第十五話 人間
薄暗い廊下に、長い階段。窓がないからか篭った空気は黴臭い。階段を上がっていくと少し明るくなった。身体はまだ完全には乾いていないから中途半端に分かれた足ではすごく歩きにくいし、裸足だから時々小石か何かを踏んで足が痛い。でもカイルさんはスタスタ先に歩いて行っちゃうから遅れないように急がないといけない。
少し進むと、ざわざわと音が聞こえてきた。なんだろう・・・声?
わあっと一際大きく声がすると、しんと静まり返った。少し不安になる。思ったよりもたくさんの人がいるみたい。もしかしたら、町に行ったときよりもいっぱい。
カイルさんは突き当たりにあった部屋に入るとさっと辺りを見回した。そして、私の腕を掴んで歩き出す。
狭いその部屋には、何人かしかいない。でも、普通の部屋じゃないみたい。普通なら壁があるところは壁じゃなくて真っ赤な幕になっている。そのまま隣の部屋と繋がっているみたいで、たくさんの人がいるのはきっとその幕の向こう側。すごく広い部屋になっているみたい。
「よお、今日は随分客が多いみてぇだな」
カイルさんが話しかけたのは、昨日倉庫で会った男の人だ。相変わらず無表情でこちらを見ている。
「ええ、遠方の客にも声を掛けましたから。それで?」
片眉を上げた彼に、カイルさんは私を前に引っ張る。男の人は私を一瞥すると不満げにため息を吐いた。
「ベイカー、濡れているようですが」
来なさい、と男の人は歩き出した。カイルさんは慌てて続く。もちろん、私の腕を引きながらだ。向かった先はロッカーが幾つか並んでいたり、長机があったり、壁のほうには鏡台もある。男の人は私を鏡台の前に座らせると引き出しからドライヤーを取り出した。
「出番までに身体中乾かしてください」
言われるままに、スイッチを入れて乾かし始める。男の人はしばらくそれを見ていたけれど、不意にカイルさんを振り返って話し始めた。少し離れているし、耳元でドライヤーの音がしているから何を話しているのかは、分からない。でもなんだか、カイルさんはずっと顔を顰めている。
髪がしっかり乾いたのを確認して、ストールの上から鰭にも温風を当てる。鰭はすぐに乾きそう。もうほとんど、膝まで人間の足になっているし。プラプラと交互に足を揺らしながら、そっと顔を上げる。髪の色も瞳の色も、すっかり人間のときの色に変わっている。・・・ううん、目はまだ緑がかってるかな?
スイッチを切って、こっそりと足にかかったストールを捲って見ると、ちゃんと鱗は消えていた。うん、もう大丈夫かな。
「あの、終わりました」
立ち上がって、こちらを向いた男の人にお礼を言いながらドライヤーを返す。
「では先ほどの部屋へ戻ってください。そろそろ――」
ちらり、と腕時計に目を落とす。
「あなたの番ですから。ではベイカー、頼みましたよ?くれぐれも冷静に」
それだけ言って、彼は足早に部屋を出て行った。すぐにカイルさんも不機嫌そうにこちらを向く。けれど決して、目を合わせないようにしているようだった。
「行くぞ」
歩き出したカイルさんに従って、さっきの部屋に戻る。あれ、誰もいない。他の人たちはどこに行ったんだろう。
時折わあっと上がる声に、ぎゅっと心臓が握られたように痛む。熱狂的な声の合間に微かに、泣き叫ぶような声が混じっているから。きっと、売り物になった子達だ。吼え声は動物の。怯えていたアニーちゃんを思い出す。アニーちゃんは売られて、買われて、棄てられて、それでまたここに来たって言ってた。諦めきった顔をしていた、テッドくん。こういうところに来たのは二回目だって、言ってた。一回目に買われたときは殺されそうになって、命からがら逃げてきたけどまたすぐに捕まっちゃったんだって。二人ともすごく怖い思いをしたみたいだった。
カイルさんは赤い幕は潜らず、後ろを通っていく。もうすぐ出番だって言ってたから、そのまま幕の向こうへ出て行くのかと思っていたけれど。
しばらく進むと、カイルさんは幕からひょいっと顔を出した。しばらくそうしていたかと思うと、顔を戻して私を振り返った。その表情は、暗くてここからじゃ良く見えない。カイルさんは私を引き寄せると幕の方を向かせた。
幕の向こう側では、くぐもった男の人の声がしている。あまり大きな声でもないし、何を話しているのかは、分からない。けれど突然、その声量は上がった。
「さあ、それではお目に掛けましょう、今世紀最大の大目玉!世にも美しい、人魚の姿を!!」
勢い良く幕が引かれ、突然の強い光に目が眩む。もしかしてここは、外?
