9−初めての不倫
麻衣子の脳裏に浮かんだ一人の男性。
すらりとした容姿に憂いをたたえたまなざしの横顔。
何か複雑な物事に捕らわれているのか、少し眉をひそめ、口元は堅くひきしまっている。
麻衣子が所属している部署の部長だった。
年は40歳。物腰は柔らかいけれど、仕事の打ち合わせで何か問題があると
普段のおだやかさからは想像できないほど、大声で部下も叱るし、取引先との口論も辞さない。そして部下をほめることも忘れてはいない。
ただ自分の信念に正直すぎるのか、上司に向かっていく姿に部下が共感を覚えても
当の上司には扱いづらいところもあっただろう。
どうして彼と男女の関係になったのか、麻衣子は今考えてもよく分からなかった。
出張先で取引先に接待された後、部屋で二人で飲んだとき、彼にはその心積もりも
あったろうしすんなり受け入れた麻衣子もどこかで予感というか覚悟をしていたのかも
しれない。
信頼できる、あこがれの上司。
そんな思いが麻衣子にハードルを飛び越えさせたのだ。
そのとき、うしろめたさがあったかどうか・・・・というと、実際のところ
ハードルを飛び越えてしまうと、そんなものは消えてしまった。
数日前に夫の机の引き出しに入っていた、シティホテルの領収書とブランドショップの
レシート。そのレシートにはご丁寧にも、イヤリングと記載されていた。
それを見つけたとき、麻衣子の心を襲う大きな波は起きなかった。
小さなさざ波はあったが、その前から帰宅が深夜におよんだり、会社に泊まるといって
帰ってこなかったり、何度か麻衣子の眉をひそめるような行動が見え隠れしていた。
夫を問い詰めるという行為はなかった。
だからといってしかえしという訳でもない。
麻衣子は固く心に刻む。私はこの人が好きだからこうなったんだ。
そう思って麻衣子はその夜、彼の背中にまわした手に力をこめた。
二人の仲はひそやかで、普段はまるで何も起こらなかったようだった。
会社で顔を合わせても、彼のまなざしや口元が緩むことはなかった。
2週間に1度くらい、メールで誘いがくる。
食事をしながら軽く飲んで、その後にホテルに入る。
まるで長い間の決め事のように、それは毎回変わらない手順で進んでいった。
熱い愛のささやきもなく、静かに淡々と事は進んでいく。
麻衣子はお互い結婚しているもの同士、こういうのが大人の付き合いなんだろうと納得していた。
たまには映画を観たり、ドライブをしたり、違ったことをしてみたい。
そんな誘惑に心が揺さぶられることもあったが、口に出すこともなく、実現することもなかった。
「どうして私を誘ったの?」一度だけ聞いてみた。
「そりゃ、可愛かったから」
「私のこと、好き?」
「あたりまえだろう?好きじゃなきゃ、こういう風にならないよ」
だが見つめ合ってキスをしても、肌を触れ合っても、愛の言葉のささやきはほとんどなかった。
2年ほど続いた仲の終わりはあっけないものだった。
彼は新しく外からきた上司と折り合いが悪く、別の会社に転職していった。
意気揚々とベンチャー企業である新しい会社に望んだのだが、現実は甘くはなかった。
それなりの地位だった彼なのに、与えられたポジションは前よりも低く、仕事も
思い描いた内容からはかけ離れており、ギャップに彼は打ちのめされてしまった。
麻衣子と会うと、グチをこぼすようになった。
こんなはずではない。これはひどすぎる。
口から出る言葉は、新しい会社の批判、前の会社の未練、そしてなげやりともいえる
自暴自棄な態度や不満の数々。
それは麻衣子を信頼しているから打ち明けるのだろうが、はじめて見る男の頼りなさと情けない姿に麻衣子は動揺してしまった。
最初は励ましたり、明るい言葉を投げかけたのだが、毎回毎回、変わらず態度で
麻衣子に不満を訴える姿にうんざりするようになった。
あんなに颯爽としたスマートだった彼だったのに、タバコをくゆらす姿は
10歳も年をとったようにくたびれた感じだった。
それからだろうか。会うのが2週間から3週間に1度、1ヶ月に1度、2ヶ月に1度、
段々と遠のいて、そして半年後には「もう終わりにするか」という彼の短い言葉で終わった。
それから一度も会っていない。
いつかまた会うことがあるだろうか?
麻衣子はそう思うとき、どんな状態であろうと、彼が昔のように肩で風を切るように颯爽として欲しいと心から思う。
麻衣子がひそかに心をときめかせたあこがれの上司。
だが多分、現実は違うものとなっているだろう。
麻衣子も会社を辞めてしまった。仕事仲間から彼はまた転職をしたと聞いた。
転がるように転職先のグレードは下がっていく。
人がずっと変わらないでいられることはないんだ。それが真実。
麻衣子はそのことを分かっていたのに、この後、それに翻弄され苦しむとはそのときは思いもよらなかった。