31−噛み合わない気持ち
何度か寝返りを打ったが、眠りに落ちることがなかなかできなかった。
最近の麻衣子は寝つきが悪くなっている。カオリのこと、ハルのこと、ひとつのことに
思いを巡らせると、それがどんどん広がって、目が冴えてくるのだ。
諦め気分で部屋を出ると、台所で水を飲んだ。そのとき、カチャリとドアを開ける音が聞こえた。夫が眠そうな顔つきで台所を覗いた。
「どうしたの?」
「ちょっと眠れなくて」
「ふ〜ん」
何のリアクションもなく、そのままトイレに向かった。麻衣子は後姿を見ながら、自分が今考えることを告げたらどんな顔をするだろうか、と思う。
それでもやっぱり無関心な顔つきをするのだろうか。
こうやって一つ屋根の下で暮らしていても、今の私たちはお互いを別々の檻に住む動物のように住み分けをすることで、居心地よくしている節がある。
本当はぶつかり合って、本音を出して、そこから生まれるものもあるのだろうに。
今はそんなことする労力すら沸いてこない。
携帯の画面を開く。新着メールはない。最近はハルと夜にメールのやりとりをすることがない。
以前は麻衣子が携帯を放置して返事が遅れると。催促のメールが入ったものだ。
「どうして、返事くれないんだよ〜」「ちゃんと携帯をみろよ」「お願い、マイちゃん、返事くれ〜」
などとメールひとつでもハルは麻衣子との繋がりに熱心だった。
そしてメールの最後には「おやすみ」とハートマーク。
それを見るたびに麻衣子は心が暖かくなった。ハルが酒好きで毎日、誰かと飲みに出かけていたとしても、彼が会っていない間に何をしてようが、そんなこと気にすることなく、
ただ安心して眠りについていた。
ところが今は形はないけれど漠然とした不安が麻衣子の心の底にある。
飲み会の話にしたって、何故ハルに聞けないのだろうと思う。付き合ってるんだし
素直に聞けばいいじゃない? ちょっとぐらいの嫉妬もさじ加減では、2人のスパイスに
なって逆にいいかも。でも上手な言葉が出てこない。甘えを含んだ可愛い焼きもちはいいけれど、度が過ぎると重くなるし、ハルの場合は逆襲がありそうだ。
言葉を迷ってるうちに麻衣子は臆病になり、結局はハルを問いただすことを諦めてしまった。
「ねぇ、女性って言葉だけで安心するものなのよ。そう思うと簡単だと思わない?」
「好きとか愛してるとか言うのか?」
「うん、最近、聞いてないなぁ〜」と明るく言ってみた。
「男はなかなか口では言えないもんだよ。言わなくても分かるだろう?」
「でもさ、やっぱりたまには言ってほしいな。メールでもいいよ。その一言で安心すると
思えば簡単だと思わない?」
「う〜ん、そんな簡単でもないけどな。努力するよ」言葉を少し切ってハルは続けた。
「麻衣子は相手の方が自分に熱くなっていないといやなんだな。オマエは自分が惚れるというより相手が惚れられて付き合うタイプだろう?今までの恋愛だって、相手から言われて付き合ったって言ってた。だからいつまでも相手が自分より下でないといやなんだ」
話がおかしな方向にずれてきた。
「そんなことないよ。付き合うきっかけはどうであれ、付き合ってる間は対等だよ」
「違うな、自分はクールでいたいんだよ。で相手が追いかけてる状態が心地いいのさ。
確かにマイはいい女だと思うよ。オレはマイに付き合ってもらってる立場なんだろうな」
ハルは自虐的な笑いを浮かべた。
なんでこんな話になるのだろう。何か自分がとんでもないことを吹っかけたのだろうか?
