3
「ダメだー。ダメだー。もうダメだー」
頭の中を駆け回るフレーズを垂れ流し、背中に当たる壁に頭をゴンゴンとぶつける。
数分間隔で「ウオー!」だの「アーッ!」だの叫んでいるが、止めようとも思わなくなってきていた。
今が昼なのか夜なのか、そして何日目なのかも全く分からなくなった。
「ダメだー。ダメだー。こりゃダメだー」
風呂にも入れないので気持ちが悪い。早くシャワーを浴びたい。髭を剃りたい。
次の食事まで、次の食事が出たらあきらめよう。
「そうだー。そうだー。あきらめよう」
あきらめて、そして外に出たらどうしよう?
「おそとにでたら、どうしよう」
何度も何度も考えて悩んでみたが、結局結論はひとつに収束する。
アイナ製の最新体感型ヘッドマウントディスプレイ『HMD―Z3』、過去を振り返るうちに家賃と必需品を揃えたらどうしても欲しいと思うようになっていた。
体感型ヘッドマウントディスプレイHMDシリーズ――それは無名だったアイナ社を一気に世界中へ知らしめた超の付くヒット商品である。
その白く軽いヘルメットのようなモノは、視界や聴覚をすっぽり遮ってしまうため、学校ではもちろん屋外では一切使用を禁止されていた。
おまけにかなり高額にもかかわらず、ほとんどの友達が持っていたほど普及したハードウェア。しかし、俺の両親はヴァーチャルなんたらには興味が無かったのかHMDは買おうとしなかったし、俺が欲しいと言っても、そんな高級品を与えてもらえる訳が無かった。
そんなこんなで子供の頃、周りの友達がHMDでVRMMO(Virtual Reality and Massively Multiplayer Online)を楽しそうに遊んでいたのを尻目に、ひたすらゲームなんて興味ないよとストイックなフリを続けていたのだ。
そして学年が上がれば上がる程、学校の会話はオンライン上の会話の延長になり、当然俺は自然と会話からはずされて独りでいることが多くなった。
だが、そこまでは良かった。
話題が少ないからと言ってサッカーに誘われないとかそんな事は無かったし、友達が増えたとしてもその後はバイト地獄、どうせすぐに疎遠になったのだ。
――決定的な失敗だったのはHMDに手を出してしまったことだ。
一度、親しくも無い友達の家に呼ばれた事があった。当時は最新機種として入手困難だったHMD-Z2を親のコネかなんかで手に入れ、それを自慢したかったのだろう。
そいつはひとしきり自慢が終わると、なんの気まぐれか俺に「やってみるか?」と声をかけた。
おそらくゲームに興味が無いとかうそぶいていた俺の鼻を明かしたかったに違いないが、当時の自分に断る理由は特に無かった。
白く光沢のある流線型の眼鏡つきヘルメット――と、言葉にすると珍妙なソレを受け取るとおもむろに頭に被る。
かなり大きめなソレを被ると視界はほぼ真っ暗になった。友人の指示で電源をONにするとモーター音が走り、ダボダボだったHMDがピタリと頭にフィットする。
同時にHMDの重さをほとんど感じなくなり、視界全体が徐々に明るくなっていった。
やがて、視界を埋め尽くす広大な景色が鮮明になっていく。
『――え?』
気がつけば自分は緑豊かな山頂に立っていた。
どこまでも青い空と遥か空を舞う鳥の声、見渡す限りの山々と広大な針葉樹林。
どこからか近づいてきた蝶との距離感がハッキリとつかめる――今やすっかり衰退してしまった3D技術が使用されているのだろう。
顔を動かせばタイムロス無く景色が動き、それに合わせて音の指向までもが変わった。
そして、遠くに見えたのは湖と、その中心にある壮麗で巨大な白亜の城。
突然現れた見たことも無い幻想的で美しい世界に、俺は一瞬で魅了されてしまった。
だが、当時の俺は知らなかった。
HDMシリーズの特長がその高い処理能力と、そして非接触型高度脳波センサを駆使した脳波操作が可能な事だと言う事を。
そして、脳波操作を主体とするため体は動かさないよう、脳波だけで操作するコツがいる事を。
