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(あと5分!)
目を皿にして机に張り付いたプライベートディスプレイを流し見るが、もう解けそうな問題は見つからない。
と言うか、最初の4問以外は質問の意味すら分からなかった。
『次の式に置いて△αがβと等しくなる期間、κの確率は一定である事を証明せよ』
たった一行の文なのに、自然と吐き気がこみ上げてきた。そもそも中学生までで理論が止まってるのに、高校大学レベルの証明問題など解ける訳がない。
なかばヤケになってキーボードを走らせた。
『実は一定じゃない』
打ち終わった後、絶望感に涙が込み上げてきた。
30以上の科目から3科目を選べ、という指示に従って最初の科目に国語、次いで英語を選んだ。理由は「知らなくても解けそうな問題が多いかも」と言う藁にもすがる思いだ。
その結果、自分でも意外だったが五割くらい合ってるんじゃないかと思う解答が出来た。
しかし、幸運もそこまで。後は物理学とか幾何学とか人間工学とかITストラテジストとか見た目的にも難しそうな科目ばかりが雁首を並べていた。
そんな中、基礎数学という項目を見つけた。
基礎、という甘いテイストに誘われて選択してみたのだが、これが失敗だった。
選択問題が少なく、しかも基礎と名前がついてる癖に見た事もない問題ばかりで手の打ちようがない。
(そもそも半分正解したくらいで受かるはずないよなぁ)
周りのエリート方の気合いの入れようは尋常ならざるものがある。既に相当の点差になっている事だろう。
状況は控えめに見ても絶望的……とはいえ、生まれて初めて夢に向かって挑戦できているのだ。
最後まで全力を尽くしたい。
せめて後一問でも、と次の問題に取りかかった。
「――時間です」
無情な声が響くと同時にプライベートディスプレイが机に溶けるようにクローズした。
終わった――と息をつく間もなく、試験官は手持ちのデバイスを覗き込んで告げる。
「採点が終了しました。これより合格者を発表します。合格者は面接を行うのですぐに20階に下りなさい」
淡々と告げられた言葉に会場がざわついた。私語厳禁にも関わらずだ。
面接まで今日あるのか? その場で合格発表するのか? などの驚きもあるだろう。
だが、なにより採点がもう終わったというのが信じられない。
なにせ正否が微妙な文章問題もたくさんあったはずなのに、そんなにあっさり自動採点が出来るのものなのだろうか。
(高性能な文章解析プログラム……っていうか、アイナ社なら人工知能による採点かな)
世界の最先端技術を見せつけられ、ここで働きたかったという思いが胸を締め付ける。
中途半端に試験に残ってしまい、あと少しで夢に手が届くところまで来てしまったために、後ろ髪を引かれる気持ちがどうしようもないほど強くなっていたのだ。
だが、さすがにあの結果で合格はない。
「では発表する。青田ソラ、三笠ヒノ、大原ユキ……」
呼ばれたリクルーターが続々と部屋を出て下の階へ向かう。
中には両手を上げたり小さく歓声を上げる者までいた。
実にうらやましい。
「……鴨野ユウト、以上だ」
100名を越える名前が呼ばれたが、案の定「伊倉ハル」の名前は呼ばれなかった。
落ちた――覚悟していたのに、改めてショックが胸に響く。
しかし、席を立とうとした受験者達に試験官は立つなと手で制した。
「名前を呼ばれなかった者は、しばらくここに残るように」
やがて、合格者が全ていなくなった後、いぶかしむ受験者達を前に試験官は相変わらずの無表情で告げた。
「さて、君たちは試験に落ちた。これは正式な結果であり、当社の規定に基づき君たちを正社員として採用するわけにはいかない」
なんという追い打ちプレイか。
俺を含め、顔をしかめた者は多かった。
400人近い受験生が刺さるような視線を放つ――が、中年の試験官は表情一つ変える事無く続けた。
「だが、当社は新システムのテスターとして非正規社員を5名程必要としている」
その言葉に俺は目を開き、ゾクゾクするような気持ちを押さえ付けるので精一杯だった。
(……これか! あの会長が俺にやらせたかったのはこれだったのか!)
