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第一話 薔薇と髪飾り

 ゆっくりと目を開くと、目に入ってきたのは何もかも見慣れないものばかりだった。真っ白な天井や壁、黒い枠の真っ白なベッド。私は乱れた髪を左手で撫で付けながらゆっくりと起き上がり、部屋を見渡す。

 壁際には真っ黒な本棚がいくつか並んでおり、そこには様々な種類の本が並んでいた。ベッドサイドには小さな黒いテーブル。白と黒で統一されたこの部屋には、あまり細々したものは置かれていない。

 ベッドサイドのテーブルの上には水の入ったコップが置かれていた。途端に激しい喉の渇きに襲われ、思わず手を伸ばす。急いで飲み干すとその水は身体の隅々にまで染み渡るように、私の渇きを癒していった。

 渇きが落ち着いて何とはなしに振り向くと、広いテラスがあった。そこからは強い陽の光が差し込んでいて、私は吸い寄せられるようにテラスへ向かう。テラスへと続く窓を開けると、微風と共にはっきりと潮の香りがした。

 目の前に広がるのは、どこまでも続く青い青い海。太陽に照らされ、キラキラとまるでガラス玉のように輝いている。

 砂浜は真っ白で、近くの海はアクアブルー、遠くはエメラルドグリーンという具合に、遠くになるにつれて深みを帯びた青になっていく。

「・・・よかった。目、覚めたんだ」

 いきなり背後から声がし、ビクリと肩を揺らす。振り返った先にいたのは、背の高い青年。二十代に差し掛かったばかりなのだろうか、まだどこか幼さを感じさせる顔立ち。だけど美しく整っているように思う。無造作に跳ねた黒い髪に、キリッとつり上がった眉。瞳は夜の海のように吸い込まれそうなほどの黒で、それとは対照的に、真っ白な肌をしている。

 そして着ている服は真っ白なシャツに真っ黒なズボンと二色で統一されたその様子は、先程の部屋を連想させられる。

「・・・ごめん、驚いた?」

 青年は無表情のまま少しだけ首を傾けた。私は一歩後ずさり、背後に立っていた白い柵を強く握り締めた。彼はそんな私を見ると更に首を傾げ、不意に納得したように一度頷いた。

「俺はカイン・ベイカー。・・・君は?」

「え・・・?私、は・・・名前なんてありません」

「ない・・・?」

 ベイカーさんは不思議そうに首を傾げて私をじっと見つめる。私はその視線に耐え切れず俯いて、いつもの癖で耳の辺りに手を伸ばした。しかし、その手には髪以外何も触れない。

 耳元で血の気の引く音がするような気さえする。もしかしたら別の所についているのかも、とそのまま指を滑らせるけれど見つからない。

「無い・・・。うそ、無い・・・!ベイカーさん、あのっ、私の髪飾り、知りませんか?赤い、薔薇の形の・・・」

 慌ててベイカーさんに聞いてみると彼はしばらく呆気にとられたようだったけれど、やがて「ああ、それなら・・・」と呟いて部屋に向き直り、私に手招きをした。

「髪につけたままだと、寝返りをうった時に壊れるかもしれないと思って、外しておいたんだ」

 そう言って、ベイカーさんは私に薔薇の形の髪飾りを渡してくれた。握り拳よりも一回り程小さな、真っ赤な薔薇の髪飾り。受け取って確認してみると傷一つなく、綺麗なままだ。

「良かった・・・!ありがとうございます、ベイカーさん!」

 ぎゅっと髪飾りを握りしめてお礼を言い、早速髪に付け直す。ベイカーさんはそれを見てポツリと呟いた。

「ロゼッタ・・・」

 顔を上げると、ベイカーさんはほんの少し微笑んで、私の髪飾りにそっと手を触れた。

「名前・・・ロゼッタ、が良い。似合う」

「ロゼッタ・・・?」

「そう。名前がないと、不便。それでいい?」

 俯いて何度か瞬きをし、その名前を噛み締めるように何度か口に出した。・・・うん、確かに可愛い名前だし、なんだか口に馴染むような気がする。

 私は顔を上げるとベイカーさんに向かって笑顔で頷いた。


 「それで、ロゼッタはどうしてあんな所に倒れていたの?」

 名前を付けてもらった私は、ベッドに座ってベイカーさんと向かい合っていた。ベイカーさんによると、私は昨夜にすぐ近くの砂浜で倒れていたらしい。そこで、なぜ街から遠く離れた誰も近寄らないはずのこの海に、荷物も持たずに裸足で砂浜を歩いていたのか、何をしに来たのか、どこから来たのかを聞かれているのだ。こういう場合、なんて答えればいいのだろう。

