17ー酔っぱらったハル
付き合ってみるとそれまで漠然と相手に抱いていたものと違った部分に触れることがある。
そこで幻滅するか、意外性に触れて相手をもっと知りたくなったり、紙一重の部分だ。
ハルがお酒が好きだというのは分かっていた。飲む相手に事欠かず、それが仕事がらみであろうと友人であろうと毎日飲むことは日課だった。
浴びるように飲むというわけでもないが、店を何軒かはしごする間に、足元がおぼつかなくなったり、別れた後、麻衣子に訳のわからないメールをすることがあっても、
それは許容範囲内の状況で酒癖が悪いという程度ではないだろう。
その日、麻衣子は早く仕事を終えたハルと飲む約束をしていた。
店に入るとき、ハルはいつもすっと麻衣子の少し後ろに立ち、軽く背中に手をやって
麻衣子を先に入れようとする。
それはひかえめなしぐさでありながら、ただのレディファーストという慣習的なマナー
ではないやさしさが背中の手から伝わってくる。
夫や今まで付き合った男性は店でも電車でも自分が先に立ち麻衣子のことはお構いなしに乗り込んでいく。まるで一緒に連れ立つ麻衣子の存在など忘れたかのようで、時折、見捨てられる気がしたものだ。
だからハルのその動作は自然に身についたものにせよ、相手を気遣う心配りがある気がして
麻衣子にとって好ましいことだった。
新しい店でカウンターの向こうの壁には四角くくりぬいてあって、
しゃれた小さな花びんやお皿、石でできた置物がそれぞれの四角い空間の棚に飾られ
バックライトでぼんやりと浮かび上がっていた。
二人の前には数種のお皿と焼酎のグラスが並んでいる。
お皿の上には焼き魚の骨だけが見事に残っている。
ハルは釣りが趣味とあって魚料理が好きだ。食べっぷりも気持ちよく、ポリポリと
いかにも丈夫そうな白い歯で小骨など噛み砕いて食べていく。
最近は箸の持ち方も不自由で見苦しい使い方をする若者が多い中、きちんとした箸使いで
魚の身と骨をさばいていく様は見ていても心地よい。
それだけでハルがどんな育ち方をしたのか分かる気がする。
何気にタバコをくゆらすハルを見ていると、恥ずかしそうに声をひそめた。
「オレって指が短くて爪が太くてかっこ悪いだろう?自分の手を見られるのがいやなんだ」
「そう?そういえば、芸術家の手って感じじゃないね」
「そうなんだよなぁ。どちらかというと土方系?」軽く笑った。
ハルはあごにひげを伸ばしているが、もともと毛が薄いたちなのだろう。
まばらでひげというより、なんだか2,3日無精して剃っていない程度に見える。
体格も良く上背もそこそこにあるし、胸板も厚い。
なのに手と足になるとその背に比べて小さく、指も短い。
「昔から手を見られるのがいやだったんだ。女の前だと特にタバコを吸うときは気を使って、
なるべく見られないようにしてた」
ハルでもそういう時期があったんだ。何事にも無頓着でおおらかに見えても
そんなささいなことでも気にすることがあるんだと麻衣子は新しい発見をした気になった。
そのときハルの携帯が鳴り出した。ごめん、と小さくつぶやくと携帯を手にして
立ち上がり、出口に歩き出した。
「あっ、久しぶり〜どうしてる?」快活な声で話し出した。
数分して戻ってくると「今の高校時代の友達なんだけど、近くで飲んでるって」
「そうなんだ。会うの?」
「う〜ん、久しぶりだからなぁ。会いたいけど・・・・オレ、最近、マイとばっかり会ってるから付き合い悪くなってるんだ」ハルは苦笑した後、意を決したように言った。
「ねっマイも一緒に来ない?」
「えっ!?だって友達になんて紹介するの?」
「それは、彼女だって言うよ」
大したことではない調子で答えた。
「彼女って・・・ハルは結婚してるじゃない。そんなの、大丈夫なの?」
「平気だよ」
そう言いながら、ぐいっとビールを飲み干した。
そんなハルの態度に戸惑いを感じながらも、ハルの友人に会うという興味にも惹かれていた。
