第五話 人間の町
朝ご飯を食べ終わると、カインは私にコップを渡しながら首を傾げた。
「ロゼッタ、どうかした?」
声を掛けられて、私は少しカインに顔を向けた。
「海が、荒れそうで・・・。もうすぐ、大きな台風が来るね」
カインは私のように海の方を見たけれど、やがて首を振った。
「台風か。人魚はみんな天気が分かるの?」
「人間には、分からないの?どんな生き物でも少しは予測できるものだと思ってた」
カインは苦笑して、自分のお皿を持って立ち上がる。私も食べ終わったお皿を持ってついていった。
「人間はそういった感覚が退化してしまっているから。ロゼッタ、買い物に行くけど、行く?」
買い物、ってことは、人間の町に行くのかな。人間が沢山いるんだよね。私が行って、大丈夫なのかな。もしも人魚だってばれちゃったら、捕まっちゃって海には帰れなくなるかもしれない。カインは良い人だけど、悪い人だっているんだから。
でも、カインと一緒なら大丈夫かな。それに人間の町って、見てみたい。
「うん、行きたい!」
支度を済ませて、私達は家を出る。カインは日差しが強いから、と私に麦っていう植物を編んで作られた帽子を被せて、水の入った水筒を持たせてくれた。
海からは見えない家の反対側に回ると、見たことのない大きな箱があった。真珠みたいな色で丸みを帯びていて、中には椅子みたいなのが四つ。
カインはそれの扉を開けると、私を手招きして中に入るように促した。少し屈んで入ると、むわっと暑い。カインは扉を閉めて、反対側の扉から入ってきて私の隣に座った。カインの目の前には、真ん中に向って二本の棒がある輪っかがついている。
カインが手前の壁に何かをすると、箱全体が低い音をたてて震え始めた。正面の細長い穴からは、涼しい風が吹いてくる。
「わわっ、何これ」
もしかしてこれは生き物?勝手に乗ったから、怒っているの?ううん、だとしたら私達は生き物の身体の中に入り込んだことになる。でも貝のような生き物だったら、こんな形なのもわかるけど、こんな生き物聞いたこともない・・・!
「車っていうんだよ。人間の乗り物」
カインは足元の棒を踏む。すると、その車は動き始めた。自分達で走るよりも断然早いし、疲れることもない。すごく便利。
車を走らせながら、カインは車や町のことを色々と説明してくれた。今から行く町はあまり大きな町ではないし、人もそんなに多くないんだって。良かった、人間だらけだったらどうしようって思ってたもん。
車が進むにつれて、辺りの景色は段々変わってきた。左右どちらを見ても家が建っているし、自然がぐんと減っていく。
カインが車を停める頃には、歩いている人間や色んな色や形の車を何台も見ていた。こんなに沢山いて少ない方だなんて、人間は一体、どうやって暮らしているんだろう。住む場所がなくなったりはしないのかな。
車を降りて、カインと並んで歩く。砂じゃない地面は触ってもいないのにすごく熱い。これだと持ってきたお水はすぐになくなってしまいそう。
道を歩いていると、突然カインが声を掛けられた。
「あらあ、昨日のお兄さん!隣にいるのは彼女さん?あっ、うちで買ってくれたワンピースだね、それは」
声を掛けてきたのは恰幅の良いおばさんだった。大きな笑顔を浮かべてこちらを見ている。私は驚いて、カインの背中に隠れた。カインは少し笑うと会釈をしてそのまま通り過ぎてしまう。おばさんも、それ以上は話しかけてこなかった。
「ロゼッタ、欲しいものがあったら言って。服も、もう何着か買おう」
あまりの人の多さに縮こまりながら、私はなんとか頷く。カインの腕にしっかりと掴まり、落ち着けるようにゆっくりと呼吸をする。途端に、口の中に変な味が広がった。何だか気持ちが悪くて俯いていると、じっとりとした風が頬を撫ぜた。
「ロゼッタ、手を繋ごう」
「え・・・?」
「ほら」
カインは私の手を握り、笑ってみせる。包み込まれた手が温かくて、ほっとする。
それからは辺りを見回す余裕もでき、色んなお店を見て回った。誰かに話しかけられるのはまだ怖いけれど、可愛い服は見つけられたし、面白いものも沢山見れた。お昼ご飯は素敵なお店で食べて、別のお店ではおやつに甘いものも食べれて、とても満足。
それは、もう帰ろうかって話になって、手を繋いだまま細い道を歩いていた時のことだった。
「もう、いい加減にしてよっ!」
突然頭上から鋭い声がして、私達は二人で上を見上げた。すると、開いていた窓から青いものが飛び出してきて、それが何かを認識する前にカインが私を強く抱き寄せた。その拍子に帽子が落ちてしまい、私はそれに向って思わず手を伸ばす。
「あ・・・」
届かない、と思った瞬間にはもう遅かった。ばしゃり、という音と共に失われるカインの体温。抜けていく、足の力。頬を伝う雫。水がかかったんだ、と認識したときにはカインに抱きしめられたまま地面に座り込んでしまっていた。
「あっ、やだ、人がいたじゃないの!」
上から降ってきた声に肩を震わせると、カインは素早く帽子を被せてくれた。