「ええと、どうしてでしょう・・・?砂浜を歩いてたのは覚えているのですが・・・」

 私にも、倒れていた理由はよくわからない。正直に答えると、なぜか少し眉をひそめたように見えた。

「あの、ベイカーさん?」

「ベイカーさん、じゃなくてカイン。敬語も、なし」

「えっ?えと・・・」

「呼んでみて」

 呼んでみて・・・って言われても、まだ会ったばかりなのに、いいのかな・・・。

 けれどベイカーさんは、あの少し微笑んでいるような表情で私が呼ぶのを待っている。

「ええと・・・。カ、カインッ!」

「うん」

 ベイカーさん・・・ううん、カインは満足そうに頷いて、私の頭を優しく撫でた。頭を撫でられるのなんて、何年ぶりだろうか。心地よくて思わず目を閉じると、上からクスクスと笑い声が聞こえた。不思議に思って見上げてみると、片手で口元を抑えながら上品にカインが笑っていた。

「ロゼッタ、気持ちよさそう」

 そう言って、私の頬を指先でなぞった。その表情が、とても綺麗だった。先程までのような微かな微笑みではなく、心から楽しんでいるような・・・。

「あ・・・」

 そのとき、なぜか急に顔が熱くなり、私は咄嗟に俯いた。なぜだろう、緊張しているのかな。心臓がうるさい。

「ロゼッタ・・・?」

「えっ、あ、はい」

 カインは一度首を傾げる。

「・・・?・・・ロゼッタは、どこから来たの?」

 先程とは別の理由で心臓が高鳴り、首を傾げる。

「ひ、秘密・・・?」

「秘密?じゃあ、どうしてこの海岸に来たの?」

「それも、秘密・・・?」

 カインから目を逸らしながら、必死で言い訳を考える。でも、私は小さい頃から嘘が苦手だ。咄嗟に上手い言い訳なんて考えつく訳も無い。

「俺には、話せないこと?」

カインは首を傾げて私の目を覗き込んでくる。

 どうしよう。正直に理由なんて言えるはずもないし、だからといってカインを不愉快にするような真似なんて、したくない。

 私が迷っているのを見かねたのか、カインはまた少し微笑んだ。

「言いたくないなら、無理に聞き出したりしないよ」

 そう言いながら、そっと頭を撫でて立ち上がる。

「俺は今から薔薇に水をあげに行くけど、ロゼッタも来る?」

「薔薇・・・?」

 そっと髪飾りに触れてから大きく頷く。

 本物の薔薇って、どんな香りがするんだろう。話に聞いたことはあるけれど、実際に見るのは初めてだ。

 薔薇が植えてあったのは、カインの家の裏にある広い庭だった。庭中に真っ赤な薔薇が植えてあり、辺りには嗅いだことのない香りが広がっている。

 まるで、赤い珊瑚の群れの中にいるみたい。全てが青みがかっている海の中とは違って、薔薇の赤はもっとはっきりとしているけれど。

「わあ、すごいすごい!・・・いい香り!」

 はしゃぐ私に目を細め、カインは庭の奥へ歩いていく。

「ロゼッタ、薔薇を見るのは初めて?」

「うん、そう。とっても、とっても綺麗!」

「そっか、良かった」

 嬉しそうに微笑んで薔薇を見つめる目付きは、とても優し気。カインも薔薇が好きなのかな。

「もしかして、この薔薇はカインが育ててるの?」

「そう。・・・向こうには、白い薔薇も咲いてるよ」

「白い薔薇・・・」

 指し示された方に視線を向けると、確かに赤い薔薇の奥から白い色が覗いている。ゆっくりと足を踏み出しながら、私は髪飾りを撫ぜた。とても優しい微笑みが、目の前に見えるみたい。あの子が大好きだった、真っ白な薔薇。

「ロゼッタ、俺は水を撒いてくるけど一緒に来る?」

 カインは背の高い生垣の向こうを指差し、左手を左右に動かした。どうやら水を撒く仕草を模しているようだ。私は驚いて目を見開き、激しく首を振った。

「い、いいっ!私、白い薔薇を見てくるね」

 急いで笑顔を浮かべ、小走りに白い薔薇の方へ向った。それでもカインが気になり、生垣に凭れてそっと顔だけ覗かせてみた。丁度真っ白なシャツが奥に消えるところを見とどけ、私は小さく息を吐いた。

 少し、不自然に思われたかもしれない。俯いてスカートを握り締め、口の中で大丈夫、と呟いた。大丈夫、きっと上手くやれる。


 カインはホースを手に取り、その側に置いていたノズルを取り付けた。反対側の端を蛇口に繋げ、コックを捻って水を出す。薔薇の近くまで行って水が出るのを待つが、暫く待っても水は出てこない。不思議に思って振り返ると、伸びたホースの真ん中辺りで剪定道具が上に乗り、流れを塞き止めてしまっていた。