かみ合わない会話に麻衣子は気持ちが重くなってきた。
飲み屋で勘定を済ませ、薄暗い階段を登りだすと、後ろから名前を呼ばれた。
振り返ると、ハルは口元にやわらかい笑みを浮かべて近づき、麻衣子にキスをしてきた。
そのキスはとても甘く、麻衣子はいつもこのキスだけですべてを許してしまいたくなる。
体の芯からじんわりとハルを愛おしく思う気持ちがこみ上げる。
なんだかんだ言ってもハルは自分を愛している。これがその証拠だ。
もうすぐクリスマス。2人の付き合いで初めての迎えるクリスマス。
泊りがけでゴルフに行こうと計画をしている。そのことを思うと胸が躍る。思い切り楽しいクリスマスにしようと麻衣子は思っていた。
12月に入ると、街も周りも年末に向かってあわただしさを増してきた。
追い立てられるような月だが麻衣子は嫌いじゃない。イベントごとも多く華やかな気持ちになれる。普段会わない友人とも連絡を取り合って、忘年会をする。
ただどこへいっても人の多さだけには閉口するが。
さすがのハルも仕事や忘年会の付き合いやらで忙しく、何度か都合がつかず、やっと会えたのは12月も中旬だった。
昼間でも人出が多く、待ち合わせの場所が分かりにくく、麻衣子はが到着したのは
約束の時間より5分遅れていた。
麻衣子は久しぶりに会うのを楽しみにしていたが、ハルを一目見たときから、
その気持ちがしぼむのを感じた。ハルは明らかに不機嫌な顔つきをしていた。
遅れてごめんね、という麻衣子の言葉も上の空だし、麻衣子を見る目に何の輝きも
なかった。
疲れたから休みたいというハルの言葉のまま、すぐにホテルに入った。
途端に携帯が鳴った。
「はい、あ、お世話になってます。はい・・・・はい・・・・申し訳ありませんが、
その件については○○の方に問い合わせてもらえませんか?えっ!?・・・・・
はい・・・・・それは申し訳ありません。・・・・はい、分かりました。
では調べてまた連絡させてもらえます。失礼します」
ハルは電源を切ると携帯をテーブルの上に投げ出した。
「全く、オレのせいじゃないっていうんだ!」と不愉快そうに声を荒げるので、
声をひそめていた麻衣子はびくっとした。
「何度も言ってのに物分りの悪いヤツだ」
「どうしたの?」
ハルは初めて麻衣子に気づいたような顔をした。いや、と口ごもったが明らかにハルは
いつもと違っていた。仕事で何かトラブルがあったのだろうか?
そのまま重い沈黙の中でテレビから発信されるアナウンサーの声だけが、部屋に響く。
ソファに座ってただ視線をテレビに向けているだけのハルに、麻衣子は「疲れているようだね。少し眠ったら?」と言うのが精一杯だった。
「いいよ。マイ、こっちにこいよ」
側に行くと「服を脱げよ」威圧的な言葉を向けた。
射るような視線を浴びながらのろのろと服を脱ぐと、ハルは自分のズボンのベルトをはずし
パンツも脱ぎ捨てた。
「なめてくれ」
ハルが何を考えているのか分からないまま言いなりに従い、ハルのものが十分な状態になると、ベッドに移動し、自分は寝たまま麻衣子に上から乗るようにさせた。
何の愛の言葉もなく、麻衣子への前戯もなく、あっという間にハルは終わった。
「ね、愛してる?」体を離して息を整えようとしているハルに尋ねる。
「ああ、めちゃめちゃ愛してるよ」
麻衣子の方を見ずに答えた。何か言葉を言いかけた麻衣子を遮るようにハルは
「ちょっと寝るわ、1時間くらいしたら起こして」と言うと、ごろんと麻衣子に背を向けた。
麻衣子は耐えられない気持ちがこみ上げてきた。でも言葉がでない。
疲れているからだ、今はそっとしておいたほうがいい。忙しい間を縫って会いにきてくれたんだから責めるべきではない。納得するように自分を諌めようとしたが、どきどきと動悸が早くなってくる。
「ねえ、もうちょっとやさしくしてよ。久しぶりに会えたんだし、私にも気を使ってよ」
やさしく甘えるようにいったつもりだった。
「オレだって気を使ってるけどな」
「何かあったら私にも話して。力にはなれなくても、話は聞くよ。愚痴だってなんだっていいから」
「オレはそういうことは話せるタイプじゃないんだ。いいから、しばらくそっとしてくれ。
クリスマスプレゼント、欲しがっていたパターを買ってやるから、なっ」
麻衣子の機嫌をとろうとでも思ったのだろう。麻衣子はうれしいような、すっきりしないような複雑な気持ちでハルの背中を見ていた。
ホテルを出るとあたりには夜の闇が立ち込めていた。冬は夜の訪れが早い。
でも闇がホテルを出るときに感じる気まずさを覆い隠してくれる。
ハルが麻衣子の手をとった。
「ごめんな、一緒に飲みにでもいけたらいいんだけど。今日は疲れてるから帰るわ」
手に力が入った。
「いいよ。気にしないで。ゆっくり休んでね」
本当は優しい人なのに違いない・・・・
そうは思っても、麻衣子の心の中では釈然とする思いもあった。
ハルの言葉は確かに麻衣子を気遣うものかもしれない。でもそれが上滑りにすべって
心の中に染みないのはどうしてだろう? ただ取り繕っているにすぎないと思うのは
麻衣子の単なるワガママかもしれない。
だが麻衣子は手をつなぎ、駅までの道のりを一緒に歩きながらも、心が寄り添っていないのを
感じていた。
クリスマス、もしかしたらそれが今年最後に会える機会かもしれない。
ハルと笑って楽しく過ごしたい。そして気持ちよく来年を迎えたい。
それは麻衣子の中ですがるようなひとつの期待だった。その年は寒く、例年に比べて雪が
多かった。そしてそれが麻衣子を期待を裏切る結果になった。