なんて、閉じた目を開けようとする前に強く背を押され、つんのめるように二、三歩前に出る。衝撃に息を詰まらせ、反射的に目を見開く。前かがみになって俯いている目に映ったのは板張りの床。さっきまでの場所とは違って綺麗に掃除されている。
ゆっくりと顔を上げると、正面に見えたのは顔、顔、顔。数えられないほどたくさんの人間の顔。みんなみんな、値定めするように、興味なさそうに、疑い混じりに私を見上げていた。痛いほどの沈黙に、うわんうわん、と耳鳴りがし始めた。
動くことも出来ずにただ立っていると、後ろから誰かが歩いてきた。きっと、カイルさんだ。背中を押され、動かない足を無理やり動かす。もう何歩か先には、床がない。もっと先には、こちらを見ている人達。・・・違う、途切れた床の先には大きな水槽の縁が見える。私のために用意されたものだ。
水槽の手前で立ち止まると、突然ストールを取り上げられた。だめ、それは何も穿いていない下半身を隠すためのものなのに!
「あっ・・・!」
思わず声を上げて、取り返そうと振り返りかけたときに強く押された。バランスを崩して水槽のほうに、倒れこむ。大きく舞い上がった髪の隙間に、複雑な顔をしたカイルさんが見えた。
背中から水の中に落ちて、白い泡が立つ。ぎゅっと縮こまって、泡が収まるまで目を閉じていた。身体を包み込む水に、まるで歓迎されているかのような温かさを感じる。ゆっくりと目を開け、振り返る。途端に目に映る視線。それは好奇であったり歓喜であったり、驚愕、興奮、畏怖・・・。表れているものはそれぞれだけれど、とにかく鋭く突き刺さる。
ぎりぎりまで後ろに下がるけれど、その動きすらも決して見逃さないとでも言うように、食い入るように見られていて。恐怖に、心臓が激しく打つのをただただ感じていた。
「いかがですか?正真正銘本物だと、保障致します。他の商品に比べ多少値は張りますが・・・またとない機会だと申し上げておきましょう」
こつり、と水槽を叩いたのはあの男の人。正面にいる人達に向かって喋っている。うっすらと浮かべている笑みは感情がこもっていなくて、見ていてぞっとする。
すると正面の人達はざわざわと隣同士で話し始め、ささやき声が重なり合って大きくなっていく。すっと男の人が手を上げてどこかを示すと、一瞬静かになったあと、ほとんどの人が手に持った札を掲げて怒鳴り始めた。あんまり大勢で怒鳴り始めるから、誰がなんと言っているのか、ほとんど聞き取れない。それでも何となく、数字を叫んでいるのだと気付いた。
段々、叫ぶ人数が減っていって競うように声を張り上げるようになった。水中でもはっきりと声が聞き取れて、数は段々大きくなっているのが分かる。
ひとり、またひとりと声をあげる人が減っていく。ふと、気が付いた。この人達は私を買おうとしている人達なんだ。今決めているのはきっと、誰が買うか。それを決めるために数字を、私の“値段”を決めているんだ。
歯を食いしばって顔を逸らすと、せっかくマギーさんが結ってくれた髪が解けた。元々解けやすかったのに、今ので髪が壁に擦れて取れちゃったんだ。ゆっくりと沈みだす髪留めを受け止めて、床に座り込む。
可愛いリボンだ。あわいピンクで、まるで珊瑚みたい。結ばれた状態で留めてあって、リボンの結び目のところから真珠のような白い石が輪を作るように幾つか連なっている。失くしたら大変。でもきっと結いなおしてもまた解けるだろうし・・・。
結うのは諦めて、アシュリーちゃんからもらった髪飾りと一緒に留めておく。これならきっと、一緒に付けていても可愛いと思うから。ああ、なんだか私、もらってばっかりだ。
一人の女性が呟いた数字に、とうとう辺りが静まり返った。女性は大きな声で数字を繰り返す。それを上回る声がないことを確認し、女性は水槽の隣に立っている男の人を見やる。彼は頷いて、女性を手のひらで指し示した。
「83番の方。こちらは83番の方が競り落とされました」
ぱらぱらとまだらな拍手が響いた。ほとんどの人が、とても不満そうだ。
「ではどうぞ、こちらへ」
促されて女性はにんまりと笑みを浮かべて席を立った。ゆっくりと階段を降りて、ステージに上って、私たちのそばまで来る。とても大柄な女性だ。紫色のドレスを着ていて、指や首、耳に宝石をたくさん着けている。短い髪が首筋で跳ねていて、その毛先の幾つかがたるんだ顎の下に隠れている。顔は、大きな帽子が濃い影を作ってしまっているからはっきり見えないけれど、濃いお化粧をしているみたい。
「まずは商品のご確認を」
切り出した男の人に、女性は分かっている、と言うように手を振った。そして屈みこんで私をじっくりと見る。
「ほんと、綺麗ねえ。アタシねえ、昔は人魚になりたかったのよ。それが無理でもせめて、一度でいいから人魚に会えたらって・・・」
独り言のように呟いて、女性は膝を伸ばした。
