第二話 人魚姫
家へ戻ると、カインは奥にある扉を開けた。そこは狭く、壁に鏡が備え付けられていた。背の低い棚や、四角い変な箱、空っぽの籠が置いてある。更に奥にはもう一つ、半分透き通っている扉が付いている。なんだか、息を沢山吐き出したときにできる泡の向こう側を見ているみたい。
物珍しさに辺りを見回していると、カインは私を棚の上に降ろした。そしてその引き出しを開け、中から白いタオルを取り出す。
「ロゼッタ、ちょっと待ってて」
そう言って、カインは部屋から出て行ってしまった。戻ってきたときに腕に抱えていたのはカインが着ているのと同じような、真っ白なシャツ。
「風呂出たら、これ着て。多分ぶかぶかだとは思うけど、濡れてるもの着るよりはマシだろうし。それから、流石にズボンは履けないと思うからシャツだけで我慢して?今着ている服はそこの籠に入れておいて」
「うん・・・」
頷いてシャツを受け取ってはみたけれど、風呂を出たらってどういう意味だろう。聞いてみようと思ったのに、何故かカインは直ぐに逃げるように部屋から出て行ってしまった。一体、どうしたのだろう。
閉められた扉を呆然と見ていたけれど、どうすればいいか分からなくて、扉に向って手を伸ばす。なんとか届く距離だ。
「あの、カイン?」
遠慮がちに声を上げるとカインは直ぐに返事を返してくれた。でも、顔は見せてくれない。
「ごめんなさい、私人間の生活はよく分からないの。風呂って、なあに?私、一体何をすればいいの?」
カインは小さくあっと言ったみたい。直ぐに顔を出してくれた。
「ごめん、気付かなくて。説明する」
一つ一つ指差しながら教えてくれたものは、どれもみんなビックリするようなものばかりだった。お風呂って、水のない陸ならではのものなんだ。私達には想像もできない。ずっと水の中で暮らしているから人間のように服や体が汚れてしまうこともないのだし、必要のないものではあるけれど。
説明が終わるとカインは脱衣所から出て行こうとしたけれど、引き換えして私を抱き上げた。そして、お風呂の中にある椅子に座らせてくれて、手が届きそうな所にタオルや着替えを置いてくれた。
「俺はこっちにいるから着替え終わったら、呼んで。リビングに連れて行くから」
「うん、ありがとう」
お礼を言ってカインが扉を閉めるとさっそくシャワーを出してみた。温かい水が雨のように降ってくる。体に当たると面白い。雨みたいだけど、雨とは全然違う。温かいし勢いが強いのかな、気持ちいい。
次に石鹸を手にとってみた。ツルツル、ヌルヌルしてる。ちゃんと持っていないと落っことしてしまいそう。泡立てると泡が幾つかふわふわと浮かんでいった。吹いてみると、もっと沢山。陸では息をしても泡は出来ないから、なんだか久しぶりに泡を見たような気がする。
気が付けば、随分と長くお風呂に入っていたみたい。お風呂の鏡に映った自分の顔は赤くなっていた。それを見て漸くカインを待たせていることを思い出して、急いでお風呂から出る準備をした。
きちんと髪の毛と身体を拭いて、シャツを着る。確かにぶかぶかだけれど着心地がとても良い。袖を折って丁度良い長さにした。
「カイン?」
声を掛けると、カインは直ぐに返事を返してくれる。
「もう、いい?」
「うん。ごめんなさい、随分待ったでしょう?」
「いや。楽しかったみたいで、良かった」
なんだかカイン、笑っているみたい。どうしてだろう、待たせちゃったのに。不思議に思って見ていると、カインは私を抱き上げて笑みを浮かべた。
「はしゃいでる声、外まで聞こえたよ?」
「えっ・・・!」
顔が一気に熱くなるのを感じた。
リビングにいくと、カインは私を椅子に座らせて水の入ったコップを持ってきてくれた。お礼を言ってそれを飲むと、全部飲み干してしまった。カインは直ぐに注ぎ足してくれ、二杯目を飲んでいるとカインは私に向って手を伸ばした。
「色、変わってきてる」
驚いたように髪を掬い上げ、まだ湿っている髪に指を滑らせていく。確かに、毛先の方は栗色になってきている。
「乾いてきたからだよ。私達人魚は身体が乾くと人間みたいな見た目になるの。だから足もほら、鱗が消えてきてる」
