第八話 俺の兄弟
俺には、二人の兄弟がいる。偉そうな兄貴のカイルと溌剌とした妹のアシュリー。真ん中の俺は、大人しい性格をしていた。無論二人と比べて、ではなく世間一般の多くの子どもと比べて、だ。兄貴とは三歳、アシュリーとは二歳離れている。自己主張の激しい二人と歳が近い分、余計に大人しい、というよりも寧ろ影の薄い存在になっていたのかもしれない。
兄貴は幼少期は平均的だったくせに、気が付くとグングン背が伸びていった。思春期になる頃には縦にも横にも大きくて、間近に立たれると壁か、と思うほどだった。元々人相が悪いうえに体格にも恵まれた兄貴は、見た目通りの性格をしていた。短気で傲慢、大雑把で豪快、軽率。たった一つの良い所といえば、面倒見が良いところだろう。
三人兄弟の長男だったからか、何かと俺たちの世話を焼いていた気がする。特にアシュリーは特別だった。少し歳が離れているし、女の子だし人懐っこい。表情が豊かな所はカイルにそっくりね、なんてよく母さんに言われていて、アシュリーにとってはそれが一番の褒め言葉だったようだったし。とにかく可愛くて、仕方がなかったのだろう。俺も兄貴と一緒になって甘やかしてばかりいた。
アシュリーはじっとしていることが苦手な、活発な子だった。生まれつき心臓が悪くてあまり激しい運動は出来なかったが、そうでなくても運動音痴だった。
兄貴とは様々な面で対照的だった。ほっそりしていたし、身体が弱かったし、性格も良い意味で清々しかった。根に持つようなことは全くなく、一度寝てしまえば嫌なことは全て忘れてしまうような。十四年前に死んでしまったから七歳までのアシュリーしか、俺は知らない。でも甘やかしてくれる兄が二人もいるからか、歳のわりにはどこか幼いところがあった気がする。それに気付いたのは、アシュリーが亡くなるほんの数ヶ月前のことだったけど。
その頃のアシュリーは、毎日浮かれていた。一年前に今の家に引っ越してきて、数少ない友達と離れることになってしまったアシュリーは酷く落ち込んでいたから、俺たち家族にとってもその変化は嬉しいものだった。
新しいお友達が出来たの、とアシュリーは得意げに教えてくれた。自慢したそうな顔で話すものだから俺も兄貴もどんな友達ができたのか聞いてみたけれど、アシュリーの答えは決まって「秘密なの」だった。時折「歌が上手なんだよ」とか「きれいな髪なの」とか「きらきらなんだよ」とかその子の特徴を教えてくれることもあった。あまりにも抽象的で意味が通じないこともあったけれど、そういったことについては一切説明をしてくれなかった。
今思うと、その友達はロゼッタで、ロゼッタが秘密にするように頼んだからはっきりとした説明ができなかったのだろう。
毎日海岸へ散歩しに行っては上機嫌で帰ってくる。大人しく遊んでいたようだし、機嫌が良いから体調も良い。だからこそ、俺たちはアシュリーの友達に一度も会ったことがなくても安心していた。
喧嘩をして帰ってきたのは、アシュリーの散歩がすっかり日課になった頃だった。友達に見せてあげたいの、とお気に入りの「人魚姫」の絵本を持って出掛けて行って、珍しく泣きながら、日が傾く前に帰ってきた。何があったのか聞いても、暫くは「王子様は優しいんだもん」としか言わない。大方絵本のことで口論になったのだろう、と俺たちはアシュリーをどうにか宥めて詳しい話を聞こうとした。やっと出来た友達なのだし、仲違いをしてもきちんと仲直りをして欲しかったから。
だけどアシュリーは詳しくは話そうとしなかった。大雑把に事の成り行きを説明したものの、どうして友達が絵本の内容に難色を示し、それほどまでに憤慨したのかは知っているのに話したくない、といった態度を崩さなかった。大喧嘩をしたものの、律儀で友達思いのアシュリーは秘密を話すことは出来なかったのだ。
友達が何故怒ったのか理解をしているのに、どうして喧嘩になってしまったのか。それを問いただすと理由は至ってシンプルなものだった。アシュリーが「人魚姫」の話が大好きで、人魚姫が死んでしまって悲しんでいるはずの王子様を悪く言われたことが気に入らなかったのだという。
相当頭にきていた様子のアシュリーだったが、一晩寝ると翌朝にはしょんぼりとしていて冷静に前日のことを考えられるようになったようだった。友達に謝ってくる、とは言ったものの、友達が会いに来てくれなかったらどうしよう、と珍しく弱気にもなっている様だった。しかしいつもの時間になると母が焼いてくれたクッキーを片手に元気良く海岸へ降りて言った。
