18−揺れる心
その夜、麻衣子はなかなか寝付くことができなかった。
あの後、しばらくうつむいて座り込んでいたハルだったが、しばらくするとすくっと立ち上がり、
何事もなかったように「駅まで送ってくよ」と歩き出した。
その足元はおぼつかないということもなく、赤らんだ顔はしていたものの、目の焦点もしっかりしていた。
ハルが「苦しいから別れてくれ」と言った言葉の意味を問いただす余裕やタイミングもなく
麻衣子はそのまま帰ったのだが、ベッドに入るとその言葉が頭の中で何度も繰り返され
眠りを妨げる結果となってしまった。
一体、どうしたのだろう?だがその意味を聞いてみることも怖かった。
その会話の続きで本当に別れることになったとしたら。
それは考えても見ない展開だ。それにまだ付き合い始めて3ヶ月。
これからじゃないの、と納得のできない思いもあった。
次の日、電話の会話の中で麻衣子はさりげなく切り出した。
「昨日、酔ってたね」
「うん、マイを友達に紹介したろう?緊張してたのかな。いつもより酔いが回るのが
早くて、だらしなかったな。ごめんな」
「覚えてないの?」
「何を?オレ、何かした?」
「・・・・・」
「言ってくれよ。もしかしてからんだりした?」
「あれは絡むって言うのかな?ハルさ、苦しいから私と別れてくれって言ってたよ」
「えっ!?」
絶句するとハルはしばらく押し黙った。
「酔うと自分でも思いがけないことを言うんだな。全然覚えてないよ」
「覚えてないんだ」
「うん、ヨッパのたわごとと思ってくれよ」
「別れるってのは?」
「あるわけないだろう」とはっきり言葉で否定した後、心細い声で付け加えた。
「でもマイのことを好きすぎて苦しいのは本当だな」
あまりにしんみりとした口調だったので麻衣子は言葉を返すことができなかった。
ハルの言葉がひとつひとつ体に染み込んでいった。そして暖かい感情が手を広げて
麻衣子を包み込むように抱きしめた。幸福感に満たされる。
人を好きになると幸せな気持ちになるってこういうことだ。
だが一方でハルの暴走するような感情に小さな恐れも抱いていた。
お互い家庭がある。本気で恋愛ができるわけがない。でも今の私たちは普通の恋人同士のようにお互いを想っている。人を愛することは素晴らしいことなのに、不倫の恋愛は
決して報われることも貫くこともできない。それどころか批判される対象になってしまう。
ハルだって責任のない愛だから、単純に好きだって言えるんだ。
麻衣子はいつもぐるぐると堂々巡りになる気持ちにもてあそばれていた。
そんな矢先に麻衣子の夫が海外出張にでかけることになった。
麻衣子がそのこと告げると「じゃあ、どこかに泊まろうよ」と誘ってきた。
お家の方は大丈夫なのと尋ねると「うん」と即答する。
何の躊躇いもなく迷いもない。こういうとき、ハルが結婚していることを
忘れてしまうことがある。
なぜならハルと会ってる時、彼の家族の影を感じるものはほとんどなかった。
車も子供がいるにしては、殺風景すぎるくらい何も物がなく片付いていた。
一緒にいる間に電話が鳴ることもメールもない。
それに安心もするが、一方でつかみどころのないハルに不安も感じる。
ハルは快活でよくしゃべる割りに、自分のことについては聞かれないこと以外は答えない。
家族の影を見せない分、余計な労力や枷を与えているのではないだろうか。
もしくはいつもこうやって家族を顧みない生活を送っているのだろうか。
どちらにしても深く立ち入ることなどできるはずがない。
今、ハルは自分だけを見ている。でももっともっと見てほしい、もっと自分に入り込んで欲しいと思いながら、そうなることに恐れも感じていた。
昼から休みをとるよ、とハルは言うと、てきぱきとホテルの手配を始めた。
「ディズニーランドでも行こう。その日に泊まって、次の日の朝までは一緒にいられるよ」
ハルのうきうきとした気持ちが伝わるように声が踊っていた。
「楽しみだな。マイ、その夜は寝かせないよ」とからかうように付け加えた。
そして麻衣子を引き寄せると、頭をなでていとおしそうに抱きしめた。
ハルの大きな体にすっぽりと包み込まれると、麻衣子は子供のように安心する。
優しい手で頭をなでられる度に、こみ上げるものを感じる。
誰かに甘えるということを思い出させてくれ、素直に心が開放されるけれど
決して自分のものにはならない、自分の思い通りにはならないハルに麻衣子は幸福感と
寂しさも感じていた。