鰭を伸ばして指差すとカインは目を丸くした。
「触ってみても、いい?」
「うん、もちろん」
カインはそっと鱗と肌の境目をなぞる。何度も往復しているから、少しくすぐったい。カインは満足したのか椅子に座りなおすと徐に口を開いた。
「人魚ってみんな、最初から人間の姿になれるの?」
「うーん、ほとんどは。でも、魚の血が濃くて人間みたいになれない人や、反対に人間の血が濃くてそんなに変わらない人もいるの」
「へえ・・・。人魚姫の話だと魔女に薬を貰うのに、本当は最初からなれるんだ」
カインの呟いた言葉に、今度は私がビックリしてしまう。人魚姫?人間達の間ではそんなに有名な話なのかな。
「ロゼッタ、人魚達にも人魚姫の話ってあるの?人間の王子に恋をした人魚の姫の話」
私は少し俯いて、考える。カインはただ、興味があるだけなのかな。それとも真実を知りたいのかな。あの子は無邪気に聞いてきただけだった。あの時の私はそんなこと考えずに正直に答えて、あの子と喧嘩になっちゃったけれど。
「・・・ロゼッタ?」
「あっ、えっと、あるよ。私達の間では少し違う話だけれど」
誤魔化すように笑ってみせると、カインは訝しげに首を傾げた。
「もしかして、人間に伝わっている話とは全然違う?」
「ううん、全然ってことはないかな。大体の流れは合ってると思う」
「・・・人間のは人間にとって都合よく出来てる?」
どきりとして、思わず言葉に詰まってしまった。カインは結構、鋭いみたい。それとも私が分かり易いだけなのかな。
黙りこんでしまったから、カインは疑問を確信に変えてしまったみたいだった。
「聞かせて?人魚達の話。どんな話でも、俺は聞いてみたい」
少し身を乗り出して私が話しだすのを待っている。・・・どうしよう。髪飾りに触れてみるけれどどうするかなんて、決められない。この話は人間にとっては気持ちの良い話ではないし、私達は私達の話が真実なんだって、自信を持って言える。
「・・・俺は別に、俺が知っている話が真実だとは思ってないよ。あれはただの、御伽噺だ」
カインがそうやって言うのは、私が話しやすくなるように、なのかな。それとも、本当にただの御伽噺で、私達のように大切だとは考えられていない?
「あのね、人間に伝わっている〈人魚姫〉って話はね、私達の中では歴史の一部なの。〈皇帝記〉の〈三十六代皇帝ジェネ―リオ〉に出てくるお話。口伝だけれどかなり正確なもののはずだよ」
「人魚は全部、口伝なの?」
「うん、そう。昔の人間達みたいに石に彫ることもあるけれど、やっぱりそれは大変だから滅多にしないかな。元々形として残す必要もないし」
「へえ・・・。人間よりも記憶力が良いとか?」
突然饒舌になったようなカインに驚きつつも、私は首を捻った。
「ううん、どうなんだろう。記憶力って、比べたことなんてないから」
「あ、そうか。比べる対象がないと。個人差もあるし、短期間で計れるものではないか」
ブツブツと呟き、カインは目を瞑ってしまう。なんだか、一気に遠くなってしまったみたい。自分の世界に入ってしまったというか、なんというか。
考え込んでしまったカインを見ながらお水を飲む。やっぱり、おいしい。
「あっ、ごめん。話、してくれる?」
コップを置いた音で我に返ったのか、カインは顔を上げた。どうやら話しをすることは避けられないみたい。あんまり、得意ではないけれど。
「じゃあ、長くなっちゃうから姫様が出てくるところからね」
そう前置きして、目を瞑る。こうして人に聞かせるのなんて、随分と久しぶりだけれど・・・。
――それは、長雨の時期だった。ジェネーリオ皇帝の一人娘、ジュリネ姫は陸へ上がられた。海は長く闇に閉ざされていたので、退屈なさったのだろう。まだ十六になられたばかりだというのに姫は幾度も海面に顔を出しており、陸への恐怖というものは薄れていたのだろう。
姫が上がっていったとき、陸は大時化で荒れていた。城のある深海であっても分かりきったことではあったが、姫は荒れた海を陸から見てみたいとおっしゃたのだそうだ。しかし、姫の希望通りにはならなかった。荒れた海には陸の王が大きな船を浮かべており、それが風に煽られ、まるで怒ったウツボのように泳いでいたのだという。
