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楽園への堕落

作者: 氷砂糖

 現実は、楽園に堕ちた。

 もう何年と使い続けた万年筆で結ぶ。これを書き始めてからもう幾年が経っただろうか。漸く書き終えたこの作品は、おそらく日の目を見ることもないだろう。元々は上に言われて書く物の息抜きで、私自身人民のための筆を置いてからというもの、これを最後まで書き切るなどとは考えていなかった。

 重たい腰を上げ、埃臭い書斎の窓を開ける。日差しは強く、真上に居座った太陽が道路を走る車たちを煌々と照らしている。外は私がかつて生きていた時代など忘れて疾う疾うと生き急ぐ。それはきっと悪いことではない。見も知らぬ壁に当たることもあるだろうが、新たな新たな智慧でそれを乗り越えていくのだろう。ただペェスをあげた。それだけの話である。

「お茶をお持ち致しました」

 若い侍従が洗練された動作で紅茶を持ってくる。その服装も今や息子の趣味でメイド服などという西洋の装束になっている。日本は西洋に迎合し、その中で独自の文化を作り上げた。なんとも逞しいことだ。だが、私はそれについて行けそうにもない。

「お顔が優れませんが、どうかなさいましたか?」

「いや」

 慌てて手を振って否定する。「なんでもないよ」

「そうですか? ならいいのですが・・・・・・」

「大丈夫だ。それより、三上君に言って車を出してもらえないか。妻にも顔を出さなければ」

「畏まりました。奥様もきっとお喜びになります」

 侍従は一礼して部屋を去っていく。喜ぶ、か。その前に怒られてしまうだろうな。なんせ、あれを書き終えるのに夢中でもう七日も顔を出していないのだから。

 妻は末期の癌であるらしい。私は医学に詳しくないからよく分からないが、医者の言うことにはもう半年も生きられぬとのことだ。妻には迷惑をかけた。仕事を辞めたら労いも兼ねて二人で様々な旅に出ようと思っていたのに、結局のところ行けたのは、富士の山の、それも山腹までだ。

「旦那様。車の準備ができました」

「ありがとう」

 助手席に乗り、シィトベルトをつける。ぶるるると排気音をたてて発進すると、近未来のような高い建物群が視界に映る。

「時代というのは変わるものだな」

「そうなのでしょうか? 私は最近の生まれなのでよくわかりません」

「それでいいさ」

 過去を見ても今のためにはならん。この近未来の風景もれっきとした今なのだ。車で移動できるように道が整備されたのも、歩くことが当たり前だった私の若い頃には考えられない進歩だ。

「機能性と前衛的なデザインにばかり凝った今のファニチャーよりも趣深いアンティークの方が私は好きですよ」

「君のような人間は正しいのか、間違っているのか。どちらなんだろうね」

「個人の自由、で片付けられてしまう範囲だと思います」

「個人、自由か。いい時代になったものだ。私はそんなものなど持ち合わせていなかった。お上のために命を捨てることが当たり前だった」

 私の書いたものはそういったものに書かされた文学とも呼べないつまらない代物ばかりだった。物語を紡ぐのに思想など必要ない。考察も計算も要らない。筆を赴くままに滑らせて、そうして出来上がったものこそ文学だ。分類なんてするものではない。特定の人間の評価を狙うものでもない。本人が満足しなければそれをどれだけ他人が評価しようとも駄作でしかないし、他のどんな作品よりも劣っていると言わざるを得ない。

 三上君はそんな私の時代遅れな考え方をどう思っているのだろうね。どれだけ売れたか、その数値だけが作品の出来の良さを示す指標になってしまった。万人受けしそうなありきたりなシチュエイション、耳障りのいい薄ペラな名前、取って付けたような横文字・・・・・・おっと横文字に関しては私も人のことを言えないか。昔に抑圧されたせいで多用してしまっている。

