第六話 嵐
今日は夜が明ける前から大雨が降っていた。雨粒が窓に叩きつける音は海面に叩きつける音とは全然違う。もっと硬くて、一つ一つの音がはっきりしてる。風が吹く音は不安を煽る。海の中では風の音なんて、聞こえないから。
身体がやけに重くて、シーツを被ったまま横に倒れこむ。僅かに沈み込む感覚。だけど、足りない。ここは海じゃない。怖い、と少し思う。沈んで、沈んで、海に包み込まれたい。
「ロゼッタ、起きてる?」
扉越しに聞こえた声に少し安心して、小さく返事を返す。でもそれはほとんど言葉にはならなかった。まるで海の中で口を開けたときに浮かんだ泡がたてた音みたい。
抱えたままだった膝を強く抱え直して目を開く。頭まで布団を被っているからか、何も見えない。自分の呼吸音がやけに大きく響く。
「ロゼッタ?入るよ?」
少し間が空き、扉が開く音が聞こえた。ベッドが沈んだのは、カインが座ったからなのかな。
「怖い?」
カインの手が、そっと私の肩を撫でてくれる。温かい。
「・・・帰りたい」
「え?」
小さく呟くと、カインは聞き返してシーツを捲った。目の前のカインは、とっても優しい顔をしてる。私が我がままを言ってここに泊めてもらっているのに、突然「帰りたい」だなんて言ったのに、少し、笑ってる。
「海に、帰りたい。ここは怖いの・・・怖い」
「俺がいても、怖い?」
頷くと、カインは私を抱き上げた。そしてそのまま、歩き出す。シーツから出ると、途端に外の音が激しくなる。まるで、私を責めているかのように。カインの首に顔を埋めると、カインは頬を私の頭に乗せた。
「体調、悪い?」
「うん・・・身体が、重い」
「海に入れば治りそう?」
私は強く目を閉じ、首を振った。
「分からない・・・。でも、海が恋しい」
そうか、と呟いてカインは外に出た。それと同時に吹き付ける強い風。むき出しの腕に打ちつける雨は痛いほどに冷たい。いつもは潮の香りがするはずなのに、雨の匂いしかしなくて不安になる。
陸はやっぱり、私達人魚がいてはいけない場所なんだ。帰れって、叫ばれているみたい。もう二度と上がってくるなって、怒鳴られているみたい。身体の力が抜けて、元に戻ったのが分かった。カインが抱えなおすのに合わせて、私ももう一度腕に力をいれる。
濡れた髪が頬に、腕に、背中にぴったりと張り付いては風の力で無理やり剥がされる。海では、こんなことはないのに。海は優しく髪を梳いてくれる。優しく肌を撫でてくれる。優しく私を、包んでくれる。陸は、怖い。何もかもが荒っぽくて、壊れてしまいそうになる。
「着いたよ、ロゼッタ」
その言葉と共にそっと海に降ろされる。優しく温かいはずの海が、酷く冷たく感じる。陸に近いせいで、波が強く肌を打つ。
ゆっくりと沈み込んで視界が埋め尽くされるほど泡を吐いた。こぽこぽと浮かんでいく泡が、無性に懐かしい。
「ぷはっ・・・!」
海面に顔を出すと、カインは胸の辺りまで海に浸かったまま、私を見ていた。激しい雨のせいで海に潜った私と変わらないほど濡れている。
「落ち着いた?」
「うん。ありがとう、カイン」
「良かった」
めいっぱい手を伸ばして、カインの額にかかった前髪をそっと払いのける。カインは微笑むと、波に押されてよろめいた。慌てて支えると、カインは照れたような困ったような表情を浮かべた。そのまま、黙り込んでしまう。
なんとなく苦しくなって、私は口を開いた。
「カイン?寒いの?」
「いや・・・大丈夫」
だけど、眉根は寄せたまま。まるでどこか苦しいみたい。
「ロゼッタは、海にいるときが一番心地よさそうだね」
「え?うん、私は人魚だもん」
「そうか」
呟いて、カインは空を仰いだ。
「ロゼッタは、人間の暮らしには、馴染めないみたいだ。このまま、お帰り。アシュリーのことはもう済んだし、身体を壊してしまうから」
私はぼんやりとカインを見上げ、首を竦めた。私、拒絶されてるみたい。何か怒らせるようなことでも、しちゃったのかな。何日もカインの家でお世話になったし・・・。家には、帰りたくないけれど。