正直、こんなエリートに混じって仕事をやるのは不安だったが、テスターなら学歴もそこまで響かないだろう。
あの会長の意図がようやく見えてきた気がした。
「なお非正規なので雇用保証はない。その代わり、給与や福利厚生などの待遇は正社員と遜色ない事を約束する。さらに主な就職条件として守秘義務の発生、プライベートの一部制約、そして当社の寮に住む事の3つがある」
雇用保証が無いなんて何の弊害もない。もしここがダメなら結局はバイト地獄、どちらにせよ保証なんかしてもらえる身分ではないだろう。
寮に住めるなんてむしろ願ったりだし、プライバシーの制約も、そもそも俺に私的な時間自体なかったのだから苦痛にはならないだろう。
なにより、憧れのアイナ社最新システムを世間より早く満喫できるテスターになれるのだ。
断る理由などどこにも見つからなかった。
「それでも構わないという希望者は次の試験を行うのでここに残り、それ以外の者は退出しなさい」
その途端、今まで黙って聞いていた受験生達は、そのほとんどがマスゲームのように無言で立つと、出口を目指して移動を始めた。
残っている者もいるが40……いや30人もいないだろう。
(うわ、みんな顔こわっ)
エリート軍団は苛立ちを隠そうともしない表情で、足音高く去っていく。
非正規、この言葉が彼等のプライドをいたく傷付けたのかも知れない。
彼らの能力なら雇用保証のある仕事に就いて当然、こんな怪しい仕事なんて願い下げ。
中途半端な期待を持たせやがって――といったところか。
(ちょっと待てよ。つまり、まだ残ってる20人ちょいは相当この会社に入れ込んでるってことか? テスターでも構わないってくらいに?)
この考えに冷や水を浴びせられたような思いがした。
もう既に受かったつもりでいたが、選別されるのは5人、つまり倍率は4倍。
しかも相手は自分より頭が良く、さらに熱意まであるのだ。
(浮かれてる場合じゃない。滑る確率の方が全然高いじゃないか。やばい、次の試験に集中するぞ)
席の上でゴソゴソと姿勢を正す。
と、今までの試験官までもが退室し、代わりに短く髪を刈り込んだ体格のいい男が現れた。ぴっちり身を包むスーツが少しきつそうだ。
男はガラガラになった席を見渡し、ニカッと爽やかな笑みを浮かべた。
「おう、随分と残ったな。さて、話しは聞いてると思うが、今欲しいのは新システムのテスターが数名だ。アイナ社の命運を掛けてるシステムと言ってもいいもので、テスターといってもそれなりの奴が欲しいからな。今から行う試験で見極めさせてもらう」
それなりの奴が欲しいと言ったが求めるレベルは相当高いのだろう。
いったいどんな試験をやるつもりなのか。
「では、各自机の上のデバイスを取って一つ上の階へ上がるように。階を上がるとデバイスに数字が表示される。各自表示された番号の部屋に入り、中にあるHMDを装着後に起動させて待機。以降の指示はHMD越しに行う」
なにか体育教師か、さもなくば軍隊の教官のような口調だ。
ただ、口調こそぶっきらぼうだが、実に楽しそうな表情で指示を出す。
あんな感じで仕事が出来たら毎日が楽しいだろうな、と知らず羨望を向けていた。
「最後になるが俺はシステム開発部長の岩田だ。お前らとまた会える事を願っている。以上だ」
携帯をロッカーから回収する必要のなかった俺は、他の受験者達より一足早く上階へ上がる階段を昇った。
そして、階段を上り切った所で一歩足を止める。
ズラリと並ぶ部屋と、そのゴツく無愛想な扉に既視感を覚えたのだ。
(あ! あの密室バイトの施設に似てるんだ)
ご丁寧に頑丈そうな扉に貼ってあるプレートと数字のフォントまで一緒だ。
手元にあるデバイスを確認すると、真っ黒だったディスプレイに白い数字で13と表示されていた。
なんとも縁起の悪い数字である。
「えーと、13、13……ここか」
やはり同じ造りの頑丈なノブをあけ、中へ入るとやはり白い部屋があり、しかしその部屋の中央に机と椅子が置いてあった。
そして、その机の中央においてあったのはフルフェイスヘルメットを少し流線型にした真っ黒な物体。
「おおっ! HMDのZ3!」
憧れていたヘッドマウントディスプレイの最新機種がそこにあった。
部屋に飛び込んでて似とると、背後でドアがガチャリと閉まる。何か懐かしさすら覚える音だ。