ただ無限に広がる幻想的な世界に興奮を抑えきれなくなり、俺は城に向かって思わず駆け出してしまったのだ。
結果、目の前にいた友達の顔面へ思いっきり前蹴りを入れてしまった。烈火の如く怒られたあげく、即刻その家を追い出された。
あの日以来、HMDの裏側で見た光景が目に焼きついて忘れられなくなった。
あの感動を味わった次の日から、クラスメイトが嬉しそうにVRMMOの事を話しているのが耐えられなくなったのだ。
じっとしているだけの休み時間が、苦痛でしかなくなった。早く授業よ始まれ、と何度念じた事だろう。
何も知らなければ、あんなに苦しくはならなかったのに。
「――よし、決めた! 絶対買うぞ! あの続きをやってやる!」
そして再び、あの一瞬だけ垣間見たゲームのオープニングを脳裏に浮かべた。
深緑の山頂、広く高い空、遥か先で湖上に浮かぶ白亜の城。
空想の中で一歩を踏み出した。
足に伝わる草の感触、青い匂い。
さらに二歩、三歩と進むたびに加速する。
風を切り、景色が移り行く。
草影にモンスターを創り、武器を抜き、教室で聞きかじった魔法を唱える。
町や村々とそこに住む人々と次々に生み出し――
いつの間にか意識は白く狭い部屋から遠く旅立っていた。
それは長い長い想像になった。
ノックの音がするや、白衣の男は面倒くさそうに返事をした。
「はいはい、どうぞどうぞ。鍵なんかかけてませんからね」
「砂原君、失礼するよ。前回の結果はどうだったかね?」
「会長ですか。それがですねぇ――」
砂原と呼ばれた白衣の男は眼鏡をくいとあげ、立体ディスプレイを会長に見せる。
「ほう、2週間も保ったのか? 今のレベルは?」
「レベル1です。前回会長が来たときは3で、その後すぐに2へ落ちて、脳波も徐々にα波とδ波が多くなりました。で、12日目を越えたあたりでレベル1、今じゃすっかり大人しいもんです」
「レベル1? 1だと? まさか彼は適応でもしたのか? 何が原因でこうなった?」
鋭い剣幕で問い詰める会長に、砂原はひょうひょうと肩をすくめた。
「さてねえ、イクラちゃん――おっと、彼に聞くしかないですね……」
その投げやりな回答に会長は我に返ったように一歩下がると、すまないと頭を下げる。
「いえいえ。ただですね、症状こそ緩和しましたが色々限界は近いです。栄養的にもずっとカロリーメーカーと野菜ジュースですからね」
「これ以上は体力的に危険か……」
「ええ、正直これ以上は体を壊してアウトって結果が見えてますね。もう得ることも無いですし、記憶がしっかりしてる内に終わらせましょうよ。私もいい加減あきてきちゃって、交代で着いてる真壁くんなんて入ってくるなりため息吐くんですよ。まったく、プロ意識が足りないと言いますかねぇ」
「そうか、そうだろうな。いや、ご苦労だった」
会長が苦労をねぎらうようにポンと砂原の肩を叩いた。
「では、会長」
「ああ、実験は――終了だ」
その言葉を聞くや砂原は伊倉ハルの映っていた立体ディスプレイ下にある赤いボタンをゆっくりと押した。
『――はい、お疲れ様です』
「うおあっ?」
ウトウトとまどろんでいた俺は、突如聞こえてきた声に文字通り腰を浮かせた。
『これで実験は終了です』
「え? ええっ? ちょ、ちょっとまって、俺はまだ――」
『ああ、ご心配なく。打ち切りにはなりましたが、最後まで残った君には十分な報酬を支払いますからね。はいはい、ロックを解除するので出てきてください』
最後まで残れたのか――その言葉に脱力してしまいヘナヘナとその場に座り込む。
ガチャリと懐かしい音が響き、ロックが解除されたようだ。
しかし、それでも何故か真っ白い部屋の中で俺はしばらく動くことが出来なかった。
『伊倉さーん? 大丈夫ですか?』
「あー、は、はい。俺、どれくらここに居たんですか?」
『2週間ですよ。さすがに後遺症はありそうですね……そこで待っててください。別の者に迎えに行かせますから』
「い、いえ! 大丈夫です! 大丈夫!」