そのまま黙っていると、カインは私の頭を撫ぜた。少し腰を屈めて目線を合わせ、薄らと笑みを浮かべる。
「ロゼッタ、ロゼッタが身体を壊すのは俺もアシュリーも、望まないよ」
「・・・うん」
「陸は海と違って体調を崩しやすいみたいだからね」
「・・・うん」
胸に顎が付くほど俯くと、カインは私の頬に手を当て、顔を上げさせる。
「帰って、くれる?ロゼッタとアシュリーのためにも」
ずるいな、カインは。アシュリーちゃんのためだなんて言われたら、断れるわけないのに。私は口を尖らせて目の下まで身を沈めた。
「帰りたくない?」
「うん」
頷くと、カインは少し嬉しそうに笑った。
「今まで聞かないほうが良いと思って聞かなかったけど、ご両親は心配してないのかな」
カインの問いに、思わず首を傾げてしまう。ご両親・・・。
「人間は、家族との絆を大切にするって、聞いたことある・・・。でも人魚には別に、そんな文化はないの。産み育ててもらった恩はあるけれど、同族はみんな同じくらい大事。産んでもらったとか、血が繋がってるとか、そういった区別はしないんだよ」
カインは目を丸くして少し身を乗り出す。まただ。カインは興味のある話になるといつもこうだ。頬に打ち付ける雨も、額に張り付く髪も気にならない・・・というよりも、その存在を忘れてしまったみたい。このまま有耶無耶にできないかな。
「私達の数は少ないから、殆ど家族以外の同族と会うこともないけど。協調性・・・っていうのかな、私達のそういうところは人間よりも魚に近いの」
「じゃ、種類とかは、ない?鰯とか、鮫みたいに」
答えようと口を開いたときに、一際大きな波が打ち寄せた。カインはバランスを崩し、前に倒れこむ。慌てて腰を捕まえ、真っ直ぐに立たせるとカインは照れたような笑みを浮かべた。さっきもそうだけれど、人間は簡単に波に揺られてしまうみたい。嵐の中だとしても、まだそんなに荒れていないのにこれ位の波で立っていられないなんて。
「ねえカイン、家に帰ったほうがいいよ。このままだと溺れちゃう」
カインは少し考え込んだ後、突然私を抱き上げた。そしてそのまま陸に向かって歩いていく。
「え、カイン?」
驚いて声を上げるとカインは茶目っ気のある笑みを浮かべた。カインでも、そんな顔するんだ・・・。
「ロゼッタは帰りたくないみたいだし、俺もまだ帰したくない。聞きたいことも沢山あるし・・・。もう少し、家にいて」
「いいのっ?」
勢い込んで聞くとカインは頷いてくれた。良かった、カインの知識欲に感謝しないと。
身体が完全に海から出ると、途端に倦怠感に襲われた。更に、打ち付ける雨がはっきりとした悪意を持っているかのようにも感じられる。ぶるり、と身震いをしたのに気がついたのか、カインは私を抱く腕に力が籠もる。崖の急な階段はこんな風の強い日に上るものじゃない。時折カインの身体が風に煽られて傾ぐのを感じて、じっとりとした汗が流れる。出来るだけ身を寄せて、バランスが取れるようにする。
階段を上がりきる頃には、カインの息が少し上がっていた。
「カイン、大丈夫?」
「ん?ああ、大したことないよ」
ふ、とカインの顔が緩む。だけど、すぐに不思議そうな顔をして顔を上げた。
「どうしたの・・・?」
問いかけながらカインと同じように辺りを見まわすと、カインの車の傍に見覚えのない真っ赤な車が止まっているのが見えた。天井が低くて、何だか早そうな形。
「今、声が聞こえた気がして・・・」
呟き、カインはハッと息を飲んだ。車を目に留め、それから家の方へと視線を移す。
テラスには、見知らぬ人がいた。がっしりとした身体に褐色の肌、髪は少し明るめの黒。男性は雨に濡れるのにも気がつかない様子で大きく口を広げたままこちらを見ている。まるでさっきまで、叫んでいたみたい。ううん、実際そうだったのかも。カインが聞いたのはあの人の声だったのかもしれない。
「兄貴・・・」
小さく呟いて、カインは半ば反射的に私を隠すように引き寄せた。でももう、遅い。この激しい雨の中でもはっきりと私の鰭は見えたはずだから。
嵐はまるで、収まる様子を見せない。