34−重なる不運
何かが目に見えて変化しているわけでもない。だがハルとの関係に小さな歪みのような
ささくれがあるような気がしていた。
カオリから思いがけない相談を受けたのは、朝、ハルにメールを送ったのになかなか返事がこないことに少しいらついていた時だった。
「麻衣子、聞いてくれる?」
「どうしたの?渡辺さんと何かあったの?」
「うん、実は、彼、別居したんだ」
「ええっ!?本当なの?」
「まさかこんな展開になるなんて私も驚いてる。それで彼から別れを言われたの」
カオリの声は暗かった。その言葉の後に沈黙が続いたので麻衣子は涙ぐんでいるのかとさえ思った。
「大丈夫?それは大変だったね。それから会ってないの?」
「別居する前にまた奥さんから電話がバンバンかかってきて、私のこと、めちゃくちゃ言いたい放題、非難罵倒されたの。それにこの間は内容証明っていうの?それが届いて、私も怖くなった。彼がこういうことになってこれ以上迷惑をかけるわけにもいかないから、お互い別れようと言ったの。で、これから何を言われても知らない、関係ないって突っぱねってくれって」
「内容証明ってことは弁護士に相談したのかな?でも2人が付き合っていた証拠はないんでしょう?」
「うん、娘さんに見られたといってもそれはなんとか言い訳できるし、2人でホテルにいったとか、そういう証拠写真はないみたい。彼の奥さんは憶測で私と浮気していると思ってる」
「じゃあ、今後、渡辺さんの言うとおり、知らないって言い張れば大丈夫なのね」
「多分・・・・うちだってダンナに知られるのは困るもん。これ以上何も起こらなければいいと思う」
「そうだね。渡辺さんとはもう会わないほうがいいよ。今は危険な状態だから、2人がこれからも会って、それを知られたら本当に訴えられるかもしれない。こんな風になって大変だったけど、別れたほうがいい」
「でも彼、家を追い出されたんだって。1人暮らしなんてできるのかなぁ。ただでさえお金ないのに、どうやって生活するんだろう」
「カオリ、だめだよ。お金貸したり、面倒みてあげたりしたら。絶対にもう係わり合いにならないほうがいいよ」
「うん・・・・そうだね」
カオリの声のトーンは低かった。麻衣子は世話好きで面倒見の良い彼女だから、本来ならば
嬉々として渡辺の世話を焼きそうだった。だが事は重大だ。これ以上2人が会ってることが
露見したら、カオリの家庭も崩壊しそうだ。
「カオリ、本当にだめだよ。渡辺さんのこと、嫌いで別れるんじゃないから、心残りなことも
あるかもしれない。でもカオリも結婚してるんだから、自分の家庭のことも考えなきゃ。ダンナさんとはこれからも一緒にやっていくつもりなんでしょう?」
「そりゃあ・・・もし離婚して彼と一緒になったとしても、悲惨だよ。お金もないし、そんなリスクはいやだもん」
「じゃあ、きっぱり渡辺さんのことは忘れるようにした方がいいよ」
「うん・・・」
麻衣子の言うことにうなずき、そうだね、分かったとは言うもののはぎれが悪かった。
渡辺との別れが突然で、引き裂かれるような形であったことが、カオリに踏ん切りをつかせないのだろう。もう2度と会えないということであれば、最後に一目でも会って、納得のつく
別れ方をしたいのかもしれない。だがこういう状況で会うことは危険すぎる。
麻衣子は電話機の向こうで沈んだ様子のカオリを慰めるように言った。
「気晴らしにゴルフでも行こう?ねっ!」
「そうだね・・・そういえばハルさんとはどうなってるの?」
「うん、仕事忙しいみたいで、今年になってからあまり会えないんだ。ゴルフもいけないみたい」
「そうなの?あれ?この間、私が入ってる別のサークルの女の子と話してたらハルさんのこと
知ってるって言ってたよ。一緒にラウンド行ったって」
「最近の話?」
「うん、一週間前。初めてそのラウンドで会ったんだって。話してて、名前が一緒だから
あれ〜って。麻衣子、聞いてなかったの?」
「うん」
「ごめん、何か悪いこと言っちゃったかな?でもゴルフだけだから」
「そうだね、別にいいよ」
