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ふわりと、春の風が開け放たれた窓から部屋と入り込んで来た。それが少年の髪の毛を揺らがせて、船を漕いでいた所を覚醒させる。
「うえ?」
漏れ出た情け無い言葉も他所に、少年は寝ぼけ眼のまま無意識に口元の涎を袖で拭き取った。視線は宙を彼方此方、行ったり来たりしている。
ふと、蝶を追いかけるように揺らいでいた視線が何かを思い出したように足元を覗く。
その先には黒色の一冊の本が転がっていた。まだ、寝ぼけている彼は、とてもゆったりとした動作でそれを拾い上げる。
拾い上げた黒色の本には、金色の文字で『フェンリル』と記されていて、表紙の絵には黒色の大きな恐ろしい形相をした狼が描かれている。
そこで漸く少年の意識が頭のてっぺんまで浸透して行った。体が熱を帯びたように熱くなる。その熱は足の指先まで生暖かさを運んだ。
少年は適当にページを捲って、眠る前まで自分は何を見ていたのか、それを思い出したくて頼りもなく乱雑に捲る。ページが過ぎ去って行って、ほんの数秒で最後のページまで辿り着いてしまう。
程なくして彼は諦めて本を机の上に置いた。
元々フェンリルの物語は他の作品で読んだ事があるので、少年の興味は其処まで深くはない。
本を置いた彼は、一つ息を吐くと、深く椅子に腰を下ろした。
ゆっくりと辺りを見渡すが、有るのは目の前の机、ソファー二つに挟まれた背の低い机に、ちょっとした観葉植物に本棚が壁沿いに並んでいる。窓は一つ、扉は二つで一つは通りに出る玄関、もう一つは家の中に繋がる。
また少年が溜息を吐いた。彼の時間を潰す素晴らしい娯楽は存在しない。日々、朝から椅子に座るだけで過ごしている彼にとって、暇は労働と同じ苦痛とも言えた。
「これだと探偵の助手の仕事じゃなくて案山子だよ」
頬杖をついて嘆くが、彼の言葉には当然返答はない。静かに春の風が吹くだけだった。
ちらりと窓を盗み見るが、通りを歩く人達は自分の存在など気にする事なくさっさと通り過ぎて行く。
通りの喧騒が少年の心を真反対の静けさへと変換してしまうが、外の喧騒と内の静寂をすり替える力を少年は持ち合わせていない。ただただ無力さを味わうだけである。
そんな非力な少年の名はラグ。大量の借りによってある探偵に助手、という名の雑用係として扱われている以外はごくごく普通の少年である。
なぜ雑用係なんてやらされているのか、を簡単に説明すると。
彼は探偵と出会った時、自分に関する事の記臆が一切無い、所謂、記憶喪失と呼ばれるものだった。
名前や生まれた故郷とか職業も何もかも覚えておらず、もっと言えば、生きて行くための術すらも持ってないし、覚えていない程だった。
そこで、探偵から貸しという事で、ラグの名前を貰い、助手として雇ってもらえることになった。という事だ。
もし、探偵が居なければ、彼は飢えで死んでいただろう。
それに比べたら何時間も椅子に座る事など造作も無い。そんな気持ちが初期の彼を動かして来た筈だったのだが。そんな彼の意気込みも少しずつ暇と我儘な探偵に吸い尽くされ始めていた。
彼が探偵の元に来てから一年。記憶喪失の壁を取り払うのに半年使ったので、この仕事を務めているのは実質半年となる。詰まり、彼は椅子に座り続け一日を消費する仕事を約半年間続けて来た事になる。詰まりは、半年間の膨大すぎる暇な時間が、多量な借りがあるとは言え、継続していくヤル気をかなり削ぐまでに影響を与えた。
やる気が底を尽きそうな予感がしていた。
脳内でツラツラと今までの助手生活を振り返っていたラグが、現実逃避の居眠りを始めようと机に伏せようとした瞬間。
普段叩かれる筈のない扉が三度、叩かれた。
ざわりと心が震えた瞬間を、ラグは感じた。
それは久し振りに扉が叩かれた事に対してだけではない。いや、それもあるかもしれないが、彼の微生物くらいの本能が騒がしいのを感じている。
覚醒済みである筈の脳が、それ以上に冴え始めた。
静かに椅子から立ち上がる。
太もも辺りの汗が足を伝って床に落ちる感覚がする。
足は鉛を仕込んだのではと疑うほど重たい。
ラグが此処まで恐怖した事は記憶のある一年間の中でも数回体験済みだが、日常色が強い中でこれだけのプレッシャーは始めてだった。
扉の前まで辿り着き、ヒンヤリとしたノブを握ってゆっくりと回す。
外開きの扉が全開し、叩いた客人の姿が露わになる。
ラグの表情が驚き一色に染められた。
「此処がアリス・ヴァイオレットの事務所か?」
そこに居たのは、軍の制服に身を包み、白と金の帽子を深々と被ったスキンヘッドの強面であった。
ラグの感情が驚きから恐怖へと染め上がる。
「おい、聞いてるだろ」
思わず危惧していた案山子化が進行しそうになるが、ラグは慌てて取り繕う様に口を開いた。
「あはは、すみません。そこで間違いないです」
視点はぶれぶれ、それどころか止まる事なく目が忙しなく動いている。
表情も誰が見ても分かるほど青くなってしまっている。顔中も汗塗れだ。
「そ、それで軍人様が何用で?」
そう言うと目の前の軍人は眉を潜めてラグを睨んだ。自然と背筋が伸びて目を閉じてしまう。
ラグの様子を見て、諦めたように軍人は返答をする。
「アリス・ヴァイオレットと話したい事がある。事を急ぐ大切な用事だ」
それを聞いて漸くラグが自分の仕事を思い出した。どうやら雇い主の探偵、アリス・ヴァイオレットの客人であり、助手の自分の客人だという事を把握した様だ。
「す、すみませんでした!中にお入りください」
急いでラグは横に退いて進路を譲り、それを見て軍人が彼の横を通る。中に入ったのを確認したラグは外開きの扉を丁寧に閉じる。
最後に通りを一瞥して閉めた。
振り返ったラグは部屋に佇む軍人にソファーへ座る事を促す。
促されるまま軍人は腰を掛けた。
「これからアリスを呼んできますが」
出口とは違うもう一つの扉の前で、ラグは軍人に尋ねた。アリスはある程度の依頼を選別する。雑用はラグが担当し、ある程度の難しい内容であればアリスが担当する。なので、依頼人の名前と内容は事前に聞いてからラグからアリスに伝える。
「ああ、名前か。クラーツァとでも言えば通じるだろう。内容は急用としてくれ」
しかし、今回の依頼人のクラーツァという軍人の男はそれしか喋らなかった。
張り詰めている空気が何となく想像させる。
ラグはわかりましたと一言発して、流れるようにするりと扉から部屋を出た。
廊下は少し薄暗い。それでも先程の空間より空気は良く感じられた。
間違いなくこの急用は厄介だ。
そう感じたラグは早歩きで素早くアリスの部屋へと向かった。