23−ストーカー!?
もう季節は9月に入ろうとしていた。
まだ残暑が厳しい日々が続いていたが、雲の形がもくもくとした入道雲から
スジ雲に変わってきている。夕方になって陽が落ちると、風が違う。
夏の終わりを惜しむかのように、追い立てられながら夏休みをあわててとって海外に
出かけていくものもいる。これから始まる新学期に憂鬱な思いを抱きながら、夏の思い出にひたるものもいる。季節が終わると、ひとつの出来事がいつも終わる気がする。
ハルと並んでカウンターに腰かけ、ビールのグラスを傾け、ガラス越しに空の色が段々と闇を濃くしていくのをながめながら、麻衣子はぼんやりとしていた。
「あのね」と切り出して電話の件を話してみようかと思ったが、そこで言葉はとぎれてしまった。
「ん!?」ハルの視線がそそがれる。
話すべきかどうか迷いがあったから、麻衣子はしばらく黙り込んだ。
「どうしたの?」
「うん・・・いや、なんでもないよ」
「何だよ。言いかけて途中でやめるなよ」
「うん・・・大したことじゃないし」
「言って見ろよ。オレはなんでも聞くよ。オレたち、そんな希薄な関係じゃないはずだろ。
マイが何か悩んでるんだったらオレはちゃんと話して欲しい」
強い口調だった。
「実はね」と麻衣子は着信の件を話し出した。ハルは黙って聞いている。
「多分、何か用事でもあったのかもしれないけど、ちょっと行きすぎな気がするよね。
それも夜中に電話をかけてきたみたい。付き合っていた頃だって、そんなことはなかったんだけど、どうしちゃったのかな」
「それで、相手に聞いてみたの?」
「ううん、まだ」
ハルは口を閉ざして、視線を麻衣子からはずすとどこか遠くを見て黙り込んだ。
沈黙はほんの数秒かもしれない。でもそれがなんだか長く感じられた。
「おまえ、ちゃんとその男と別れたのか?」
予想もしない言葉が返ってきた。
「えっ!?何、言ってるの?別れたに決まってるじゃない」
「相手は納得してなかったんじゃないのか?だからそうやって連絡とってくるんじゃないのか?」
「だって向こうから別れを切り出したんだよ。もちろんそれまでも、もうだめかなって
状態が続いていて、ほとんど終わっていたもの」
「ふ〜ん」
「私だってどういうつもりか分からないよ。でも聞いてみる。そしてもうこういうことは
しないでってちゃんと言うよ」
「言えるのか?」
「大丈夫。ちゃんと言う」
「でもなぁ、20回も電話するなんて普通じゃない。こっちはそう思っても、相手は全然納得してないってこともあって、ストーカー行為に走るやつもいるからな」
「そんな人じゃないよ」
「分からないよっ」ハルは急に大声を出した。グラスをカウンターに叩きつけるように置いた。
麻衣子はびくっとして思わず身をすくめた。
こんな風に声を荒げるハルを見たのは初めてだった。
ひとつ席を空けて並んで座っているカップルが何事かと二人を伺っている。
「ストーカーっているんだよ。昔、別れた後、相手の女がストーカーのようになったことがあるんだ。毎日電話かけて、携帯にも会社にも、挙句の果てに家にまでかけてきた。結局、番号を全部変えたよ」
思いがけない話を切り出すハル。何気に話すけれど、事は重大だったに違いない。
「相手の人と話してみたの?」
「そんなことしないよ。徹底的に無視。でもとにかくしつこかった」
「そんな人じゃないと思う。とにかく一度話してみるから」
「大丈夫か!?」
「うん」
そう答えたものの、ストーカーという言葉に麻衣子は少なからず違和感を感じた。
彼はストーカーではない。2年の付き合いの中で彼の仕事ぶり、私生活を見てきてそういうタイプではないと考えられる。ストーカーというのは粘着質で思い込みや被害者意識の強い人間で、内にこもった性格と思える。
少し気弱でグチっぽいところがあったけれど、社会性のある大人だ。多分、酔った勢いで
電話をかけてしまった、そんなところだろう。
だがハルの麻衣子を責めたような口調はどういうことだ。
そして彼がストーカーのように付きまとわれたことがあるということ。それこそが
彼が相手に対して不誠実な態度をもって別れたことを意味するのではないか。
自分の知らないハルの一部分が垣間見える気がする。
つかみどころのない小さな不安が襲う。
「ごめんな。ちょっと大声だして。マイが心配になったからなんだ」
取り成すつもりか、ハルは謝った。
「オレ、本当にマイが好きだから、他の男にとられたくないから、やきもちを焼いたんだよ。
今までこんな風に誰かにやきもちを焼くことなかったのに。マイだけだよ」
その言葉は麻衣子を安心させる役目を果たした。
やきもちの結果ね、麻衣子はハルを心の中で許した。
だが何か心の底でチリチリするものがある。自分の気に入っていたお店が様変わりしてしまい
居心地悪い気分になるような違和感。
それがなんだか分からないのでハルに対して身構えてしまう。
「でもマジで他の男にとられそうになったら、オレがストーカーになるかも」
冗談っぽく続けたので、思わず笑おうとしてハルを伺うと、その目は笑っていなかった。
じっと麻衣子をまっすぐ見据えている視線が強すぎて麻衣子はうつむいた。
何か言わなくては・・・という気持ちは空回りするばかりで言葉は続かなかった。