第十二話 希望を
「お姉ちゃんおきてー、朝ごはんだよ」
身体を揺さぶられて、ゆっくりと目を開く。嗅ぎなれない、全く潮の匂いのしない不自然さに小さく顔をしかめた。そして、真っ先に入ってくるのは見慣れない天井。暗くて重くて、なんだか今にも押し潰されそうな気分になる。
「・・・おはよう、アニーちゃん、テッドくん」
ごろり、と身体の向きだけを変えて挨拶するとテッドくんは露骨に顔を顰めた。
「起きたらどうなの?飯だってば」
その言葉に頷きつつ、上体を起こす。やけに身体が重いような気がする。前にもこんなことがあった気がする、と思うと同時に思い出した。昨日、昨日も同じように身体が重かった。そして海が恋しくなった。・・・ううん、その前も、海に入りたくなった。身体が重くなるほどではなかったけれど、あの時もきっと身体が海を欲していたんだと思う。
「お姉ちゃん、だいじょうぶ?」
「え・・?」
アニーちゃんが心配そうに顔を覗き込んでくる。いけない、こんな小さな子に心配させちゃった。
「大丈夫だよ、起きたばっかりでぼーっとしちゃっただけ。それより、ご飯はなあに?私お腹空いちゃったなあ」
「ほら」
ずい、と目の前に突き出されたのは湯気の立つお椀。受け取って中を覗き込むと、真っ白なものが入っていた。これは何だろう。お米を軟らかくしたものかな?
「ミルク粥。熱いから気をつけろよ」
最後に付け足された言葉はアニーちゃんへのもの。テッドくんって、まるでアニーちゃんのお兄ちゃんみたい。こんなこと言うときっと、照れて怒っちゃうんだろうけど。
テッドくんからお椀とスプーンを受け取って早速一口食べる。
「いただきます」
ほんのりと甘くて、おいしい。なんだか安心する味だな。
「んー、おいしい!」
「そうだな、今日の当番はマギーさんなんだな」
にこにこと機嫌が良さそうな二人に、少し首を傾げる。マギーさんって、誰だろう。きっとこのご飯を作ってくれた人だと思うけれど、食べただけで分かるのかな。
不思議に思っているのが分かったのか、アニーちゃんはうれしそうに説明してくれた。
「あのね、マギーさんはすっごくいい人なの!ここの動物たちにも私たちみたいな人にも、普通の人と同じようにしてくれるしいつも会いに来てくれるし!」
「もう少ししたら来るよ。あの人はあいつらとは違ってほんといい人だから、安心していい。性別も同じだし、まあ話合うんじゃない?」
二人とも、きっとそのマギーさんが大好きなんだなあ。会えるのが少し、楽しみ。
ご飯を食べ終えて少し話をしていると、扉が開く音がした。途端にアニーちゃんが笑顔でそちらに振り向く。マギーさんが来たのかな?私も一緒になって振り向くと、背の高い女の人が入ってきたのが見えた。恰幅がよくって、落ち着いた青色の服を着ているからかな、なんだか優しそう。でもここからだとちょっと遠くて、顔は見えない。
マギーさんは部屋に入るとすぐに一度振り返った。そして檻の中の様子を窺うようにしながら歩き出す。入り口の一番近くにある檻に入れられているのはきれいな鳥だ。暖かいところに棲むお魚たちのようなたくさんの色をした羽で覆われている。きっとここに来たときは必ず全部の檻を見て回っているんだと思う。でも、今日だけは違った。
マギーさんの後ろから、大柄な男の人が入ってきて、真っ直ぐにこちらへ向かってくる。そのやけに見覚えのある姿に高揚していた気分が一気に下がるのを感じた。
「ねえ、あの人って」
言いかけた言葉は突然途切れ、目の端に映った警戒に、他人事のように納得した。カイルさんを見たテッドくんが檻の隅にアニーちゃんを引っ張ったんだ。昨日私を連れてきたのはカイルさん。悪い人なのは一目瞭然だから。
マギーさんは慌ててカイルさんを追いかける。どうして、二人は一緒に来たんだろう?ううん、カイルさんはなぜここに?