アシュリーが帰ってきたのは夕方で、表情も晴れ晴れとしていた。聞いた所によると解決はしなかったものの喧嘩をしていたくはないから仲直りをした、といった感じでアシュリーは自分の意見を曲げることはなかったようだった。絵本の内容一つで大喧嘩をして、喧嘩をしていたくないからと自分の主張は曲げないのに仲直りをする。喧嘩の原因についても、友達が怒った理由が分かっているのに感情が抑えられない辺り、我が妹ながら幼い、とその時は思ってしまった。実際、アシュリーはその後一度として友達と人魚姫の話はしなかったようだから強ち間違いではないのだろう。
アシュリーの体調が大きく崩れたのは、嵐が来たときだった。汗ばむ位の気温だったのに突然寒くなったり、外に出ると息がしづらいほど風が強かったり。急激な温度変化だけではなく、精神的なものもアシュリーの不調の一因だった。あの時は何をそんなに気にしているのかが分からなかったけれど、今なら分かる。アシュリーは友達を、ロゼッタを心配していたんだ。海の中がどうなっているか、陸からは分からない。嵐が海に与える影響はどんなものなのか、人間の俺たちじゃ知ることは出来ない。だからこそ、あんなに心配していたんだ。
嵐が収まると、アシュリーは歩き回れる程には快復していた。ただし長時間は辛そうで、絶対安静。俺たちは口うるさく寝ているように言ったものだ。けれどアシュリーはこっそりと家を抜け出しては海岸へ降りていた。それ程ロゼッタが心配だったのだろう。しかし海岸へ降りる階段はあまりにも急だ。降りるのも昇るのも、弱ったアシュリーには大きな負担となっていた。
そんな無理がたたったのか、数日後にアシュリーは立つことも儘ならないほどに衰弱し、やがて息を引き取ってしまった。俺たちは何とかアシュリーの友達にそのことを知らせてあげたいと思ったものの、アシュリーは何一つとして教えてはくれないままだった。その内、友達には申し訳ないがアシュリーのことを伝えるのは諦めよう、と決まった。
兄貴が別人のように変わってしまったのはそれからだった。あまり口を利かなくなったし、表情の作り方もどこか自嘲めいたものになった。短気に拍車がかかったし、すぐに手が出るようにもなった。思春期に差し掛かると家には段々寄り付かなくなり、自立できるようになるとすぐに家を出た。その頃までには母が心労からか他界し、父も随分衰弱していた。
父が亡くなると家は俺が貰い受けた。時折帰ってくる兄貴は父が亡くなったことに然程驚かず、長く住んだ家にも全くと言っていいほどに興味がないようだった。あれ程アシュリーを溺愛していたくせに墓を拝みに帰ってくることすら稀で、三、四度来たか来ていないかという有様だ。きっと逃げているのだろう、と俺は思っている。兄貴は図体こそでかいものの、心は人一倍敏感だったようだから。
兄貴が何の仕事をしているのかは知らない。でも、あまり人には言えないようなものなのだろう。妙に高い物をもっているようだし、精神的に、安定してないように見える。まあ、それは未だにアシュリーのことを引きずっているだけかもしれないけど。
それから、ロゼッタに向ける視線がおかしい。どんな風に、と言われるとはっきりとは答えられない。でも値踏みしているようだし、軽蔑・・・のようなものも含まれているように感じる。本当は何をしに帰ってきたのかは知らないけれど、ロゼッタを見てから家に泊まることを決めたのはほぼ確実だろう。実の兄を疑いたくはないけれど、ロゼッタに何かあってからでは遅いし、警戒するに越したことはない。
今、俺には守るべき人がいる。そのためには、何が出来る?兄貴のためには?嵐はまだ、収まらない。時折来るこの嵐にはもう慣れたと思っていたのに、今は異様なほど不安を感じる。もう、兄貴を放ったらかしてはいられない。アシュリーのことに、ちゃんと目を向けさせなくては。
ゴロリ、と寝返りを打って横を向く。目が冴えて眠れない。いや、眠らないほうがいいか。溜息をついて目を開いた。厚い雲のせいでいつもより暗い。目を瞑っていても、そんなに変わらない。もう一度、溜息を吐いた。
今日、どうして兄貴は帰ってきたのだろう。それも、こんな嵐の中。急を要する用件だったのだろうけれど、何かを俺に要求してはこなかった。兄貴がアシュリーを見る目つきと、何か関係があるようにしか思えない。明日、問い詰めてみよう。
そう決めたときだった。隣の部屋から微かに音が聞こえた。この嵐だから聞き間違えたのか風なのかもしれない。けれど何かが落ちたような音ではなかった。確証はないけれど、人の声だったような・・・。
「ロゼッタ・・・!」
押し殺した声で叫び、俺は飛び起きた。隣はロゼッタの部屋だ。まさか兄貴が?
