第九話 悪
目が覚めたのは、ただの偶然だったんだと思う。それか、“第六感”って呼ばれているものか。だって、この酷い嵐の中微かな音に気が付くなんて思えないもん。
目が覚めた私は、水を飲もうと思って起き上がった。水はサイドテーブルにいつも用意してある。
違和感を覚えたのはコップに指が触れたとき。分厚い雲に月が覆われているにしても、部屋が暗すぎる。というよりも、いつもぼんやりと浮かび上がって見える、白く塗られた部屋の扉がない。視界に入る位置にあるはずなのに。そちらへ顔を向けると、黒い影がぬうっと目の前に躍り出た。
驚いて引き攣った声が漏れるも、途中で口を塞がれてくもぐった音に変わってしまった。そしてそのまま乱暴に、ベッドから引きずり出された。チッ、と耳元で音がなった。小さく息を飲む。私を引っ張っているのは、カイルさんだ。
サアッと血の気が引いた。どう考えても、この状況は良いものではない。どうにか逃げようと足を踏ん張ってみたけれど、カイルさんは足を止めることなく私を引きずっている。助けを求めるようにカインの部屋へ視線を向けたけれど、この嵐の中では口を塞がれたまま叫んだって、どうしたってカインの耳には届かない。口を塞いでる手を剥がそうと思い切り引っ張ってみるけれど、ビクともしない。
どうしよう、こわい・・・!段々と呼吸が速くなっていく。耳元で血が流れの早い海流のようにザーッと音をたてているのが聞こえる。さっきの悲鳴もきっと、嵐の音に呑まれてしまったに違いない。小さな声だったし、寝起きで掠れてもいた。
恐怖のあまり、嗚咽が漏れた。震える手で、それでも逃げようともがく。助けて、カイン。そう願ったときだった。
「兄貴!」
初めて聞く、怒鳴りつけるようなカインの大声。もがきながら、パッと目を開ける。どうか、聞き間違いではありませんように・・・!
暗闇の中ぼんやりと浮かび上がっているのはカイルさんを睨み付けているカインの顔。一度気遣わしげに私の方を見たけれど、すぐにカイルさんの方へ視線が戻った。カイルさんは足を止めてカインに向き直っていた。カイルさんは笑ったのか、頭上で軽く息が吐き出される音がした。
「お前がそんな必死こいた顔するなんてな・・・・。これが、そんなに大事か?」
これ、と言った途端、カイルさんは腕に力を込めた。息も出来ないほどにお腹が締め付けられ、甲高い呻き声が漏れた。痛い、苦しい。恐怖と苦しみで頭がぼうっとしてくる。閉じた瞼の裏が一瞬、真っ白に染まった。続いて鋭い悲鳴のような音。まるで私の悲鳴を雷が代わりに上げているみたいだ。
やめろ、というカインの低い声に、腕の力が緩んでまた息が出来るようになった。だけどカイルさんの腕を掴んだままの私の指先は、真冬の海のように冷たい。震えは指先だけではなく全身にまで伝わっていた。カインとカイルさんが話しているのは聞こえたけれど、内容はまるで頭に入ってこない。カイルさんが私の腰を離したことに気が付いたのも、横で何かを放っては受け止めている様な音がしてからだった。
突然がたがたと肩を揺さぶられ、目を見開いた。そして塞がれていた口も、圧迫感が消えた。反射的に息を吸い込むとヒュウッと音がした。自分の喉からした音だなんて、信じられない。ちゃんと息をしたからか、少しだけ視界がはっきりとした。雑音の様だった二人の会話が、意味のある言葉として耳に入る。
「むしろお前はなんでこれに拘ってんだよ。アシュリーが死ぬ原因みてえなもんだろうがよ!」
息を飲み、目を見張る。アシュリーが死ぬ原因?それは、私のこと?がたがたと、視界が揺れている。アシュリーちゃんは私のせいで死んだの?真っ白になった視界に、アシュリーちゃんの顔が浮かぶ。明るく笑う、アシュリーちゃん。けどそれは、元気な頃のものではなく、顔色が悪くて少し苦しそうに笑っている顔。
ああ、そうか。私の為に無理をして会いに来てくれたから、アシュリーちゃんはますます具合が悪くなっちゃったんだ。アシュリーちゃんは優しいから、具合の悪い自分よりも私のことを心配してくれて、カインも優しいから、私のせいでアシュリーちゃんが死んじゃっただなんて言わないで、とっても親切にしてくれた。それなのに私は今、カインにあんなに苦しそうな顔をさせている。私のせいでカインまでも苦しめているんだ。
こめかみに、何か冷たくて硬いものが押し当てられた。それを見たカインが唇を噛む。噛み切ってしまいそうなほどに、歯が食い込んでいる。お願いカイン、そんな顔しないで・・・。
けれどカインは相変わらず怖い顔のまま。大袈裟な溜息の後、こめかみに当たっていたものが離れた。カインは目だけでそれを追う。
「残念だよなあ、仕事とはいえあいつのダチを売らなきゃいけねえなんてさ」
売る、という言葉に、どこか他人事のような感覚で諦めにも似た感情が浮かんだ。今は私の事なんかよりもアシュリーちゃんやカインの事の方が大切。どうして二人は私なんかの為に、ここまで。
カインさんの腕が上がり、その手に持っていたものが目に入った。黒い、何か。本で見たことがある。あれは確か、鉄砲――人間の作った危険な武器。それがカインに、向けられている。まさかカイルさんは、カインを傷つけるつもり?