そう言って無意味にスクワットしてみせると、軽い立ちくらみに抵抗しながらドアの前に行く。
よく見ると、ドアの一部から取っ手が飛び出している。
これで、この部屋ともお別れなのかと妙な感慨を覚えながら、重い扉を開いた。
遠目に見えたのは、窓から差し込む陽の光。
「うそ、今、昼なの?」
窓から差し込む光に一瞬目を疑った。
今は深夜だとずっと思っていたのだが、完全に昼夜が反転していたようだ。
「伊倉さん、こっちですよ」
声のしたほうを観ると、例の白衣の男が陽気に手を振っている。
それからもう一人、妙に雰囲気のある黒スーツの男がその後ろに立っていた。
「はい」
返事をして近づくと、男からは益々金持ちの匂いが漂ってきた。
こまめに美容院へ行かねば維持できぬ一糸乱れぬヘアスタイル、スーツも靴も高級且つ黒いのに毎日クリーニングしてるのかと思うほどホコリもシワも一切無い。チラリと見える金色の時計も相当な値打ちモノだろう。
一方、自分はと言えば髭は伸び放題、10日以上フロに入っていないせいで、きっと体臭は恐ろしいことになっているはずだ。
思わず脇の辺りの匂いをかいでみる。
「伊倉さん、ちょっと話を聞かせて欲しいんだけど……その前にシャワーいっとく?」
「は、はいっ!」
俺はありったけの元気で返事をした。
シャワーの後で髭も剃らせてもらい、サッパリしたところで小さい個室に案内された。
外に出たとたん疲れがどっと出て、本音は早く帰りたかったのだが、個室のテーブルにちょこんと鎮座しましている緑茶とみたらし団子の山を見て気力が沸く。
みたらし団子の向こうには、いつも通りひょうひょうとしている白衣の男と、先ほどの金持ちオーラの漂う黒スーツの男が興味深そうにこちらを見ていた。
「まぁ、かけたまえ。腹も減っているだろうからね、遠慮せず好きなだけ食べるといい」
「はあ」
黒服の男から言われ気の無い返事をしてみるが、内心はガッツポーズである。
イスに腰掛けるや、まずは緑茶をひとすすりした。
「っ!」
熱かったわけではない、程よく温かい緑茶が想像よりずっと甘かったのだ。
香りと甘みだけを凝縮したような味わいで、それでいて緑茶の緑色は抹茶と見まがうばかりに濃い。
つまり、茶葉の質がとんでもなく良く、かつお茶のいれ方が理想的なのだろう。
ただでさえ高級茶などに縁が無いのに、密室で野菜ジュースの日々である。
涙が出るほどお茶をうまいと感じたのは初めてだった。
「さて、君に色々と聴きたいことがあってね。報酬はその後に渡すよ。構わないかな?」
続いて団子に手を伸ばすが、こちらも匂いがやばい。
程よく焦げ目の付いたみたらし団子は、コンビニで売られているソレとは違い、ふにゃふにゃと柔らかくない。
やや小ぶりなその身が、薄茶色のねっとりとした蜜に覆われている。
「伊倉さん、いいですか?」
「あ、は、はい!」
「まあまあ、砂原君。彼は極限状態に長期間さらされていたんだ。まずは食べるのを待ってもいいんじゃないか?」
「まぁ、ボクはいいんですが。でも会長、あなた忙しいんでしょう?」
「午後の会議は全てキャンセルした。この後の砂原君のレポートもしっかりと聞けるよ」
「うっ……わかりました。っていうか、会長、名前伏せてるんだから言わないでくださいよ。リアル割れって怖いんですよ、ボク」
「あっはっは、そうかそうか。すまないな」
なにやら盛り上がっているようで何より。その間にお言葉に甘えて団子をひとつ歯でちぎってみた。
弾力ある歯ごたえに絡み付く程よい甘みのタレ。
鼻に抜けるのは黒砂糖の香りとそれに混じって醤油の焦げた匂い。
これは電熱器やガスで焼いた匂いじゃない。直火、ひょっとすると炭火か何かで焼いたのかもしれない。
たかが団子に炭火……団子もグレードがあったのだと思い知らされた。
「さて、そろそろいいかい」
砂原が苦笑を浮かべて聞いたのは団子を6本、お茶を4杯ほど飲み干した頃だった。
正直、まだまだ食べたかったが、さすがにこれ以上は失礼だと思い自重する。
既に失礼極まりないかもしれないが。