「この女だ。大目玉だからよーく見ておけよ。後で見逃していたキズなんかがあってみろ、ただじゃすまねえぞ」
冷たく言いながらカイルさんは檻を開ける。ますます身を縮める二人に一瞥を投げ、カイルさんは私の腕を掴んで檻から出る。
「お姉ちゃん・・・!」
掠れた声に振り返るとアニーちゃんが泣き出しそうな顔をして私を見つめていた。
「大丈夫だよ」
小さく答えて笑ってみせる。テッドくんに目を向けると、テッドくんはカイルさんを睨み付けていた。でも、決して強い意志のものじゃない。どこか諦めて悟っている、そんな弱々しい目。ふと、彼はこんな場面に何度も居合わせたんだろうな、と感じた。もう慣れちゃったのかな。アニーちゃんも私も、いつか慣れたりするのかな。
顔を前に向けると、マギーさんと目が合った。静かな目。まるで、光の差さない深海を見ているみたい。でもきっと、怒っているんだ。だって引き結んだ唇を今にも噛み切ってしまいそうだもん。話を、たくさんの話をしてみたい。
乱暴に腕を引かれ、マギーさんから目を逸らしてカイルさんに従って歩く。後ろで、重々しく別れを告げる音がした。
部屋から出ると、すぐに別の部屋へ入った。昨日はこの扉には気が付かなかった。昨日立っていた人は、いないのかな?
その部屋はすごく狭くて小さなテーブルと椅子が一つずつあるだけだった。テーブルの上には何か飲み物と、食べ物が入っていたような紙袋があるだけ。入ってきた扉の向かいにも扉があって、そこを開けると両側に幾つか扉がある広い通路になっていた。カイルさんは手前から二番目の部屋を開ける。部屋に放るようにして私の手を離すと、すぐ後にマギーさんも中に入った。
「開演は2時間後だ。あんま飾りつけ過ぎんなよ。・・・いや、むしろ露出は多いほうがいいな。とにかく目を引くようにやれよ」
バタン、とカイルさんは音を立てて扉を閉めた。シン、と音が消える。
「さあて、と!」
突然の大きな声に大げさに肩が跳ねてしまった。ゆっくり振り返ると申し訳なさそうに眉を下げているマギーさんと目が合った。別に驚かせようとした訳じゃないとは思うけど、私がすごく驚いちゃったから。
「あら・・・ごめんなさいね、お嬢さん。別に怖がらせようと思ったわけじゃないのよ」
「あ、いえ。私も、変にびっくりしちゃって。えと、マギーさん、ですよね」
尋ねてみるとマギーさんは嬉しそうに笑みを浮かべた。
「ええ、そうよ。アニーから聞いたのかしら?あなたのお名前は?私まだ、聞いていないのよね」
「あ、えと、ロゼッタです。・・・それで、さっきカイルさんが言っていたのって・・・」
「そう、ロゼッタね。可愛い名前。・・・ベイカーさんが言っていたのはね、あなたの衣装のことなの。分かっていることでしょうからあえて隠しはしないけれど、あなたは大目玉として売られることになっているから・・・」
言いにくそうに顔を顰めて、マギーさんは言葉を切る。けれど私が動じずに続きを待っているのを見て、また口を開いてくれた。
「できるだけね、あなたの魅力を引き出して高値で売れるようにって魂胆なのよ。ここはオークション形式だものね」
ふうっと息を吐いて、マギーさんは部屋の壁一面にある大きな扉に向かった。扉は一つだけじゃなくていくつかに分かれている。そしてそのうちの一つをマギーさんは開けた。中にはたくさんのお洋服。色も形も様々で、見ているだけでも楽しそう。
「私の仕事はあなた達の面倒を見ることなの。食事や入浴、それからこうした飾り立てもね。本当はあなた達を救えたらいいんでしょうけれどごめんなさいね、私にはこれ以上手を出すことは出来ないわ。私が来るまではね、ここはもっと酷いところだったの。基本的な生活が何一つ満足に行えない。衛生環境が悪いから疫病も流行りやすい。それに比べたら随分とましになったとは思うけれど、やっぱり根本は何も変わらないのよね。ここは昔から生き物を〈商品〉として扱う場なのよ」