空からは時折、あの光の銛が降っておりそれは船に当たると火を吐き出した。船からは人間達が飛び降り、小型の船に乗って陸まで避難した。しかし船から逃げ出したのは人間だけではなかった。人間達が犬と呼ぶあの生き物もいたらしい。
あれは泳ぎは出来る生き物だが、人間の一人が心配して戻ってきたのだとか。姫は丁度泳ぎの遅いその生き物を船から離そうと引っ張ってやっていたが、人間が向って来るのを見て浅く潜った。
人間は犬と陸へ泳ぎ着き、一命を取り留めたが酷く疲労して意識を失った。姫は辺りに他の人間がいないことを確認し、その人間の様子を見にいった。息をしているのを確認し、日陰に移したり大きな貝殻に真水を汲んで水を飲ませたりと介抱をした。その甲斐あってか人間は直ぐに目を覚まし、姫は姿を見られないうちにと隠れようとした。しかしその人間は目覚める前から姫の存在を認識していたのか、姫の腕を取って逃げられないように捕まえてしまった。
姫が身体を乾かしきる前に人間は目を覚まし、姫の姿を見てしまった。人間はあろうことに他の人間を呼び、姫を連れて行ってしまった。
その人間は王子だったようで、姫が連れて行かれたのは人間の城だった。そして水槽という大きなガラスに入れられ、見世物のようにされたという。しかしそれはごく僅かな時間だった。
その日の夜には姫は助けた王子により水槽から出され、人間のドレスを着て人間のように振舞うように指示された。姫は幾度も王子に海へ返すよう頼んだが王子は頑として聞き入れなかった。
深海で生まれ育った姫にとって、人間のように長い間歩くというのは正に拷問だっただろう。二日も経つと姫の足は赤く腫れ上がり立つこともままならない。慣れない空気を長時間吸っていることで肺も痛む。しかし姫のそのような状態を見ても王子は姫を海へは返さなかった。
人間の王子にはそのとき、他国の姫から求婚がされていた。美しい我らの姫はその人間の姫を退けるのに丁度良かったのだ。
あまりにも長く人間の姿でいたため、姫の顔は段々と膨れてしまった。恐らく人間達はそれを見苦しく思ったのだろう。漸く姫は海水に浸かることができた。しかしそれは海ではなく、またもやあの水槽の中だった。
それでも姫の顔の膨らみはおさまり、足の腫れも幾らかは引いた。人間達はそれを知ると更に姫を手放そうとはしなくなった。
その頃、我らは人間の国に幾度か丁重に姫を返すように願い出ている。しかしそれに対する人間の答えは散々なものだった。大抵のものは甚振られたり殺されたり、あるいは見世物にするために捕まえられたりと。我らの怒りは頂点に達するところではあったが姫が城に捕まっている状態では下手な手も打てない。
それだけではない。皇帝は人間と殺し合いをするなど、言語道断だとおっしゃった。人間とは可能な限り良好な関係を保ちたいのだと。
打つ術のない我らは、浅い海に住む賢者の下へ助言を求めた。賢者はただ首を振り人間から穏便に姫を連れ戻すことは出来ないことを示した。しかし、手段を選ばないのであれば双方最小限の被害で事を収めることが出来るといった。
その手段とは人間の王子の暗殺だった。皇帝は渋ったものの、確かに他に方法はないと納得なさった。そこで我らは夜中に姫と接触した。そしてナイフを渡し、人間の王子を刺すようにと言った。姫にそんな事をやらせるなど心苦しくはあったが、他に適任がいない。被害を抑えるには城の内部を知っており、王子の部屋に入ることの出来る姫にしか出来ないことだったのだ。
しかし結局、王子が暗殺されることはなかった。姫は人間との対立を望まなかったのだ。姫は逃げ出すことが叶わないのであればいっそのこと、と自らの胸を刺された。
陸で命を失うと泡となり消えてしまう。その言い伝え通り、姫は血に濡れたナイフだけを残し泡となって消えてしまった。二度と海と交わることは出来ず、ご家族と会うことも出来ないというのに。