「私は正直そういったことは考えません。誰かを狙っていたものでも構いませんし、そこに作者の思想や創意工夫があるならば、それも含めて楽しもうと思います」

「ならば君はどうやって読む本を決めている」

「綺麗な文章かどうか、ですかね」

 三上君は少し照れくさそうに頬を掻く。「文章が綺麗であれば、作者の意図は伝わります」

「ははあ、それはまた奇妙なことを言い出すね。読み易い文章だとか、独特で前衛的な文章だとか、文章に焦点を当てた批評はよく聞くが、綺麗さとはまた珍妙なものだ。では君から見て私の作品はどう写ったかね」

「失礼を承知で申し上げるならば、中期の作品は旦那様らしからぬ乱雑な文で正直見るに堪えられません。何故あんなものが代表作として世に認知されているのでしょうか。私は初期の頃や旦那様が稼業をお辞めになる少し前の作品の方が好みです。旦那様が心から楽しんで書いてらっしゃいます」

「ふむ、分かったようなことを言うね」私はなんだか見透かされたような気がして、三上君に対し気味の悪さを感じた。「別に間違ってないからいいのだがね」

「お気を悪くさせてしまったでしょうか」

「構わないと言ったろう。返事として君の質問に答えよう」

「質問?」

「なぜ私の中でも一番の駄作であるアレが代表作として認知されているのか。それはな、単純に、今でも戦争論者が多いだけの話だよ」

「私達の親の世代ももう戦争を経験していません」

「していないから戦争論に走るのさ。君、煙草は大丈夫だったかな」三上君が頷くと、私は煙草に火をつけた。ただ話すだけなんて辛くて耐えられそうもない。「あと何分くらいかな」

「三十分といったところでしょうか」

「そうか。でな、君達戦争をしていない世代は戦争を知らない。君たちの知る戦争など映画や漫画のものだろう」

「そうですね。戦争を扱った作品は多く出ています」

「それで君たちはこう思っている。戦争とはこうも面白いものなのか、とね」

「それは」

「実際の戦争を知らないから言えることさ。今のこの国はありがたい事に弱腰だ。間違っても他国に喧嘩を売ろうなどとは考えない。そうして不満を持ったものたちは戦争を題材にした娯楽にのめり込んでいくのさ。そうすればあとはさっき話した現代の文学の流れさ。私のような当時を限りなく美化して書いたものが人気を出す」

「旦那様は、戦争に反対であったのですか?」

「いや、どちらかというと賛成だった。陸軍にいた事もある。だけどね、私は物書きだ。自分の自由に書き連ねたい。だからあの時代は私にとってとても苦しい時代だったよ。そういう君はどうなんだね?」

「私ですか?」

「そうさ。戦争を知らない君は戦争に対してどのような意見を持っている」

 三上君は彼にしては珍しく頭を捻っている。それは当たり前だ。右翼を掲げる若者だって、お国のために死にに行けるのか。そう問えば誰もが即座に答えられるわけではない。戦争を知らないからだ。

 三上君はしばらく考えて漸く答えをひり出す。「私は戦争は反対です」

「どうしてかね?」

「私には命を捨てながら生きるなんて器用な真似はできません」

「なるほど、道理だ」

 三上君は再び運転に集中する。彼は実に賢い青年だ。彼みたいな政治家ばかりなら戦争に行き着くこともなかったかもしれない。

「さ、着きましたよ」

「三上君はついてこないのかい?」

「奥方とお二人で話した方がよろしいでしょう」

「それもそうだな」

 私は一人この白い建物に足を踏み入れる。エントランスからでもわかる洗練された調度品は、ここが病院という重苦しい場所であることを忘れてしまいそうになる。

「三0八号室の妻と面会したい」

 受付にそう告げると、すぐに病室まで案内される。妻がいるのは個室だ。そっと、ドアに手をかけて捻る。

 妻の顔は痩せこけていた。誓を結んだ時の可憐さはとうに無くし、子を産んだ、母親としての暖かさももう持ち合わせていない。妻の役目は既に終わっているとでも言いたげな姿に耐えられず私は顔を背けた。