「カイン、お前はオレにとってたった一人残った肉親だ。殺したくねえ、アシュリーのためにも。よく考えろよ、アシュリーとこれのどっちが大切か。・・・考えるまでもねえか」
ふっと息が吐き出された。そしてそのまま腕が引かる。そうだ、考えるまでもない。私とアシュリーちゃんのどっちが大切か、なんて。腕を引かれるままに足を踏み出し、振り返った。一瞬、カインと目が合う。急いで首を振った。
お願い、追いかけて来ないで。カインが怪我をする所なんて、見たくない。これ以上迷惑なんてかけたくない。
嵐の中へ飛び出すと、途端に強い雨風が身体に打ちつけた。髪や服が水を含んで身体に張り付き、重くなる。玄関から少し進んだ所で身体の力が抜けてその場に崩れ落ちた。カイルさんは振り返って私の鰭を見ると舌打をして私を乱暴に担ぎ上げた。肩に強くお腹が当たって、息が詰まった。
「ごほっ、ごほ・・・」
思わず咳き込んで、口を引き結ぶ。昨日の気だるさがまた圧し掛かってくるようだった。カイルさんは車のドアを開けて、後ろの座席に私を放り投げた。ゆっくり身体を起こすと、車が大きく唸り声を上げた。カインの運転よりもよっぽど速いスピードで、車は走り出した。
振り返ると未だ明かりの点いていない家がグングンと遠ざかっていった。
「追いかけてきてねえな、カイン。まあ、当たり前だけどな」
カイルさんの嘲笑じみた声に前を向く。天井から下がっている鏡にカイルさんの目が映っていた。鏡越しに私を見ているようだった。
「そう、ですね」
明らかに答えなんて期待されていなかったけれど、小さく返して見せるとカイルさんの瞳が僅かに揺れた。
車はずっと、海沿いに進んでいった。けれどカインの家の前にある海とは違ってゴミが沢山浮いている。どうして人間は海にまでゴミを捨てるのだろう。
やがて着いたのは、大きな港だった。今は使われていないようで、船は一つもないし、人気もまるでない。どうしてこんな所に・・・。
カイルさんはまた私を担ぎ、歩き出した。雨は少し弱まったようで、カイルさんの重い足音が雨音の合間に耳に届く。背後からズズッと重い音がして、私達は屋根の下へ入った。椅子に降ろされて、私は辺りを見渡した。埃っぽい。とても広いけど、ガランとしている。ここは倉庫か何かかな、家具が置かれている様子はないし天井も随分高いし。
ボッと音がして、カイルさんは火が点いたものを持ち上げた。濡れた髪に手を差し込み、カイルさんはシャツの胸ポケットから箱を取り出し、そこから一本の棒を出して咥えた。そこにも火を点け、煙を吐き出す。煙草、というものかな。
「ったく、何だってここまで来なきゃなんねえんだか・・・」
小さくぼやいて、いつの間にか手に持っていたタオルをこちらに投げた。
「おい、拭いとけ。くれぐれも身体壊すんじゃねえ」
「ありがとう、ございます」
一応お礼を言ってタオルを受け取り、髪を拭き始める。カイルさんはそんな私に目もくれず、携帯を取り出して話し始めた。
「おう、オレだ。ああ、いや。いいモンが手に入ってよぉ、今から・・・ん?まあ、期待してくれても構わねえよ。ああ、すぐに第3倉庫に来てくれ」
その様子を伺いながら、スカートから水を絞る。ボタボタと水は足元に大きな水溜りを作っていった。それはゆっくりと広がっていき、カイルさんの靴にぶつかると横に流れていく。それを見て、ふと思う。私が今感じているこの感情も、こうして流れていけばいいのに、と。