ドアを開けると、隣の部屋のドアが開け放たれているのが目に入った。廊下の角に人影が消えていく。
「兄貴!」
叫んでその後を追うと、玄関の手前でピタリと動きが止まった。暗いせいでその姿はおぼろげだけれど、後ろから片腕でロゼッタの腰を抱え込み、反対の手では口を押さえているようだ。ロゼッタが兄貴の手を口から離そうと弱々しくもがいているのが見える。近くに来たからロゼッタが小さく呻いているのが聞こえた。
まるで口が裂けたように、兄貴は哂った。
「お前がそんな必死こいた顔するなんてな・・・・。これが、そんなに大事か?」
兄貴は腰に回していた手でロゼッタの腹をきつく締め上げた。
「やめろ」
低く、唸る。稲妻がカッと辺りを照らし出した。ロゼッタの顔は青褪め、今にも気を失ってしまいそうだ。兄貴は腕を緩めると肩を竦めて外を見やった。いかにも残念そうで、悪びれた様子は微塵もない。
「この嵐なら気づかれねえと思ったんだけどな・・・」
「何を、するつもり?ロゼッタを放せ」
兄貴は口を尖らせるとロゼッタの腰から手を放した。そして自分の腰に手を当てる。無造作に取り出されたのは拳銃だった。片手でそれを弄びながら、何気ない調子で口を開く。
「お前さあ、オレが何かヤバい仕事でもしてんじゃねえかって思ってたろ?さすがカイン、当たりだよ。幾つかやったけどさ、今やってるのは一番楽で一番稼げんだわ。何だと思う?」
ゆっくりと兄貴の顔からロゼッタ、そして拳銃へと視線を移した。拳銃はきっと本物なのだろう、兄貴はこんな細かい小細工をするような性格じゃない。
つうっと首筋を汗が伝う。
「・・・・人攫い、でも?」
「ま、そんな感じだな。ホントは今日お前に金借りに来たんだけどよ、こんなもの見つけちまったら、な」
こんなもの、と兄貴はロゼッタを乱暴に揺さぶる。その拍子に手がずれ、ロゼッタは大きく息を吸い込んだ。ヒュウッと引き攣った音がなる。
「ロゼッタの、何が気に入らない?」
「あ?むしろお前はなんでこれに拘ってんだよ。アシュリーが死ぬ原因みてえなもんだろうがよ!」
叫んで、また肩を強く揺さぶった。鋭く息を飲む。ロゼッタの目が、零れ落ちそうなほど大きく開かれている。明らかに、揺さぶられたことよりも兄貴の言葉の方にショックを受けている。
「違う、アシュリーは」
「アシュリーは具合が悪いのにこれに会いに行って余計に衰弱した」
「兄貴!」
わざと言葉を被せてきた兄貴に噛み付くように一歩踏み出した。ロゼッタの指先が小刻みに震えている。ガチャリ、と音がなった気がした。ロゼッタのこめかみに拳銃が突きつけられている。近づくなよ、と無言の牽制をされているのか。唇を噛んで踏み出した足を戻した。
「人魚、か。好きだったよな、アシュリー」
溜息を吐いて拳銃をおろした。
「何が言いたい」
「残念だよなあ、仕事とはいえあいつのダチを売らなきゃいけねえなんてさ。けど人魚だぜ?幾らになるか想像もつかねえ。なあカイン、これが売れたらオレはこの仕事から足洗えるんだよ。オレだって、好きでこんなことしてんじゃねえ、分かんだろ?」
奥歯をかみ締める。足を洗う?好きでやってるわけじゃない?どこがだ。俺が兄貴の嘘を見抜けないとでも?
兄貴はまた溜息を吐いた。そしてそのまま、おろしていた拳銃を俺に向ける。
「まあ、わからねえならそれでいいや。追いかけてさえこなけりゃな。カイン、お前はオレにとってたった一人残った肉親だ。殺したくねえ、アシュリーのためにも。よく考えろよ、アシュリーとこれのどっちが大切か。・・・考えるまでもねえか」
ふっと歪んだ笑みを浮かべ、兄貴はロゼッタの腕を引いて身を翻した。咄嗟に手を伸ばして足を踏み出すも、一瞬目が合ったロゼッタは蒼白な顔で首を振った。追いかけてくるな、って言いたい?なんで・・・。
その場に縫いとめられたまま動けずにいるうちに玄関は嵐に負けじと大きな音をたてて閉まった。伸ばしたままの片手が扉に軽く触れた。は、と軽く息を吐くと途端に身体の力が抜けて玄関に座り込んだ。
「ロゼッタ・・・」
思わず毀れた呟きは、妹の名ではなかった。