33−寂しいお正月
新しい年を迎えた。夫婦2人きりのお正月は、なんだか寂しく静かなものだ。
2人とも親は東京から離れたところで暮らしている。
麻衣子の父親は数年前に再婚した。あの頑固を絵にかいたような、一徹な父親が
70歳にして再婚をするとは驚きだった。相手は10歳下でずっと仕事を持ち
明るく、はきはきとした華やかな女性で、麻衣子の亡くなった母親とは180度違うタイプだ。女は男に従い家を守るべき、などと古い時代の家族観を押し出していた父親が
麻衣子が見たこともないほど相手の女性に気を使い、また彼女が父親にはっきりと物を言い、
大きな口を開けて笑う様をみて、最初は戸惑いもあったが、今は父親の面倒を見てくれる奇特な女性だと感謝をしている。
あけっぴろげな性格だが、麻衣子には遠慮があるらしく、普段、特別なこと以外連絡してくることはない。 麻衣子の兄も家を構え、それぞれが家族を持った格好になり、そして
自分の生活スタイルを守り、干渉しあわない不文律みたいなものができてしまった。
簡単な正月らしい食事はつくり、夫と2人でお雑煮を食べる。
双方の親と年始の挨拶を電話ですませると、何もすることがない。テレビはつまらない正月用のお笑い芸人がでる番組ばかり。
それでも夫は、一日中、テレビのチャンネルを何度も回しながら、
まるで根が生えたようにリビングのソファーに寝転がっていた。
子供の頃のお正月はもっとにぎやかで騒々しいものだった。
それに比べると、会話もなく、ただいたずらに時間が過ぎるのを待つようなお正月。
子供でもいればまた違った雰囲気なんだろうが、それは考えても仕方のないことだった。
ハルからは元旦にメールがきた。
「あけましておめでとう。今年もよろしくな」
どこかのサイトが出したグリーティングメール。麻衣子も同じようなものを送っていた。
2人ともそれっきりで、その後メールが行き交うことはなかった。
ハルは家族と一緒に実家に滞在しているという。
そういう状況でメールをするのもはばかれたし、彼も実家にいる間は家族のことに専念したいだろうと思っていた。
長くて退屈なお正月休みが終わり、夫を会社に送り出した4日。「明日ランチでもしよう」という誘いのメールがきた。
3週間ぶりになるのだろうか?こんなに長い間顔を合わせていないのは、付き合いだしてから
初めてのことだった。逢えると思うと、胸が高鳴る。麻衣子はその日はソワソワとした
気分で過ごした。
待ち合わせに現れたハルは明るい笑顔だった。
「よっ おめでとう〜」快活な声。
和食は飽きたからというハルとピザのランチにお茶を飲んでいると、夜、飲みに行こうと誘ってきた。今日は仕事初めで、挨拶だけで早く終るという。久しぶりの誘いにハルは積極的だった。
自分から何がいいかなぁ、とつぶやきながら、お店を探し出し、夕方待ち合わせると築地のてんぷらやに麻衣子を連れて行った。
車えび、アナゴ、しいたけ・・・一つ一つ、麻衣子たちのお皿に揚げたてのてんぷらが
運ばれてくる。このときもハルは自分から話題を振りまいて、始終機嫌良く見えた。
「正月さ、ホームに行ったんだよ。それで高校生の子と一緒の組になったんだけど
それがめちゃくちゃ上手いんだ。あれぐらいの年からやってるとうまくなるよなぁ」
「そんなに上手なの?」
「うん、オレが79でそいつは5オーバー。しびれたなぁ。久しぶりにマジになった。
ゴルフがんばろうって気になったよ」
「79だってすごいじゃない?じゃあ、シングルになったの?」
「まだだめだよ。今度の月例で70台出せばなんとかなるかな・・・でも月例とかになると
だめなんだ。やっぱり良いスコアだそうとあせりがでるんだろうな。欲を出したらだめなんだよ。ゴルフって」
そう言うとハルは熱燗のお酒をぐいっと飲み干した。ほんのり目の淵が赤らんでる。
ハルはお酒をかなり飲むが、本当に強い人というのは赤くならず、どちらかというと
白っぽく青ざめると言う。だからハルは本当はお酒にそれほど強くはないのかなとも思う。
「私も早く100切りしたいよ」
「どうせならオレと一緒のときに100切りして欲しいな」