気がつくとカイルさんはじっと私を観察していた。私・・・というよりも私の鰭、といった方が正しいのかな。人間の足になるのを待っているみたい。
私の鰭がすっかり足になった頃に、外から車の音が聞こえた。カイルさんは入り口を大きく開けて足元に置いてあったバケツを手に外に出た。私はこのままでいいのかな。これから、どうなるんだろう。
「よっぽどなのでしょうね、あなたがそうやって呼ぶからには」
「ああ、大目玉に出来る。まあ、見てくれよ」
すぐにカイルさんは男の人を連れて戻ってきた。ひょろっとしていて背が高い、怖そうな人。その人は倉庫の電気をつけると私の目の前に来て、見下ろした。今まで暗かったせいで、突然の明かりに目が慣れない。
「こんにちは、お嬢さん」
「・・・こんにちは」
「ふむ、声はいいですね。上玉は上玉ですが・・・。ベイカー?この女にそこまでの価値があるようには見えませんが」
ぞわり、と言いようのない恐怖に襲われた。この人、私のことを全く生き物として見てない・・・!男の人は無造作に私の頬に触れた。なんて冷たい手。
「肌艶はいい。髪質も・・・うん?不思議な質感だな。悪くはないが」
「それだけじゃねえ。あんたもこれを見たら驚くぜ、ちょっと待っててくれ、サプライズだ・・・」
ニヤリ、と笑ったカイルさんは足早に外に置いたバケツを持って戻ってきた。雨水が溜まっているらしくタプタプと音がしている。男の人は不思議そうに見ているけれど特に質問をするつもりはないみたい。カイルさんは私の目の前に立つと芝居がかった仕草でバケツを持ち上げ、それをひっくり返した。
凍りそうなほどに冷たい水。きつく目を閉じて、耐える。ヒュウッと短く口笛の音がした。男の人のものだろう。それと得意そうに笑うカイルさんの声も。
「本物、ですか?」
「当たり前だ。ちゃんと見てくれよ、これの価値を」
再び髪や肌を触られた。さっきよりも念入りだ。スカートが捲られて、鰭をじっと見られているのを感じた。鰭の先に触れたり軽く引っ張ってみたりと本物かどうか確かめている。それから鱗一枚一枚を確かめられた。弾いてみたり、少し捲ってみたり。ゆっくりと目を開くと男の人は私の足元に屈みこんで真剣な顔をしていた。でも、それでも納得が出来ていないみたい。考え込むように顎に手を当てると徐に私の鰭を持ち上げた。そして尾鰭の付け根を指でなぞる。そして裏側の鱗を摘むと――
「ひっ」
鋭い痛みに思わず息を飲んだ。男の人は引き剥がした鱗を光に透かして見ていた。痛みの走る所を見てみると微かに血が滲んでいた。
「成程、本物のようですね」
「おいっ、鱗毟っちまったら価値が下がっちまうだろうが!」
憤慨して叫ぶカイルさんに、男の人はやれやれと首を振った。
「本物だと証明出来る物が必要でしょう。そうでなければ客も納得しませんし。だが本物だと分かればこの程度の傷、誰も気にしませんよ」
言いながらポケットからだした袋に鱗をしまった。そして「S-1」と書く。どういう意味なんだろう、一体。この人、口調はすごく丁寧だけど得体のしれない怖さがある。
男の人は立ち上がると、カイルさんと挨拶を交わして倉庫を出て行った。どうやら私は高値で売られることが決まったみたいだった。
胸に広がっている恐怖は、どうやら流れてはくれないようだった。