麻衣子は気にしていない素振りで言い放ったが、内心はさざ波が立っていた。どうしてハルは
何も話してくれないんだろう。もしかしたら年末ハルが別の人とゴルフにいくことに、麻衣子が感情的に反応したことに起因しているのだろうか?だが正直に言ってくれれば、麻衣子だって反対はしない・・・・いや麻衣子はやっぱり気を悪くしただろう。
自分と会うより、他のイベントを優先するなんて、快い気持ちになんかなれない。
「麻衣子も別の人とラウンドいけばいいじゃん。別にハルさんにこだわることないよ」
「そうだね。じゃあ、カオリも一緒に行こう」
それから2人で日程とコースを相談したが、麻衣子の心の中のさざ波はなくなるどころか
段々大きな波になってきた。ハルは自分から離れようとしているのだろうか?そんなはずはない。あんなに熱い気持ちでぶつかってきていたハルだ。あれほどいつも麻衣子を欲していたハルだ。そんなに簡単に気持ちがなくなるなんてあり得ない。
そう自分に言い聞かせながらも、心の中の海は荒れていた。ハルと会いたい、会えば自分の杞憂だったとすべての不安を消すことができる。
携帯を閉じるとメールが入っていた。ハルからだった。
「今朝、病院に行ってきたんだ。週末、息子とサッカーやって遊んだらどうも
足を捻挫したみたい。当分、不自由しそうだよ。悪いけど明日の約束は延期してくれ。
また連絡する」
捻挫・・・・どの程度の痛みがあってどのくらい不自由なのだろう?
心配な気持ちの裏にまた肩透かしになったようながっくりした気分になったことに気づき
麻衣子は自己嫌悪した。どうしてなんだろう。何か悪い歯車に巻き込まれていく気がする。
年末から自分の思いとハルの考えが微妙にすれ違っているようだ。
きちんとハルと向かい合うべきなのだろうか?素直に聞いてみるべきなのだろうか?
麻衣子は自問自答する。でもそこには答えはない。
麻衣子にとって誰かとぶつかり合うことは恐怖だ。幼いときから父親から厳しくしつけられ
女性とは控えめで慎ましくいるべきという姿を押し付けられたかもしれない。
だがそれによって弱きものとして男性に保護される形はそれほどいやではないのだ。
相手にぶつかって丸ごと自分をさらけだして、傷つけられることを考えたら
沈黙しているほうがいい。
次の日、麻衣子は気晴らしをしようと出かけた。元々ハルと会うために空けていた時間だ。
予定がなくなり、ぽっかりと手持ち無沙汰な自由な時間となったからだ。
ゴルフショップをのぞき、ウェアを物色する。外は冷たい風が吹き付けるのにお店の中は暖かい。飾ってある商品は春物だった。
暖かくなったらハルとの付き合いも1年経つことになる。
記念に海外に旅行しようとハルが言ってたことを思い出す。現実に可能かどうかは別として
それを考えるだけで心が沸き立つからか、麻衣子の口元が想像でほころんだ。
デパートで食材を買い、デザートにケーキを買うと、麻衣子の両手は荷物であふれた。
駅を出ると家までは10分ほど歩く。北風にさらされ、麻衣子の肩まで伸びた髪が風になびいた。身をすくめながら慌てて髪に手をやって整えると、小走りに走るように家に戻り、ドアを閉め一息ついた。
部屋に入り、荷物をテーブルに置き、コートを脱ぎ、ピアスをはずそうと鏡の前で
耳元に手をのばしたところで気がついた。
片方のピアスがない!それはハルからのプレゼントのピアスだった。
麻衣子の血が逆流して胸が大きくドキっと跳ねた。
慌てて洋服や部屋の床をしゃがみこんで調べた。廊下、玄関、台所、自分が立ち寄ったと思われる場所の床もすべてなめるように調べたが、麻衣子の期待を裏切るようにピアスは見つからない。
動悸は一層早くなり、頭の中が真っ白になった。どこで、落としたんだろう?
もう一度洋服に付いてないか、下着にもなって自分の体の隅々までくまなく探したが、
それでも見つからない。泣きそうになる気持ちを抑えて、何度も何度も床を調べた。
「ひどいよ・・・・どうしてこんなことが・・・・」
声に出して麻衣子は呪った。それは誰に対してということでなく、形ない何か自分とハルを
裂こうとする運命の力というものにかもしれなかった。