「はい、お待たせしてすみません」
「うんうん。では、早速だけど、部屋の中で何を考えていたのか教えてもらえるかな」
「何をって、うーん……」
「そうそう、VTRがあるから観ながら回想するかい?」
「あ、はい。そっちの方が思い出せます」
と言うわけで、自分が閉じ込められているVTRを観ながらその時の心情を語る羽目になった。
これが恥ずかしい。
特に奇声を上げたり、飲み終わった紙パックをひたすらいじって遊んでいたたり、壁に頭をぶつけたり、中途半端に歌ってみたり。
「こ、この時は歌詞が思い出せなくてイライラしてしまってですね」
こんな事を早送り画像を観ながら話し続けた。
と、砂原が会長に「この辺りですね」と告げると、二人の目の色が変わる。
「この時、君は何を思ったんだい?」
今まで黙っていた会長なる人物がずいと身を乗り出して聞いてきた。
「ええと、その、HMDってゲーム機ご存知ですか? ヘッドマウントディスプレイの略らしいんですけど、すごいんですよ?」
そう言うと黙って聞いていた砂原が堪えかねたようにプププッと吹き出す。
何かまずいことでも言ったのだろうかと思ったが、会長は知っているから続けて、と先を促した。
「それで、今回のバイト代でアイナ社の最新HMDを買おうと決めて――って、あの、実は俺、今までHMDって一度しかやったこと無くて、そのやった時にみた映像っていうか、景色が忘れられなくて」
こんな事を人に言うのは初めてだった。
何故か興奮気味になってしまった俺を見て、会長は「そうか」とゆっくりと微笑みを浮かべて頷いた。
その動作に、スッと落ち着きが戻る。できる大人と言うのは周囲の気持ちをコントロールするのもうまいのかもしれない。
「でも、俺はその先の物語を知らないもので。それで、自分であれこれと想像して創ってみて――って、頭の中ですけど」
「なるほど、想像の中で別世界に行っている間に落ち着いてきたわけか」
「は、はい。それです。狭い部屋にいるのも苦しくなく――っていうか、狭い部屋にいることを忘れて」
「ふむ……砂原君、どう思う?」
会長の問いかけに砂原は微妙な笑みを浮かべた。
「他の被験者も似たような事はしてます。もしくは、極限状態までいったからこその産物なのか。っていうか、ボクの名前呼ばないでくださいね」
「極限状態……不確定なままテストするには辛いな」
「ええ、もう少し適用事例が欲しいところですね」
あれこれと自分を置き去りにして話が展開されていた。
その間にさいごのみたらし団子を頬張る。
「――ああ、伊倉くんだったね。ありがとう。これは謝礼だよ」
そう言って机の上には札束がどんと置かれた。
「――っ! ごほっ! ごほんっ!」
驚きのあまり団子が気管支に入る。
このご時世でキャッシュとは驚いたが、驚愕したのはその額だ。
紙帯の巻かれた十万円札が札束でどかんと置かれたである。
パッと見ですくなくとも50枚はありそうだ。
「2週間いたのは実は最高記録なんだ。大体は1、2日でリタイアする。実に良いデータが取れたよ」
「あ、あの、これいくらあるんですか?」
「一千万だ。足りないかい?」
「い、いえ! 滅相もありません!」
慌ててその札束を抱きしめる。
その重みに手が震えた。
「分かっていると思うがこれは口止め料も含まれてる。誓約書にも記載してあるが、今実験のあらゆる情報は秘匿して欲しい。ああ、それから砂原君の名前も秘密にしてほしい」
「まったくですよ。お願いしますね」
「は、はいっ。分かりました」
破れば当然この金以上の損害賠償金を請求されることだろう。
絶対に手放すものか、これでしばらくはホームレスの恐怖におびえることは無いのだ。
「よし……では君に最後の質問があるんだが」
「え?」
なんだろうと札束を庇うように会長に首を傾げる。
黒服のナイスミドルは、しかし今までの初老を思わせる雰囲気を捨て去り、まるでいたずら好きの少年のような笑みを浮かべた。
「私と一緒に、電脳世界を創ってみたくはないかい?」