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「というわけだ」
ここ最近、どういうわけだか竜崎のほうが忙しく、なかなか二人で会う機会もなかったのだが、抱えていた仕事がひと段落したとのことであいつからお誘いがあったので、楽しく酒を飲みつつ、紫が尋ねてきたことを話せば、竜崎はめがねの奥で瞳をわかりやすく歪めてみせた。
「お前は紫のことが苦手だったか?」
「んー、苦手というほど接触したことはないんやけど」
と、そこで竜崎はお猪口に入っていた酒をぐいっとあおった。
「うん、やっぱり水炊きはこの店でないとな。取り揃えてある日本酒もなかなかのもんやし」
「おい」
「せっかちな奴は嫌われるで。…まあちゃんと確認がとれた事実やないからなんていえばいいのかわからんけど、奥さんのとこにちょくちょく顔出してるらしいとは聞いた。つっても、奥さん今、実家戻ってんのやろ?あっこには妹さんもいるから、奥さんに会いに行ってるとは言い切れんけどな」
「宮園の妹と紫に何かつながりでも?」
「妹さん、ヨーロッパに留学しとったことがあったらしくて。そのときに知り合ったらしいとは聞いてるわ」
竜崎の言葉に斎は呆れた。さすが普段から胡散臭い笑みを無差別に振りまいているだけのことはある。接触したことなど殆どないと先ほど言った相手のことについてもきちんと情報を仕入れているのだから大したものだ。
口では確認が取れてないなどといっているが、こいつが口に出した以上、それはほぼ事実だと考えていい。竜崎いわく、「ここのは本物の水炊きだ」という鍋は確かに美味しいし、置いてある日本酒ともよく合う。神経質に見えて案外懐のでかい竜崎は大抵のことについては「仕方ないな」で済ませるのだが、ラーメンや水炊きをはじめとする食事に関しては暴君のようなこだわりをみせた。
彼にとってみれば、ここまで違うものならばいっそ別の名前をつけろ、ということらしい。そうすれば注文した方としては、運ばれてきた料理を見て裏切られたとがっかりすることもなく、食事を楽しめるというのだ。斎はおいしければそれでいい、という性質なので竜崎の主張についてはそんなものか、と眺めているだけだ。
「しかし、お前がそこまで曖昧なのも珍しいな」
「相手が宮園やからな。あっこはこどもが成人するまで殆ど情報をシャットアウトするし、あんまりかかわりがないんやもん。むしろ、俺よりお前のほうが詳しいんやない?」
「当主と当主夫人にお会いしたことはあるが。その程度でしかないな」
「それでやっていけるんやから宮園さまさまってやつやんなぁ」
「確かにな」
別れ際に竜崎は言いにくそうに、弟くんには気をつけといたがええかもな、とだけ呟き雑踏へと紛れていった。そのときは、よっぽど竜崎は紫が苦手なのだなとそんな軽い感想しかなかった。竜崎がどういう男かよく知っていたはずなのに。
表面上は穏やかに時間が過ぎていった。
結婚したときに購入したマンションには、あの会食以来帰っていない。最初の一ヶ月は時折、彩月からメールが入っていたり、着信があったりしていたのだけれど全部無視していれば、そのうち連絡さえこなくなった。これでわずらわしいものが一つ減ってほっとした。ただ、竜崎によれば斎が更紗と会ったりすれば、すぐにでも訴えるよう手筈を整えているらしいので、念のため、メール等も含めて連絡は一切とっていない。とはいえ、竜崎が代わりに更紗のことを斎に教えてくれるのでそれほど不安でもない。ほとぼりが冷めればすぐにでも更紗と一緒に住むつもりだ。結婚することはできないけれど形式上の妻に気兼ねする必要などどこにもない。そして、更紗に子供をうんでもらい、その子を跡継ぎにすれば斎との子供を欲しがっていたあの女には十分な意趣返しになるだろう。それが楽しみだ。
ある日、斎は上司であり、父親でもある嘉納智によばれ、彼の私室に入った。戸籍上も遺伝上もれっきとした親子ではあるけれど、智の私室に入ったことは数えるほどしかない。
「宮園の娘と離婚したいそうだな」
やはり、その話かと緊張を心のなかに閉じ込める。この男を説得できなければ、到底望みなど叶うわけがない。
「はい」
「そして、その後に柏木の娘を迎え入れると?」
面白そうに父が斎を見た。斎も負けじとにらみ返す。
「ええ」
「今まで通り、柏木の娘は愛人としておけばよかったのではないか?とはいえ、柏木に子どもをうんでもらうわけにはいかないがな」
「いいえ。嘉納斎の妻に相応しいのは柏木更紗だけです。宮園の娘ではありません」
いかに更紗が斎の妻として相応しいか述べようとしたところで、父が待ったをかけた。
「ふん。引く気はないようだな」
「ありえません」
「よかろう。ならお前と宮園の娘の離婚を認めよう」
あっさり了承が得られたことに拍子抜けする。まさかこんなにすぐ認められようとは。
「嘉納を継ぐのは紫だ。ただし、表の当主は今まで通りお前だ。明日からお前の仕事は全部紫に引き継げ。その後の仕事は全部紫に聞け。話は以上だ」
部屋を出て行け、と父は無情にも言った。
それは終わりの合図だった。