12−初めてのキス
家に戻り10分くらいたっただろうか。携帯メールの着信音が鳴った。ハルからだった。
「今日は楽しかったよ。ありがとう。オレ、マイちゃんの事が大好きなんだ。
今度は二人でゴルフに行こうね。楽しみにしてるよ。おやすみ」
大好き ー こんな率直な言葉を言われたのはずいぶん久しぶりだ。
いや、高校以来かもしれない。
大人のそれも30過ぎの男性から、そんな風に言われることは予測もしないことだ。
麻衣子は携帯の画面を見つめながら、どう返事をしたものか思いあぐねていた。
うれしいというより戸惑いの方が大きかった。
ハルがどういう気持ちで「好き」という言葉を使っているのか、真意が分からないというのが
正直な気持ちだった。
お酒も入ってるし、もしかしたら彼にとっては軽い気持ちで使っているのかもしれない。
ちょっと気に入った女性には、こんな風にノリで好きと言うのかもしれない。
5歳という年齢差が、麻衣子に感覚のギャップを感じさせ、慎重にさせていた。
ここは知らん振りしながら、礼儀的な返事を返したものの、その夜、寝付けず
何度も寝返りをすることとなった。
それからもハルからはちょくちょくメールが入ってきた。
携帯メールに慣れていなかった麻衣子は絵文字を使い、まるで会話しているような
くだけた調子のメールに当初は驚いたものの、すぐに慣れていった。
へぇ〜こんな風に絵文字って使うんだ!
ハルの1人ツッコミや、自虐的なことをいいながらも、その裏にウケ狙いの文章をみると
「バッカみたい」と思っても、知らず知らず微笑んでいる自分がいた。
そしていつかハルのメールを楽しみにしているのに気づいた。
ハルは麻衣子が返信したら必ずまた返信してくる。
キリがないと思いながら、そんなやりとりをゲームのように楽しんでいた。
初めて二人きりのゴルフの前日。
車の調子が悪く、麻衣子はどうしたものか考え込んでしまった。
ハルの家と麻衣子の家は離れている。ゴルフ場はハルの家の方向なので、現地集合の予定だった。日程を変更するべきか、麻衣子がどこかまで出向いて、ハルに拾ってもらうか・・・
そのことを告げるとハルはなんでもないことのように「じゃあ、オレが迎えにいくから」と言った。ハルにとって、わざわざ都内に出てきて、それからまたゴルフ場に向かうのはかなりのロスである。
「一緒に行こう。明日6時にお迎えに行きますよ。お姫様!」
画面に並んだ絵文字と文章に笑いながら、心が浮き立つのを抑えられなかった。
二人きりのゴルフ。麻衣子の夫以外の男性とツーサムのラウンドをしたことがない。
いったいどんな風なんだろう?
もしかしたらくどかれたりするんだろうか?
すぐにその気持ちを打ち消す。ばかみたい、そんなことあるわけないじゃない、とまるでそんな考えを持ったことすら恥ずかしいことのように自分を諌めていた。
ハルは結婚している。子供もいる。ただの友達に毛がはえたくらいの好意があるだけだ。
それ以上の感情があるわけがない、そう言い聞かせていた。
当日は晴れ渡った絶好のゴルフ日和だった。4月に入り暖かく、青空が広がっていた。
小さな緑の葉はこれから色濃く大きく成長していく勢いを覗かせていた。
ハルは礼儀正しく、同伴者である麻衣子に気配りをしながらも、自分のゴルフを楽しむ姿勢はいつものサークルのコンペと同じだった。
「マイちゃん、エブリワンで勝負!」エブリワンとは全ホールに1打のハンデを与えるということ。つまり麻衣子は18のハンデをもらうことになる。
「えーっ!?だって私まだ100切りしたことないのに」
「大丈夫だよ。最近、100台で回ってるんだろう?今日は90台出そうぜ。もし99とか出したら、オレは81でイーブン。でもオレだって81は結構、きつい」
「負けたらどうするの?」
「そうだなぁ〜」ハルはニヤニヤ笑っている。
「まっ、勝利者が考えていいよな。何プレゼントしてもらおうかな〜」
「はいはい、一杯ごちそうしますよ」
ハルはカートを運転しながら「よーしっ」とつぶやいた。
もう次のホールに気持ちがいってる様子で麻衣子のことを振り向きもしなかった。
ティーグランドに立つと、コースを見据えたまま気持ちを集中させるように口元をひきしめる。
この人って本当にゴルフになるとムキになる。
良いショットを打つものの、飛ぶせいか時折、球は大きく左に曲がることもある。
そしてミスショットをすると「うぉーっ」と叫んだりしてうるさい。
きびきびした動作があったり、オーバーにうなだれたり、喜怒哀楽の表現が激しい。
でもなんだか憎めなくなる。麻衣子は振り回されるような感情の波を表すハルに新鮮な驚きを感じていた。
結果は麻衣子の負けだった。108と88。18ハンデをもらっても2打差の負け。
スコアカードを見ながら「88か・・・でも8って縁起のいい数字だよな。マイちゃんは108か。煩悩の鐘ってとこだね」そう言って笑った。
「ゴルフは謙虚な気持ちでないとね。煩悩とか欲とか捨てないと」
からかうようなハルの言葉に麻衣子も苦笑した。
麻衣子は夫以外の男性とのはじめてのゴルフに緊張していたのか、ハルとどういう会話をしていいか躊躇していたものの、そんな心配は無用だった。
考えるより先にハルの方が話題を提供してくれる。そして麻衣子の言うことにちゃんと耳を傾けて答えてくれる。
いつも夫と一方通行の会話しかしていない麻衣子は、まだ知り合って間もない他人である男性と打ち解けて話をする自分に驚いていた。
それでも体というものは正直なもの。緊張していたのか帰り道の車の中、言葉が少なくなって、少しウトウトしかけていた。
「マイちゃん、疲れた?寝ていいよ」
「大丈夫。運転してもらって寝るなんて悪いもん」
「平気平気、ところでさ、今日、もし良かったら軽く飲まない?オレ、車を会社に置くから」
ハルの会社は麻衣子の家から車で10分くらいのところにある。
それまでゴルフの帰りに食事をしたり飲んだりしたことがない。いつもまっすぐ家に帰っていた。
「いいよ」躊躇したのは一瞬で、すぐ返事が出た。「だって負けたからおごらないとね!」
私、どうしたんだろう?自分の心がつかめなかった。だがハルともっと一緒にいたいという気持ちが後押しして出た言葉だった。
そして車のシートに身を沈めた。なるようになる。今は自分の心が感じるままにしようと思った。
早い時間だったので店には人がまばらだった。
居酒屋のテーブルを挟んで向かい合った。ハルは上機嫌で冗談を言いながら、麻衣子を笑わせた。ハルとのゴルフも楽しかったがこうやって向かい合ってお酒を飲みながら、心が開放されていく感覚も久しぶりで、その時間を心から楽しんだ。
店を出てエレベーターに乗ったときだった。
ハルが微笑みながら近寄ってきた。無言で麻衣子の肩を寄せる。顔が近づき唇が重なった。
二人の初めてのキス。
麻衣子は受け入れながら、こうなることは最初に会ったときから決まっていた気がしていた。