普通、こんな恋愛の形は誰にも秘密でおおっぴらにできるはずがない。
それなのにハルは最初からそうだが、すべてにおいて無頓着で気にしていない風だ。
男同士というものは、浮気にたいして寛容になるから、友人が浮気相手を連れてきても
それはそれで適当にあしらえるというのだろうか。
「あ、でも緊張するなぁ。マイを友達に紹介するなんて。あいつらビックリするだろうなぁ」
だがそういう言葉とは反対にうれしそうに顔をほころばせている。
楽しいいたずらを思いついたような子供の顔だった。
待ち合わせの居酒屋でハルの友人たちはすでに何杯もビールをあけていた。
麻衣子を紹介して乾杯を終えると、自然と男性4人は共通の友達の話や、仕事の話、
趣味の話に夢中になっていった。
麻衣子とは年代も違う。学校も違う。仕事の種類も違う。多分普通に生活していたら
ハルもその友人たちとも絶対に接点はなく、知り合うこともないだろう。
それがこうやってひとつのテーブルに向かい合ってることは不思議だが、
やはり二人の関係を思うと、あまりはしゃいで話題にのっていくこともできず
麻衣子は所在無い立場になっていった。
2時間経過したところで麻衣子はお先に失礼するとハルに告げた。
男同士で盛り上がればいいと単純に考えただけで深い意味などなかった。
だがハルの友人たちはどう思ったのか「俺たちも帰るよ。お開きにしよう」と言い出した。
もしかすると麻衣子たちに気を使ったのかもしれない。
「私のことは気にしないで。まだ飲んでて。私は先に失礼するから」
麻衣子は明るく言うと、振り切るようにして店を出た。
ハルだってまだ彼らと一緒にいたいはずだ。男同士の付き合いにそれ以上自分がかかわって
じゃまをしたくなかった。
駅に向かって歩いていると後ろから呼ぶ声が聞こえた。
「マイ、待てよ」
振り返るとハルが走ってくる。息が上がっていた。
「いつもだらだら歩いてるくせに、1人になると足が速いな」
「どうしたの?」
「あいつらが送ってけって」
「いいのに。ハル、まだ飲みたいでしょう?いいよ。私は1人で帰れるから」
ハルはむくれたような顔をした。
「なんだよ!そういうこと言うなよ。せっかくきたのに」
よく見ると顔は赤く、目も少し充血している。
「マイ・・・・」つぶやくとそのまま麻衣子にもたれかかってきた。
いつも酔うとキスをするのが常であるが、その時も同じようにキスをするように
麻衣子を抱きしめたが、その後いやいやするように麻衣子を揺さぶった。
「ハル、どうしたの?酔ったの?」
「う〜ん」
それほど飲んだだろうか?友人たちと飲んでいるときのハルはかなりしっかりしていた。
いつもより張り詰めていた感じもあったくらいだ。やはり麻衣子がいるから緊張していたのだろうか。それが今、その糸が切れたようにハルはだらしなく麻衣子にもたれている。
「マイ、マイ・・・」
つぶやくように名前を繰り返す。
「どこかでお茶でも飲む?それとも休む?」
そういいながら麻衣子は時間をさりげなく調べた。もう時計は10時を指していた。
帰る時間が迫っている。だがこんなハルをどう扱ったらいいのか思いあぐねていた。
ハルは疲れ果てた年寄りのように、麻衣子から離れると地面にぐったりとしゃがみこんだ。
頭をうなだれたまま、肩で息をしている。
通りには帰り道を急ぎ足で通るサラリーマンやら若者がちらりとハルを見ていく。
酔っぱらいなどこの街ではよく見かける光景の一つにすぎない。
「大丈夫?」と声をかけても首を振るばかりだ。
「マイ・・・オレ、苦しい」
「吐きたいの?」近寄って背中をさすろうとすると、麻衣子の手をはねつけた。
「苦しいよ・・・・オレ、マイのこと好きで好きでたまらないんだ」
はねつけられた手が空中で止まった。
「苦しくて苦しくて・・・・苦しいから別れて・・・」
麻衣子は唖然とした。