その後、娘を失った悲しみの為に皇帝妃は衰弱し、一年と経たぬ間に亡くなられた。人間の王子はといえば、姫の捜索こそしたものの他国の姫の求婚を受け入れ、王となり寿命の許すままに生きたのだ。数年もすると人間達の中で我らの姫の話が美しい悲劇物語となり語られ始めた。我らの存在は相も変わらず伝説上のものとなってはいるがあまりにも人間に都合よく出来た話だといわざるを得ない。姫は無念のままに泡沫となってしまったが姫の真実の話は泡沫となることはなく長く語られ続けるだろう。
語り終え、私は大きく息を吐いた。目を開くとカインは怒るでもなくただただ私の目を見つめていた。
「これが、姫様の真実。美しい童話でもないし、人間のことを悪く言ってしまっているけれど、当時の人たちの偽りのない心なの」
弁明のようだけれど、当時の人たちを悪くは思わないで欲しい。彼らは姫様を失って悲しんでいたのだから。
「ありがとうロゼッタ。確かにこの話の方が信憑性があると俺は思う。・・・そういえば、ロゼッタは人間に伝わっている人魚姫の話を知っているの?」
「うん、聞いたことある。綺麗な話だよね」
そう言って笑うと、やっとカインも笑ってくれた。ずっと難しい顔をしていたから。良かった。
「そういえば、人間の人魚姫って声がでなくなっちゃうよね。それって、どうしてだろう」
ふと疑問を覚えて首を傾げると、カインは私に新しい水を入れたコップを渡してくれた。それを飲みながら、少し考えてみる。姫様は人間の王様にも王子様にも訴えているから話さなかったってことはないはずだけれど。
「口を開けば海へ返して欲しい、とばかり言っていたから聞かなかったことにしたんだろう。いかにも人間らしい話だ」
履き捨てるような言い方に、少しビックリしてしまう。同族のことなのに、どうしてそんな言い方をするのだろう。
そのとき、私のお腹が情けない音をたてた。驚いて私のお腹を見つめるカインに思わず赤面してしまう。
「昼にしようか。ロゼッタは普段、何を食べてる?人間の食事でも平気?」
「だ、大丈夫・・・」
苦笑しているカインから隠れるように俯くけれど、耳が熱い。まさかお腹が鳴っちゃうなんて。それも、カインの目の前で。
「普段は海草とかお魚とか、人間も食べるようなものを食べるの。あとは流れてきた果物とか、野菜も」
「じゃあ、なんでも食べれるかな。今日の昼はパスタにしよう。待ってて」
すっかり乾いた髪を軽く撫で、カインは隣の扉がついていない部屋へ入っていく。人間の食べ物なんて、想像がつかない。私達は調理なんてしないでそのまま食べてしまうけれど、人間は火を使ったり、塩や植物から採れるもので味をつけたりするんだって聞いたことがある。
少しすると、トントンとリズミカルな音が聞こえてきた。それからグツグツという音も。一体、何の音だろう。耳を澄ませると、時間が経つにつれて色んな音が聞こえてくる。何だか、楽しそう。
「お待たせ、ロゼッタ」
カインは両手にお皿を乗せて戻ってきた。そこからは良い匂いがしている。海の中では嗅いだことのない、不思議な匂い。
お皿にはイソギンチャクの触手のような、でもそれよりももっと長いものが置かれていてその上に赤いものが沢山ついた茄子が乗せられている。
「この赤いのはトマトソースだよ」
私がじっと見つめていることに気がついたのか、カインは教えてくれた。それからフォークを差し出してくれる。
「使い方、わかる?」
「うん、大丈夫。人間の使う道具って、結構海に流れてくるの。本とかも流れてくるから、使い方だって分かるものも多いよ」
初めて食べた人間の食べ物は、とっても美味しかった。カインはずっと口に合うか気にしてくれていたみたいだけれど、そんな心配いらないくらい。
「ごちそう様でした。美味しかったよ、ありがとう!」
「うん、お粗末様。片付けるから、皿貸して」
カインに渡して、私も立ち上がる。
「お手伝いすることって、ある?私、色々手伝ってみたい!」
快く了承してくれたカインについて隣の部屋に行く。ここはキッチンなんだって、カインが教えてくれる。他にそこにある色んなものの説明も。人間の考えるものって、本当に面白い。