人形遊び
愛とか友情とか、そういう言葉には虫唾が走る。
そんな言葉を軽々しく使って、人は他人を利用するのだ。
人にとって、自分以外の他人は人ではない。
自分の部屋に置いてある人形と大差はない。
彼ら、彼女らはそういう言葉を使ってごっこ遊びがしたいだけなのだ。
空っぽな自分の心を穴を埋めるために。
例えば、恋人ごっこ。
例えば、友達ごっこ。
そして飽きたらまた人形を変え、同じように愛を囁き、友情を演じる。
そうやって誰もが自分の世界で人形遊びを繰り返すのだ。
人形には心がない。
それならば、誰かの世界で人形として扱われている私たちにも、心がないと言える。
そうだ、私たちに心などないのだ。
人を操り、操られることしかできず、最後には汚れ、壊れていく。
心はどこにあるのだろう。
私にも、そして今私を操っているであろう誰かにも心がないのならば。
心はどこにあるのだろう。
見えず、聞こえず、形もなく、誰もそのものを仮定できないのならば。
心はどこにあるのだろう。
この疑問さえも、私に垂らされた糸で編まれた巧妙な幻想なのか。
それとも私を操る、誰かの願いなのか。
だとするならば、滑稽だ。
人形が、人形に心を求めてどうするのか。
愛とか友情だとか、そんな言葉で他人の胸の中に、自分の心を探して何の意味があるのか。
自分の心は、自分の中にしかないのに。
自分の心さえも見つけられぬ人形が、他人の心などを理解出来るわけがないのに。
それでもあなた達はこの人形遊びを繰り返すのか。
ならば指を動かせばいい。
私を操って、見つけられるはずのない心を探し続けるといい。
私を操っているつもりで、その後ろであなたへと糸を垂らす誰かに操られつづければいい。
ありがとうございました。