苦々しげに呟くマギーさんは、きっと本当にここのことを良く思っていないんだろうなって感じる。そして私たちのことを助けたいって思ってくれてる。だからアニーちゃんもテッドくんもマギーさんのことが好きなんだ。
マギーさんは顎に曲げた指先を当てて服を見比べている。その顔はとっても真剣。
「ああ、そうだわ。ロゼッタちゃんは人魚だって聞いたわよ。水を浴びると髪の色とかは変わるんですってね。どうせなら人魚のときに合わせたほうがいいわよね。今濡らしてみてもいいかしら?」
「はい、もちろんです」
座って座って、と促されて大きな鏡がついている鏡台の前に座った。マギーさんは水を汲んできて、早速私にかける。ふわふわのタオルで顔を拭ってくれた後、マギーさんはクローゼットの中から何枚かお洋服を持ってきた。全部上だけで、胸元や背中が広く開いていそうなものばかり。
「髪の色に合わせたものがいいわね。ひらひらしてて水に揺れるか、反対に出来る限り布面積を減らすか・・・。でも、あんまり露出が多いのは嫌よね?」
そう言いながら身体の前に当ててくれたのは白いブラウス。肩に羽織るように着せて、胸の下で軽く結わえるようにする。ブラウスって、こんな着方もあるんだ。これはこれで可愛いとおもうけれど、マギーさんは納得できなかったみたい。ブラウスを隣の椅子に放って、次はキャミソールを取り出した。胸元と、ひらひらして大きく広がっている裾が水色になっているもの。それ以外は白いけれど、胸下から裾にかけてだんだん透けるようになっている。とっても可愛いけど、胸元は大きく開いてるし裾は短くてお腹が見えちゃいそう。ちょっと恥ずかしいな。
「んー、なんだか違うのよね。もう少し身体のラインが出るものがいいかしら」
また隣に放って違うお洋服を取り出した。そうしてもう何着か、あれも違うこれも違うとたくさん取り替える。途中からだんだん私も楽しくなってきて、自分でもいろいろ選んでみる。
マギーさんの選ぶお洋服はどれも可愛いけれど、どうしてか肌がたくさん出るものばかり。陸には毒をもった生き物とか植物とかって少ないのかな?そうじゃないと肌をたくさん出していることなんてできないもん。
「あらっ、これなんかいいじゃないかしら。露出は多いけれど色も合うわ。少し大人っぽくって、人魚らしい艶やかさもあるわね。ちょっと着てみて」
服を渡されて、マギーさんを見る。マギーさんはニコニコしているけれど、私、これを着るの・・・?
「ほらほら、時間もないわ。ここには私たちしかいないし、恥ずかしがることなんてないのよ」
そう言われて、恥ずかしいけれど着替えることにする。・・・でも。
「マギーさん、まだスカート選んでませんよ?」
指摘すると、あ、とマギーさんは目を見開く。
「そうよね、普通ならボトムスも選ぶわよね・・・。でもねロゼッタちゃん、人間の人魚のイメージは違うのよ。人間のイメージってね、貝殻を胸に当てているか何も着けずに髪で隠すか・・・そんななのよ。だからお客さんもそれを求めてると思うわね。スカートなんて履いていたらベイカーさんに毟り取られるのがオチよ。それなら始めから着ないほうがいいわ。そのまま丸裸にされかねないものね」
人間の考えにすごくびっくりする。人魚だってきちんとお洋服は着るのに。もちろん作る技術はないから海に流れてきたものを身に着けるしかない。それに人魚によっては鱗を見せるために下半身には何も身に着けない人魚も会ったことがある。でも裸だなんて、さすがにそんなことはないのに。
「びっくりね。でもこれはね、残念だけどあなたのためのおしゃれじゃないの。恥ずかしいとは思うけれど、人間の好みに合わせてね。ここにくる人たちはみんな、余程のことがない限り酷い目にあわせることはないはずよ。・・・ごめんなさいね、せめて大事にしようって思ってもらえるように精一杯可愛くするわ」