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27−ハルの毒

どうやって家にたどり着いたのか分からなかった。


玄関のドアを開けると、真っ暗な中に廊下の壁にともされた小さな電球の光が浮かび上がっている。黒い靴が乱暴に脱ぎ捨てられたままになっていた。

廊下を通り過ぎるときに閉ざされたドアを一瞥したが、その向こうは静まり返っている。


麻衣子はほっとした。今日のように重たい砂を飲み込んだような気持ちで帰って、夫と顔を合わす羽目になったら、一体どんな顔をすればいいだろうと思う。



麻衣子と夫はとうに寝室を別にしていた。

このドアの向こうで夫は熟睡していることだろう。

麻衣子がどこに出かけたのか、何時に戻ってきたのか、朝になっても聞かれることはないだろう。


麻衣子が仕事をしていたからというのもひとつの理由だろう。

結婚が遅く1人の生活が長かったから、自分主義のところがあるからかもしれない。

だが大目に見たとしても、麻衣子たち夫婦は会話も少なく、麻衣子はよその夫婦に比べて

自分たちのよそよそさに時折、やりきれない気持ちになった。


だがこれといって騒ぎ立てるほどの非があるわけでもない。

やはり一緒に暮らしていると家族の情は確かに蓄積していく。いくら夫婦関係が壊れていたとしても、これからも共に生きていくのなら、お互いにゆずったりガマンしたりするのは当たり前だし、生活態度まで破綻することはできない。

だから麻衣子は外泊することもなかったし、遅くても11時には家に帰ることにしていた。


ベッドにもぐりこんでも麻衣子は寝付けなかった。


ハルはどうしただろう?ハルの家に戻る電車はもうないかもしれない。

どこかに泊まったんだろうか?それともタクシーで帰ったんだろうか?


冷たい視線を残したまま、身を翻して軽やかに立ち去った後姿が浮かぶ。

いつもと変わらぬ歩き姿。だが麻衣子をしっかりと拒絶していた。


自分でも訳の分からない渦に巻き込まれたような、振って沸いた災難に襲われたような、

どうしていいのか検討のつかない不安。


ただこんなことで?という思いも心の奥底にある。


結論も出ず、ただ暗い気持ちのまま朝を迎えた。


そしてハルからメールがきた。


「昨日はごめん。酔っ払ってたんだ」と一言。苦笑を表す絵文字がついている。


メールではなく、こういうときはちゃんと話したい。麻衣子は電話をかけた。


「昨日、すごく怒ってたよ。謝っても謝っても、許してくれなかった」


「全然、覚えてないんだよ」


「恐かった・・・・キレちゃったのかなって」


「ごめんな。ただの飲み過ぎだよ」


ハルは10代のとき、かなりやんちゃだったと自分で話していた。ケンカもしたし、バイクに乗っていてお酒は未成年のときから飲んでいた。だが18歳のときに、バイクで事故を

起こし、大怪我を負ってから無茶をすることをやめたらしい。


ハルは謝っている。麻衣子はそれでももどかしく感じていた。

ちゃんと会って顔をみたい。 自分がどれだけ不安な気持ちなのか分かって欲しい。

そしていつものようにやさしく抱きしめられたら、麻衣子の心も溶けるだろう。


「不安になった。ハルって私のこと好きなのかなって」


「好きだよ。愛してるよ」


愛という言葉を口にしているのに、その平坦な声の調子に麻衣子は不安をぬぐえない。


「ねえ、今日は会えないかな?」


「昨日休んだから、今日は忙しいんだ」


「ちょっとでもいいんだ、お願い」


「ん・・・・・忙しいから、ほんの30分くらいしか時間取れないよ」


「それでもいい、どこに行けばいいの?」


「お客のとこにいった帰りだから、遅れるかもしれないけど」


そう言うとハルは時間と場所を告げた。



会えばきっとなんでもなかったようにまた以前の二人になれる。

でもあの置き去りにされたときの、自分のみじめさといったらなかった。

そして思いがけなく、怒りよりも、見捨てられる方の恐怖といったら。

麻衣子は思い出だすと手先が冷たくなって身震いした。


今まで男性にそういう仕打ちをされたことはなかった。

付き合った男性は皆、たとえ、麻衣子が理不尽なわがままを言ったとしても

声を荒げたりすることなく紳士の振る舞いをする人ばかり。


ハルはかなり嫉妬深いということなんだろうか?

麻衣子の知っているハルとは違う・・・・


いや、これもハルなんだろう。付き合いだして半年、本当は今まで何も知らなかったのかもしれない。



遅れてきたハルは「本当に時間がないんだ」とせかすように喫茶店に入った。


麻衣子はうつむき加減でハルの様子を伺った。ここまできたのに、実際に顔を見ると、

どう切り出せばいいのか困惑するばかりだった。


「昨日は酔ってただけだから。もうあんなことはしないよ」


「分かった・・・これからはちゃんと何でも言うから、隠しごとはしないから」


麻衣子の繰言には反応せずハルは「携帯見せて」と言った。


麻衣子の手から奪い取るように携帯を手にすると、かちゃかちゃといじりだした。


「ふ〜ん」面白くなさそうな顔つきでパタンと閉じた。


「特におかしなメールはなさそうだな」


麻衣子は体が一瞬、膠着したように固まった。

ハルの目は笑っていない。


じゃあ、と立ち上がると仕事に戻るハルはせかせかと足早に立ち去った。


ちゃんと謝ってくれたし、ただ酔っ払っていただけだと言ってたし、ハルは私を

愛してると言ってくれたし・・・・


麻衣子は何度も心の中で繰り返した。片隅にぬぐえない違和感もあるけれど

それがなんだと言うのだろう。ハルを失うことに比べたら、すべては何の意味もないことだ。



この日から麻衣子はハルのもつ「毒」に犯されていった。






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