な用がある」と彼女を校舎裏に連れ出すことに成功した俺は、そこで常識をかなぐり捨て、あらん限りの勇気を振り絞って言った。
「俺のことを盟友だと言ってくれてうれしい……だが、畠山。突然で驚くかもしれないが、俺は異性としてお前のことを……」
「異性として?」
言葉の途中で、畠山がこくりと首をかしげた。
口を挟まれ、最初の勢いを失いながらも、俺は出涸らしの勇気をさらに絞って言葉を続ける。
「あ、ああ。異性として――好きなのだ」
後もどりの出来ない言葉を、告げる。
すでに勇気はからからだ。足が震えてその場でへたり込みそうになるが、みっともないところを見せられないと、ちっぽけな見栄だけで体を支える。
俺の告白に、畠山は美しい眉を困惑の形にひそめた。
「その、恭二の言葉は我にとりても喜びだが……我が、異性?」
時が凍った。
理解できない。
彼女がなぜ、不思議そうに首をかしげているのか。
理解できない。いや、彼女の言わんとすることはおぼろげながら脳が理解し始め、それがじわじわと全身に広がっているが分かりたくない理解したくないすればその後に待っているのは常識人としても男としても自殺を遂げたくなるような暴力的な絶望だけだ!
「盟友よ、我が魔貌に惑うたか。我の仮初の名は畠山夏樹……我は男だ」
衝撃が脳を揺らす。
すべての気力を振り絞った俺は、畠山から放たれた一撃に、脳を揺らされKOを食らったボクサーのように――その場に崩れ落ちた。
◆
「なーんだ、じゃあくっつかなかったんだ。残念」
土日を挟んで登校した俺から、事情を聴いた弥生の開口一番の台詞である。
すべてに絶望して引きこもりに陥りかけた俺に、その原因とを聴いた幼馴染の反応としては、常識を疑いたくなるものだ。
「お前な……もっと俺に優しくしてやろうという気はないのか」
「和田くんが畠山さんとくっついてくれたら、もっと優しくしてあげるわよ?」
「黙れ腐女子。さすがに恋愛感情など吹き飛んだわ」
クラスメイトの目が非常に温かい。
特に男連中に関しては、仲間を見る目に近いが、一月近く時間をかけて想いを育み、奈落に突き落とされた俺ほどダメージを受けた人間など居るはずがない。というか知ってたなら教えろ。
クラスメイトを睨みつけていると、渦中の人物であるところの畠山ディートリヒが、危うげな足取りで登校してきた。
「恭二……その、息災か?」
至極申し訳なさそうに言う、彼女――彼に、こちらが申し訳なくなる。
常識的に考えて親友だと思っていた同性に告白されるなんてショッキングすぎる事態だ。
「大丈夫だ。畠山こそ、すまなかったな。嫌な思いをさせて」
常識的に考えて畠山はその容姿が異常に美少女なだけで、スカートをはいているわけでもなく女性的なファッションに身を包んでいるわけでもない。だいいちディートリヒというのはドイツの男性名だ。ロングヘアだけが唯一非難に値するかもしれないが、それだって女装というよりは、中二病的なこだわりに過ぎないのだろう。
「いや……我も、魔貌……障害……」
小声でつぶやいてから、畠山ディートリヒは耳を真っ赤にしながら口を開く。
「我は、恭二のことを、まだ盟友だと思っている!」
横で「キター!」とか言ってる非常識な女は放っておくとして。
「お前がそう思ってくれてるのならうれしい。あらためて、盟友になってくれるか?」
厚かましくも手を差し伸べると、畠山はうれしそうに握り返してきた。
「ようこそ男の世界へ」とか言ってる幼馴染は無視しておくことにする。
と。唐突に、鎌倉先生が教室に入ってきた。
一連の騒ぎで気づいていなかったが、すでにチャイムが鳴っていたらしい。
教室はまだ雑然とした雰囲気で、席についている人間のほうが少ない体たらくだ。
「――朝のホームルームの時間だ。みんな早く座れ……新田、貴様のような奴が居るから皆時間にルーズになるのだ。反省しろ」
「えっ?」
新田君をいびりながら、恨みノートになにやら大量に書きつけている。
まったくいつも通りの鎌倉先生だった。
ともあれ。
こうして俺は、ひとりの大切な友人を手に入れた。
子どもっぽくて、多分に中二病で、四六時中フォローが必要なくらい危なっかしい人間だが、まあそこはお愛嬌だ。
俺のように過剰なまでに常識人であり、またそうであることを己に課しているような人間のそばにいるのなら、それくらいでちょうどいいのかもしれない。
「我にもし、愛しき女子ができれば、盟友よ。君に一番に報告しよう」
我が盟友は、恋愛に関してはノーマルなようで、大変結構なことである。
……だからそこの幼馴染、ノートに妙な漫画を描き始めるのはやめようじゃないか。