『ルーム13、伊倉ハル入室確認。デバイスをHMD後頭部へセットして下さい』
と、これまた懐かしい室内アナウンスが流れた。
「えーと、ここにセットすればいいのかな。で、あとは被ってスイッチONで良いんだよな? スイッチは……これか」
フルフェイスヘルメットのあごの横辺りにアナログなボタンが付いている。電源ボタンがこんなレトロな装置なのは何かのセーフティ対策なのだろうか。
あれこれと妄想しながらも、HMDのしっとりとした液体金属の感触を感じる度にわくわくが止まらない。
HMDを被るとひとつ大きく息を吸い込み、震える手で電源ボタンを押した。
インナーパッドが静かに膨らみ、優しく頭部にフィットする。昔被ったあの時はモーター音がしてタイトに締まったのだが、やはり技術は進歩しているらしい。
フィットが終わった瞬間、半透明だったバイザー部分の透過性が無くなり、周囲は真っ暗闇に包まれた。
やがて鳥の羽ばたき音が近づいてくると、チッチッとさえずりを残しながら頭の周りを旋回し、天へと駆け上りフェードアウトしていく。
本物としか思えない、とんでもない音のクオリティだ。
同時に、その音の消えた天の辺りが明るくなり……大波が引くように視界一杯の景色が一気に広がった。
「う、わ……」
言葉にならない感動にイスから立ち上がった。
中天に浮かぶ太陽と青い空、夏だと言う事が一目で分かる巨大な入道雲、その下にどこまでも広がっているのは海だ。
視線を近くに戻すと白いフェンスが海に落ちないように横に伸びている。
下を見ると滑り止めのザラザラした緑色の床、それがゆっくりと上下している。
後ろを振り返れば巨大な煙突が白煙を噴き上げていた。
「これは……船の上? ここって甲板の上か?」
「みたいね」
その声に振り返ると、ベリーショートの女性が腰に手を当てて立っていた。
Tシャツとチノパンに身を包み爽やかスポーツ系女子と言った感じで、どこかで見たような――
「ああ! 今朝のバナナの人」
「バナナってなによ!」
バナナの人は怒った顔をしたかと思うと、次の瞬間にはぷっと吹き出した。
「あはは! 君ってばあんな格好してたから、朝食堂で会った時てっきり社員の人かと思ったじゃない」
ケラケラと目を細めて笑う――と、ふと今見ているのはHMD越しに見ている画像だと思い出した。HMDが顔を再現させているばかりか、表情まで変えているのだ。
おそらくは顔をHMDでリアルタイムにスキャニングしているのだろうか、あと、男女の差やら身長などはデバイスをセットしたときの情報か。
HMDを使い慣れている人には常識でも、自分には驚きの連続である。
そんな俺の顔を覗き込むように、バナナの人は首をかしげた。
「あなたも私と同じ学生だったんだ」
「学生じゃないです。フリーター」
「へえ、フリーター? よくアイナ社に受験なんてできたね」
目を見開いて驚く、ころころと表情の変わる人だ。
何か言い返そうとした時だった。
「――自分ら、今試験中だし緊張感もってくれんと困るて」
不機嫌そうな声と聞き慣れないイントネーションの言葉。
振り返るとやはり不機嫌そうな顔をした男がいた。背が高く、ソフトモヒカンの茶髪で少し彫りの深い顔立ち、ハーフだろうか?
男は甲板の上をカンカンと足音高く近づくと俺を嘗め回すように見た。
「お前さん、フリーターだってな? やる気ないなら迷惑だで早よ帰って欲しいわ」
どこの方言か分からないが、言っていることはなんとなく伝わった。つまり、中途半端な気持ちで首を突っ込むなって事だろう。
熱意で負けるわけにいかず、俺は胸を張って答えた。
「いえ、やる気はあります。準備不足なのは認めますけど」
「ふうん……ならまあいいわ。足だけは引っ張らんといてな」
男はポンと肩を触って――と言っても触られた感触はないのだが――それ以上からむ事もなく、船の舳先の方へ行ってしまった。
バナナの人がその背中を細目で見てつぶやく。
「あいつなんか偉そうねー」
「でも、あの人すごい熱意ですね。今も必死で下調べしてるし」
「あっ、そうか! ごめん、私も行くね」
そう言うと、軽快な足取りでバナナの人も走り去ってしまった。
俺も付いていきたかったのだが、実を言うと歩く事が出来ない。
歩いてしまうと実際の体も歩いてしまい、転ぶか壁に当たりそうで怖くて動けないのだ。
(困った。まさか、HMD使ってない事がこんなところで響くなんて)