 カインはその場にホースを置くと剪定道具を退かす。すると、塞き止められていた水が予想外の勢いで流れ出した。

「あ」

 彼は思わず声を上げたものの、無論それでは水を止めることなど出来ない。ホースは多量の水を吐き出しながらうねり、立ち上がった。飛び出した水は高く放物線を描き、陽の光を受けて輝きながら生垣の向こうへと超えていった。


 腰を屈めて薔薇を見ていると、少し離れた生垣の向こうから、あ、と小さな声が聞こえた。反射的に顔を上げるとその先にはキラリと輝く何かが浮いていた。それを認めたときには既に避けられない程近くにあって、そこに映りこんだ私の顔を徒に歪めた。

 驚いて目を見開いた途端、それは頭にバシャリとかかり、髪や服が突然重みを増した。それと同時に抜ける足の力。そのことに驚き、思わず小さな悲鳴が漏れた。

「きゃっ・・・!」

 支えを無くした身体は水を跳ね上げて地面に落ちる。ぶつけたところが痛いけれどそれ以上に呆然とし、俯く。地面についた手の上に髪から滴り落ちる水が、異様なほど冷たく感じる。

「ロゼッタ?ごめん、濡れた?」

 静かな足音と共に響く、カインの声。どうやらカインはこちらへ近づいて来ているようだった。息を飲み、必死で辺りを見回すが隠れられそうな場所は近くにはない。せめてもの抵抗にとスカートの裾を引っ張りながら私は必死に声を上げた。

「だっ、大丈夫だよ、濡れてない!カイン、お水、あげおわったの?」

 近づいてくる足音に、どうしても声が裏返ってしまう。カインはそのことを不審に思ったのだろう、足を止めた。

「ロゼッタ、俺、そっちに行くよ」

「駄目!来ないで・・・」

 直ぐに拒絶の言葉を返したけれど、そこに含まれていたのは拒絶ではなく恐怖だった。尻すぼみな言葉はどうしようもなく震え、私の心情をはっきりと写しだしていた。

 更に言い募ることもなく、カインは静かに足を踏み出した。私が弱々しく拒絶の言葉を繰り返しても、カインはもう足を止めてはくれなかった。

 ・・・どうして?怖い。こんな姿をカインには見られたくない。どうなるかなんて、考えたくもない。けれど、カインは私のことを見てしまった。

 始めに瞳に浮かんだのは、驚愕。けれど、次に浮かんだのは?恐怖でも、嫌悪でも、好奇でもない。でも理解するよりも先に、カインは口を開いた。

「ロゼッタ・・・は、人魚、だったの?」

 私の柔らかな栗色だった髪は根元はまるで白波のように青みがかった白銀で、毛先にいくにつれてその青みが増し、遠い海のような澄んだ青に変わっている。瞳は深海のような深い、深い青緑色。長いスカートの裾からは瞳よりも濃い色の鱗でびっしりと覆われた鰭が覗いていた。水に濡れたせいで太陽の光に反射して眩しい。二股に分かれているその先は、浅瀬のような薄い青だ。

 人間から見たらこんな姿、きっと気持ち悪い。今は驚きが強いようだけれど、驚きさえ引いたら一体どう思うのだろう。

 それが恐ろしくて、私は深く俯いて唇を噛んだ。人間の話なら、幾らでも聞いてきた。少しでも自分達とは違う姿の者がいれば例え同属でも嗤うのだとか、見世物にするのだとか。それから、人間に捕まった人魚の話だって、沢山。どれもこれも思わず耳を塞ぎたくなるような、酷い話ばかり。

 カインは私の横にそっと膝をついた。どうしても、怖くて肩が跳ねてしまう。でもカインは、そんなことは気にも留めずに私の頬に指を伸ばした。そのまま、そっと撫でる。

「綺麗だ。その髪も、瞳も、鰭も。大丈夫、怖がらないで。俺は、何もしないよ」

 優しく髪を梳き、私に言い聞かせるように囁く。それに少し安心し、私はそろそろと顔を上げた。目が合うと、カインは小さく微笑む。

「ロゼッタ、一度家に戻ろう。濡れてしまったし、服にも髪にも泥が跳ねてしまったから風呂に入った方がいい。そのままでは風邪を引いてしまう」

「ふろ・・・?」

 首を傾げてカインを見上げると、カインは頷いて私の身体を抱き上げた。

 風呂って、聞いたことがある。でも、それが何かまでは知らない。人間のことを知るのは、なんだかドキドキする。正体がバレてしまったというのに、どうしても口角が上がってしまう。

 左手を持ち上げ、そっと髪飾りに触れた。私は悪い人間ばかりではないことを、他の誰よりも知っている。それなのに、ここまで怯えてしまうだなんて。

 たった一人の親友の笑顔を思い起こすと、恐怖が嘘のように引いていくのを感じた。

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