「ごめんなさい、今タオル持って行くんで、待っててくれます?怪我とかありませんでしたか?」
カインは私の前に立って相手から見えないように庇ってくれたみたいだった。顔にかかった水を拭いながら、足元に視線を向ける。サンダルは脱げてしまっていたけれど、長い裾のお陰で鰭はすっぽりと隠れていた。
「いや、大丈夫です。近くに車がありますし、急いでいるので」
カインは断って、私のサンダルを拾った。上を見上げると、女性が頭を引っ込めるところだった。カインは帽子を私の手に持たせると、すっかり色の変わった髪を右肩から前に垂らして自分が着ていたジャケットを私の頭に被せた。そして、私を抱き上げる。
人間には私の髪は珍しいから、隠してくれたのだろう。ジャケットと帽子で辛うじて髪は隠れている。でも鰭は、見えてしまいそう。
「カイン・・・」
「走るよ、ロゼッタ。掴まって」
そこから車までは少し距離があったけれど、多分誰にも見られずに来れたと思う。車に乗ると、カインはすぐに車を走らせた。町から離れて回りにほとんど家がなくなるとようやくジャケットをとることが出来た。
「ロゼッタ、顔が真っ青だ」
「・・・びっくり、した」
呟くと、何故だか楽しくなってきてしまった。突然笑い声を上げた私につられたのか、カインも少しだけ口角をあげる。
「どうしたの?」
「だって、あの人、水の入ったバケツを投げるなんて!それに、すごい声で怒ってたのに、私達がいたのに気付いたら、急に優しい声になって」
カインは一瞬私に目を向けると、嬉しそうに微笑んだ。
「そうだね。俺も、びっくりした。・・・でも、大事にならなくて良かった」
家へ着くと、一気に疲れがでた気がする。初めて人間が沢山いるところに行ったし、初めてこんなに沢山歩いたし、初めてのことだらけ。長く息を吐いてテーブルに頭を乗せると、カインが私の髪を梳き始めた。
「大分、乾いたね。・・・ロゼッタ、今日は疲れた?」
「うん、とっても。でも楽しかったよ。こんなにドキドキしたのって、初めて」
両手で頭を支えて笑ってみせる。カインは相変わらず私の髪を梳きながら、笑い返してくれた。なんだか、落ち着くなあ。
カインはとっても優しいし、潮の香りは安心する。深呼吸しても、もうあの変な味もしない。人間の生活には少し憧れていたけれど、便利な代わりに、人間はきっと自然の大切さを忘れていったんだろうな。町があんなに暑かったのは元々の地面を塞いじゃったからだろうし、変な味は車から出る煙の味で、それを綺麗にしてくれる木や葉っぱは極端に少ない。でも、人間はそれをなんとも思っていないみたいだった。
人間は、自分達の暮らしが他の生き物にも影響を与えていること、知っているのかな。楽しそうだったけど、私にはとてもあんな暮らしはできないなあ。
目を瞑ると、潮風が髪を揺らしていった。暖かい西日が、どうしようもなく眠気を誘う。意味のない考え事をしながら、気がつけば私は眠っていた。
「ふあ・・・」
欠伸をして、大きく伸びをする。既に陽は暮れていて、テラスから吹き込む風は少し肌寒い。私の肩にはカインの上着がかかっていた。カインがかけてくれたのかな。
キッチンからはいい匂いとジュージュー何かを焼いている音がする。もうお夕飯の時間なのかな。立ち上がってキッチンに行くと、カインが腕まくりをしてフライパンを揺すっていた。
「おはよう、ロゼッタ。すぐに出来るから、水飲んで座ってて」
「おはよう。うん、分かった。テーブル、拭いておくね」
水を飲んでテーブルを拭いて、座って待つ。テラスから吹く風が気持ちいい。起きたばかりだけど、まだ少し眠たいな。
「お待たせロゼッタ」
テーブルに置かれたのは湯気を立てているお肉。一口食べると、とっても柔らかい。熱いけれどさっぱりしていて食べやすい。
「美味しーい!」
カインはニコニコ笑ってスープを口に運ぶ。カインって、本当に仕草が上品。私も見習いたいなぁ。食器の使い方って難しい。元々人間は手先が器用な種族だし、道具を使って物を食べるのは人間だけなのだけど。
お夕飯を食べて食器を片付けると、カインは先にお風呂に入るように勧めてくれた。買ってもらったばかりの着替えを持って脱衣所へ向かうと、カインが意味ありげに笑っているのが見えた。一体、どうしたのかな。
「風呂出たら呼んで」
「うん・・・」
カイン、説明してくれないみたい。首を傾げながらお風呂に入る。別に変わったところはないみたい。だけど、湯船の蓋を開けると疑問は消えた。
「うわあ・・・!」
湯船には薔薇の花びらが沢山浮かんでいた。とはいっても、本物ではなくて作り物。今日お買い物に行ったときに可愛いお店で見つけたもの。入浴剤って言うんだって。最初は薔薇の形をしているんだけど、お湯に浮かべると段々溶けてきて一枚一枚に分かれる。それは溶けながらお湯に薔薇の色を付けていって、香りもする。
可愛いなって思って見つめていたらカインが買ってくれたもの。溶けちゃうのは少し勿体無いけれど、楽しいな。