「ちょっと、こっちに来て水から顔をだしてくれるかしら?」
私に向かって、首を傾げる。近づくのは怖いけれど、聞かなかったらどうなるか分からない。それに、この人が悪い人間かどうかもまだ分からないのに、確かめないわけにはいかない。
私は女性の目の前で、水面から顔を出す。こちらを見つめる女性と目を合わせ、しっかりと顔を上げる。聞きたいことはたくさんあるけれど、きっと私からはまだ何も言わないほうがいい。
「ねえ、あなた歌は得意かしら。是非人魚の歌を聴いてみたいのだけれど・・・水棲の魔物だとか妖怪だとかって、歌に不思議な力が込められるっていうわよね。あなたの歌にはそういった力があったりするのかしら?」
ゆっくりと首をかしげながら、女性が私を見定めるように視線を移す。・・・歌に、力?それはどんなことを言っているんだろう。私たちと人間とでは何か違いがあるのかな。でも私が歌を歌ったとき、カインは何も言っていなかったし、おかしなことも何もなかった。人間がそんな言い伝えを作ったってことなのかな。
「いいえ・・・そんなことはないと思います。歌は、別に得意と言うほどでもありません、歌自体は好きですけど」
「そうなの。じゃあ、あなたの歌是非聞かせて頂戴?それでもしもアタシに何かあったら・・・」
女性は最後まで言わないで男性の方を振り向いた。男の人が無言で頭を下げると、満足したように頷いてもう一度私に目を向ける。
「決まりね」
・・・これで。これで私は、この人のモノになった。せめて、せめてマギーさんが祈ってくれたように、大切に扱ってくれたら・・・そうして、仲良くなれたら海に帰してもらえるかもしれない。そのためにも、私はこの人に好かれるように振舞わないといけない。
ぎゅっと手を握って、女性を観察する。どうしたら好かれるかだなんて、分からない。この人がどんな人か知らないし、人間がどんな人を好きなのかも知らない。何より私は誰かに好かれようだなんて、そんな風に考えて振舞ったことはないから。だけど、上手くやらなくちゃ。そうじゃないと、急がないと姫様のようになってしまう。まずは、まずはこの震えを、どうにかしないと・・・。
とぷん、と音を立てて水槽の水が揺れた。水槽が動いたから、水が揺れたんだ。突然のことに驚いて縁から手を離してしまって、身体がまた水に沈む。視線を移すと、水槽が乗っている取っ手がついた大きな板を二人の男性が動かしている。
ゆらゆらと水に揺らされながら、向かっているのはさっき出てきた幕の方。後ろを振り向くと女性は水槽の後ろについて歩いている。他の人間たちは、ステージの真ん中で帰りを促す男の人に従って席を立ったり、ステージの方へ向かったりしている。
きっと私で今日の商品は全部なんだ。こっちに向かっているのは私たちを買った人。私たちは商品としてこれから連れて行かれる。
何も聞こえなくなるほどに耳元で鳴っている鼓動を、無理やり抑えようと手のひらで心臓の辺りを強く抑えた。そうしたところで、この恐怖が薄れることはまったくなかったけれど。
「そうねえ、乾けば人間の足になるのでしょう?ああ、本当に物語から抜け出してきたみたい・・・。この子はアタシの車で連れてくわ。手続きをしている間に乾かしておいてちょうだい。ああ、時間がかかってもいいわよ。シートは濡らされたくないの、少しぐらい待つわ」
「かしこまりました。ではこちらでお手続きをさせていただきます」
男の人に連れられて、女性は部屋から出て行った。私は水槽を運んできた人達に水槽から出されて椅子の上に座っている。一人が部屋から出て行き、もう一人は私から少し離れたところでこちらを見つめている。その人とは目を合わせないようにじっと俯いて、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。あの女性が戻ってきたときには笑顔を浮かべられるようにしておきたいから。
少しすると、さっき出て行った人が女の人を連れて戻ってきた。見たこともない人だ。その人はタオルや着替えを腕にかけている。
「乾かせばいいだけ?」
「ああ、そう聞いてる」
「そう」
女の人は一緒に来た人に確認すると持ってきた洋服を机の上に置いて私の頭にタオルを乗せた。そして別のタオルで鰭を拭き始める。
「頭は自分で拭いて」
声を掛けられて急いでタオルを手に取る。一体ここには何人の人間がいるんだろう・・・。
「これに着替えて。後はドライヤーで乾かすから」
タオルを取られて代わりに服を渡される。良かった、スカートもある。でも。
「あの、着替えって今ここでですか?」
尋ねると女の人は不機嫌そうに眉を吊り上げた。
「当たり前でしょ?さっさとして」
「え、でも・・・」
こっちを見たままの男の人達を振り返るけど、彼らは部屋を出て行くつもりはなさそう。男の人が見ている前で着替えるの?