麻衣子はハルを見た。目が麻衣子を包むようにやさしい。麻衣子の胸の奥に視線がそのまま
すとんと入り込む。
やっぱりハルは変わらない、今までと同じだ。私たちは何も変わったことはなかったのだ、と
安堵感に近い感情が沸いていた。
食事の後、銀座のショットバーでお酒を傾けていると、ふいにハルが話し出した。
「俺、正月にメールしなかっただろう?」
「・・・・・?」
「あれ、わざとなんだ」
ハルの声は淡々としている。麻衣子はこの先、話がどう展開していくのか分からなかった。
だが理由を知りたい。
「どういうこと?」
「ちょっと離れて考えてみようかなって思って。だからマイにメールしなかった。でも今日
会ったらやっぱりいい女だし可愛いなぁって思った」
麻衣子はどう答えていいのか迷った。喜ぶべきなのだろうか、それともばかにしていると
声を荒げるべきなのだろうか。
これではハルの一方的な考えと思いに振り回された格好となっている。
麻衣子の気持ちを無視した、いや気持ちを考えることもしなかったのだろう。
どれだけ寂しい思いをしていたか、どれだけ不安だったか、その償いにもなりやしない。
ハルの心中には、何か屈託があったのだろうか?だが麻衣子はそれを突き詰めたり
問いただすことが怖かった。争いを好まない麻衣子は自分が我慢すれば
すむことではないかと思った。
少なくとも今ハルが麻衣子に執着心を持ってることだけは確かだ。それだって愛情の
一種じゃないか・・・
「今日さ、このあたりのホテルとって泊まるよ」
そういうと、銀座にあるホテルを調べ、いきなり予約の電話をした。
ハルは自分の要求を満足させることとなると、積極的になる。
ゴルフも釣りもそして麻衣子も・・・・
ゴルフも釣りも始めたてのころは夢中で仕事そっちのけで練習場にいったり、
山の中の渓流にいったという。
麻衣子のことだって知り合った頃は、辟易させるくらいメールや電話攻勢で麻衣子を
落とそうと必死だった。
欲しいものは手に入れたい、好きなことはひたすら夢中になって後先考えず、突っ走る。
それがハルなのだ。
そのホテルはヨーロッパにある小さなプチホテルを思わせた。
ハルは「この体を他の男には触らせたくない」と言いながら、麻衣子を執拗に責めて来た。
だが実際に挿入となると、途中で萎えてしまう。麻衣子が奉仕して、その時は大丈夫になっても挿入してしばらくたつとまただめになってしまった。
「ちょっと飲み過ぎたかなぁ」
ハルはきまりが悪そうに下を向いた。
こんなときは知らない振りの方がいいだろうと思い、麻衣子は「そういえば、結構飲んだね〜」と明るく答えた。
だがなんとなくきまずい雰囲気が二人の間に流れていた。
どうやったらこの場を取り直すことができるんだろうかと麻衣子は途方に暮れた。
しかし時計の針は12時を指そうとしていた。
「泊まれよ」
「それは無理だよ。言い訳なんかできないもん」
慌てて身支度をすると、ベッドの上で所在ない風にぼんやりしているハルに言った。
「明日の朝、来てもいい?たぶん8時にはこれるよ。一緒に朝ごはん食べよう」
「ああ、いいよ。そうだ、朝は元気なんだよ」
思わせぶりなことを言ってハルは苦笑いをした。
このまま立ち去ることは心残りだし、ハルを1人置いていくことが辛かったが、
泊まることはできない。
麻衣子はまた明日逢えるからと、後ろ髪を引かれる思いで自分に言い聞かせていた。
次の日の朝、出かけようとすると着信メールが入ってきた。
「朝、やらなきゃいけない仕事があったから、もう出ます」
麻衣子は携帯の画面を凝視した。体が重くなったようで、しばらくたたずんでいた。
昨日、仕事なんて一言もいってなかった。朝ごはんを一緒に食べて、ハルを会社まで送り届ける心積もりだったのに、肩透かしにあったように、一瞬でそれが打ち砕かれた。
麻衣子は唇をかみ締めたまま、返事を出した。
「わかった。お仕事がんばってね」と笑顔マーク付の返信。
メールの笑顔とは裏腹に麻衣子の心は沈んでいった。バケツに落とされたインキのように
悲しい気持ちが滲んで広がっていく。
気持ちが膨らむと、その後に萎むようなできごとが起きる。それはその後も続くこととなった。