何とかならないかと見回すと、また見知った人がそこにいた。
今朝、試験が始まる前に起こしてくれた黒縁眼鏡の人のよさそうなお兄さんである。彼も服装がTシャツ、チノパンになっており、さらにそのいい人イメージが強くなっている。
思い切って手を振ってみると、こちらに気付いて近づいてくれた。
「あの、今朝起こしてくれた人ですよね!」
「えっ? あ、ああ、まぁ、そうかな」
眼鏡のお兄さんは恥ずかしそうに頬を掻く。
「今朝はありがとうございました! ほんと助かりました!」
「い、いや、当然の事しただけで、その……」
頭を下げると、お兄さんも恐縮したように頭を下げ返した。
しかし、聞いたであろうか。当然のことをしたまでですよ、なんて生まれてはじめて生で聞いた粋なセリフである。
せめてお名前でも、と伺おうとした時、どこからともなくアナウンスが流れてきた。
『次の試験は5人集まった時点で始めます。もうしばらく待機ください』
バナナの人、ハーフ系の人、優しそうな人、そして自分。
あと一人足りないようだ。
「じゃあ、ボク向こうに行きますから。失礼します」
ペコと年下の自分に頭を軽く下げ、優しそうなお兄さんまで行ってしまった。
(ま、まずい。このままでは試験にならないかもしれない)
焦った俺は思い切って一歩踏み出してみた。――だが、やはり腿の辺りが机と当たった感触がする。
やはり体が動いてしまっているようだ。
光や音といった外界の情報が全く入らないので、正直怖くて仕方が無い。
(怖がってる場合か! 早く慣れなきゃ何も出来ないまま終わるぞ。体を動かさないで、意識だけを動かせ)
と気負いこんでやってみるが、焦るばかりでうまくいかない。
(くそ、動け――ちがう、俺の足は動くな! ああああ、もう訳が分からん!)
混乱がピークに達したそのときだった。
目の前――ほんの1mほど先に、白い光の玉が現れた。
真っ白な光は人の輪郭に膨張し、上から殻が割れるように消えていく。
それはほんの一瞬のことだったが、まるで真っ白な繭から蝶が生まれたような光景だった。
そして光の中から現れたのは、一人の女性。
肩口まで艶やかに流れる漆黒の髪、目鼻の彫りはやや浅いが儚気な印象を抱かせる。その少女の幼さが抜け切らない容姿は、とても20を過ぎているようには見えなかった。
そして、少しだけ悲しそうな瞳。
その目を見つめた瞬間、心臓が鼓動を打った。
少女が目を上げ、自分を見た。
「わあ!」
気が付けば手の届く距離にいたため慌てて一歩下がる――と現実のイスに足を引っ掛け、甲板だか床だか分からない場所に倒れこんだ。
イスに足を打ってしまい酷く痛い。
「……大丈夫?」
彼女は少しだけ首を傾げて口を開いた。
小さな声だが、不思議としっかりと伝わる。
「だ、大丈夫! 俺実はHMDは始めててで、その、体が動いて、後ろにイスがあって、それで」
いかん、何を話しているんだか訳が分からなくなってきた。すごく醜態をさらしてる気がして、ますますテンパっていく。
と、彼女はそっと手を差し伸ばした。
一瞬迷ったが、その手を取る。
あり得ないのだが、触れ合った箇所が少しだけ熱くなったような気がした。
「そのまま力を入れないで」
彼女は呟くように言い、無造作に引き上げると、俺の体はあっさり立ち上がった。
だが、現実の体はうつぶせで寝たままだ。
あまりの妙な気分に、テンパっていた頭が急速に冷えて行く。
「そのまま歩いてみて」
彼女に言われた通り、一歩、二歩と足を踏み出してみる。
と、船の上をいくら進んでも、現実の自分は寝たままなのがわかった。
おそらく虫のようにジタバタともがいているのだろうが、お陰で壁や机に当たらない。
「すごい! これなら何とかなりそうだ。ありがとう!」
あまりの嬉しさに甲板の上で両手をブンブンと振り回して礼を言う。
「別に……」
と、そこで彼女は耐えかねたように口に手を当てて小さく笑った。
俺の喜びようがあまりに滑稽だったらしい。
その笑顔が、なんと言うか、あまりに可愛かった。
俺の免疫の無い男心を掴んで粉々にするには十分すぎる破壊力があったのだ。
なにか、なにか気の利いた事を言わねば、そう頭をひねろうとした時だった。
『メンバーが揃いました。試験を開始します』
無機質なアナウンスの声が響いた途端、少女の笑顔はあまりにあっけなく消えた。