女の人は私が見ているほうを振り返ってため息を吐いた。わざと聞こえるように、強く息を吐いたみたいだ。
「化け物の癖に・・・。あんた達、ちょっと後ろ向いててもらえない?じゃないと着替えなさそうだし」
化け物、と呟いた口調に思わず肩が跳ねる。嫌悪が混じっている、なんてものじゃない。私、この人とは初めて会ったのに、どうしてこんな風に言われるの?
いつだったか、母が言っていたことがある。人間は自分達の姿をとても大切にしているって。だから、人間と似た姿なのに違う種族の私や、同じ種族でも少し違いがあるテッドくんやアニーちゃんが捕まっちゃうのかな。
手早く着替え、髪もきちんと乾かし終えると、ちょうど私を買った女性が部屋に戻ってきた。私が人間の姿になっているのを見て、満足そうに頷く。
「さ、それじゃ行きましょうか?」
歩き出した女性の後をついて歩く。きっとお客さん向けなんだろう、女性が通るのは少し広い、綺麗な廊下だ。時々すれ違う人達はみんな似たような服を着ていて、女性を見かけると決まって頭を下げる。
建物を出ると、女性は真っ赤な車の後部座席に乗り込んだ。私には隣に座るように言う。座ってみると、シートはふかふかだ。足元にも毛足の長いマットが敷かれている。
「出して頂戴」
女性が運転席に座っている人に声を掛けると、車は小さく音を立てて震えた。こんなに静かな車もあるんだ・・・。走り出したのに、ほとんど揺れないから本当に動いているのか分からないくらい。
「あら?雨ね。最近は雨ばかりで嫌になるわ」
外を見ると、女性が言った通り雨が降っていた。降り始めたばかりなのに、もう窓全体に水滴がついている。外も暗くなっていて、窓にうっすらと私の顔が映っている。
突然、甲高い音を立てて車が大きく揺れた。急に車が止まったみたい。
「ちょっと、なんなの!!」
怒ったように女性が声をあげ、運転手さんは窓から顔を出した。
「おい、危ないだろう!轢かれたいのか?」
でも、声を掛けられた人は何も答えなかったみたい。不思議に思って私も前に目を凝らす。そのとき、私の真横のドアが開けられた。濡れた冷たい手が、私の腕を掴む。きゃああ、と女性が悲鳴を上げるのが聞こえた。そのまま腕を引かれて私は転げ落ちるように車から出た。
ざああ、と強い雨音が響き、身体が濡れていく。額に張り付く髪を、冷たい手が退けた。顔を上げると真っ先に見えたのは、優しい微笑み。
「カイン・・・」
信じられないような気持ちで呟くと同時に足が鰭に戻って体の力が抜けた。それを、地面に座り込む前にサッとカインが抱き上げてくれた。
「誰、貴方!その人魚はアタシの・・・」
後ろで叫び始めた女性にちらりと目を向けると、カインはいたずらっぽく私に微笑んだ。
「逃げるよ、ロゼッタ」
聞きたいことはたくさんあるけれど、言葉がなにも出てこない。どうしたらいいのか分からないけれど、でも、とにかく今は。
「うん、カイン!」
カインが私を助けに来てくれたことが、ただただ嬉しかった。