「あら、珍しいお客さんね」

「すまないね、なかなか忙しくて時間が取れなかったんだ」

「ええ知っていますとも。それで、漸く書き終えたのかしら」

 やはり妻に隠し事はできない。女の勘という奴なのだろうか、妻は私がひた隠しにしたがるものを常に見抜く。

「貴方はいつも筆を持っていたわね」

「それが仕事だったからな」

「あらそうかしら」妻はくすくすと笑う。「貴方が仕事をしていたのは戦争の最中だけじゃないかしら」

「そんなことを言わないでくれ」私はベッドの脇に置いてあった丸椅子に腰掛ける。「それでは私がまるでひねもす遊んでいるようじゃないか」

「私はそう言ったのよ」

「なに?」

「貴方はいつも子供のような人だったわね」

「薮から棒にどうしたんだ」

「ちょっと、お医者様に色々言われたのよ」

「色々?」

「そう」妻は嬉しそうな悲しそうな、私の感性ではうまく言葉にできない、そんな不思議な表情を浮かべた。「色々」

「いったい何を聞いたんだ?」

「たぶん貴方にもお医者様から話が来るわ」

 どうやら私に教えてくれる気は毛頭ないらしい。

 日は既に暮れかかり、窓から差し込む夕焼けが私と妻を映す。誰そ彼、妻が何故か別人のように見えた。それはきっと翳りのせいだろう。

「私はね、貴方との結婚、最初は嫌だったのよ」

「それは初耳だ」

「初めて言ったのだもの。親に決められた結婚だったから、私は反発したわ」

「好きな人でも居たのかい?」

「そういうわけじゃなかったけれど」

 自分で好きに生きたかったのだと妻は言った。なるほど、そういえばかつてはそんなことも有ったのだろう。私達の時代、結婚は親が決めるのが当たり前だったが、今の世の中は自由な恋愛を謳歌している。当時、妻みたいな先進的な考え方の人間はどちらかというと封じ込められる側にあった。女流の作家や思想家なんてのは金持ちの娘が、おかしいと声をあげたものだ。

「今はね、悪くなかったかな、とも思ってるけど」

「なぜかな」

「あら、それを私に言わせるの」

 むっ、と唸る。察しろということなのだろうが、女心というのはよく分からない。物書きとしてそれはどうなのか、と言われるかもしれないが、私の作品に恋愛を取り扱ったものは無い。分からないものを書けるはずなどない、至極当然の帰結だ。

 誤魔化すように時計を見る。針は六時に差し掛かったところで、そろそろ面会の時間も終わる頃だ。妻もそれに気付いたのか朗らかな笑い声をあげる。

「今度への宿題ね」

「かぐや姫に難題を与えられたみたいだよ」

「あはは、まだそんな洒落たこと言えたのね」

 心無しか、妻の血色が良くなっているようだった。ほんの少しだけ、かつての美しかった頃の妻が戻ってきたようだった。

「ねえ貴方、今度、宮島に行ってみたいわ」

「それはまた遠いな」

「ええ、連れてってくださる?」

「ああ、もちろんだとも」

 そんな会話を最後にして病室を出る。妻はおそらくこの病院から出ることはないだろう。せめて嘘でも、約束をしてやりたかった。だから私は妻の言葉に頷いた。

「旦那さん」

 部屋を出てきた私に声をかけてきたのは、妻の担当をしている医師だった。「奥さんから聞いてらっしゃいますか?」

「いったい何をだね、先生?」

「奥さんのガンの治療法が見つかって、まだ臨床試験の段階ですが、奥さんに臨床試験の被験者になってもらおうと思っていまして」

 急に立ちくらみがしたような気がして、思わず一歩、二歩よろける。背中に当たる壁がひんやりと冷たく、その事実を私の頭の中に深く深く浸透させていく。

 ああ、やはりそういうことなのか。現実は、楽園に堕ちた。私が考え綴ったはずの言葉、その本当の意味を漸く理解したような気がした。


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