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 この物語はフィクションであり、実在の人物とは関係がありません。

 ただし、バイトについてはその限りではありません。

 貧乏とは何だろうか?

 シンプルに答えれば言葉通り、(まず)しくて(とぼ)しい事だろう。

 具体的に言えば生きていけないほど金が無く、衣食住が足りない事。


 しかし、俺は思う。

 貧乏とは生きていくための手段が選べない事だと。

 あれこれと選択の余地が残っている状態など貧乏とは言わない――いや、言って欲しくない。


「では、ここにサインをお願いしますね」


 白衣の中年男がカウンター越しに差し出したのは一枚の誓約書。

 深夜の病院の受付ような薄暗い場所なのに、カウンターの向こう側だけ妙に明るい。男はそこから下界に恵みを施す神か何かのような微笑みを浮かべていた。

 ペラペラの紙切れを両手で重々しく受け取った俺は、そこに書いてある項目へ目を通す。


『甲(被験者)は乙(試験者、および依頼企業)より充分な説明を受けました』

『甲は本実験に対する危険性を十分に理解しました』

『いかなる精神的障害が発生しても甲は乙に対して責任を追求しません』


 次々に紙面で踊る不穏な言葉達を前に、じわりと涙が浮かびそうになった。


(これは洒落にならん)


 読み進めるのを止め、目を閉じる。

 バイト仲間から「早くて一気に稼げる仕事がある」と聞いた時は死中に活を見つけたと思ったのだが、そうそう楽をして稼げる話なんてある訳がなかった。

 あったとしても当然、このように裏があるのだ。


「おや、どうかしましたか?」


 目の前の白衣の男が何をためらっているのかと驚いたように首を傾げた。

 男は40前後で洒落っ気もなく、眼鏡のセンスも無い。さえない研究一筋ですと言わんばかりのおじさんで、演技をしているようには思えない。

 つまり素で『こんな良い話なのに迷うんですか?』と驚いているようだ。


(いや――こんなところで働く職員だぞ。これも演技に違いない。怪しい所をつつけばボロが出るはず)


 ちょっとまってくださいと断ってから、目を皿のようにして制約書を読み返す。


「えーと……バイト代の事が載ってないんですけど、どうしてですか?」

「ああ、ハイハイ。お給料の事ですね。なるほどなるほど」


 そうなのだ。誓約書には物騒な事ばかりで肝心の報酬額はまったく記載されていなかった。

 どういうことだ――と少し睨んでやったが、逆に男はニンマリと満面の笑顔を浮かべる。


「じつはね、書けないんですよ。お金の事は」

「書けない――って、なんでですか? 何かまずい事でもあるんですか?」


 あるんでしょ――と言わんばかりにトーンを上げてみる。

 だが、男はマイペースのまま、ゆっくりと頷いた。


「はいはい、そうです、あるんですよ、書類にするとね。いやいや、心配する事はありません。むしろあなたにとっては好都合のはずです。なにせ他のお仕事と比べて額が多いものですから、ちょっと紙面に残せないだけです。でも大丈夫ですよ。ちゃんと経理の方はパスさせたので。なので安心してサインしてください」


 と言われても、こんな怪しい口約束では不安は募る一方である。

 だがしかし、何度も言うが、貧乏の前には選択の余地などない。

 あと一週間以内に滞納している家賃を払わなければホームレスの出来上がりなのだ。


(ホームレス……)


 その言葉に一気に気が重くなった。

 お気楽ホームレスなんて半世紀前までの考え方だ。

 この21世紀末、俺の住んでいるこの片田舎では生きているホームレスなんて見た事がなかった。

 もちろんこの地域の経済が安定してるからホームレスが少ない、なんて事は断じて無い。

 昨今の温暖化と寒冷化が入り混じった砂漠のような気象のせいで、ホームレスなど数日で凍死。最悪の場合は軽い病気になった挙句、餓死するまで寒空と炎天下を繰り返し苦しみ抜かねばならない。

 国政の打ち出した定住者法なる新法も追い討ちを掛けている。

 国は1世紀以上にわたる散財の挙句、国債を減らすためにインフレを強行したが、3倍ほどで限界に達してしまった。

 結果、余裕の無くなった国は住居がなくなった国民――つまりはホームレスから国民IDを没収するようになってしまったのだ。

 この現社会において国民IDがなくては何も出来ない。

 病院にいけば恐ろしい額の医療費を請求され、再びIDを得るのも首を傾げるほど多くの金が掛かる。

 つまり、衣食住のうち家だけは何としてでも死守せねば、保護者のいない俺は冗談抜きで死んでしまうのだ。

 貧乏人に選択権無し。


「……はぁ」


 重いため息をひとつ吐くと、やっと覚悟を決めた。

 ガリガリと紙面をひっかくように誓約書にペンを走らせる。


『伊倉 ハル 男 19歳 電話番号:なし』


「――伊倉さん、ですね。電話番号ないんですか? 携帯とか?」

「ありません。携帯も無いです」

「ふーむ、ご両親は?」

「ないです。絶縁しました」

「ああ、なるほどなるほど、そうですか。分かりました。ではあちらへどうぞ」


 白衣の男は悪びれもなく納得すると、紙を手早く回収すると奥の扉を指差した。

 妙に分厚い扉を開けると、その奥は広い部屋に長椅子を並べた病院の待合室のような場所があった。

 薄暗い部屋ではそれぞれ離れた場所に4人が座っており、奥を向いたままなので分かりにくいが、どれも自分よりは年齢が上の男のようだ。

 随分待たされたのだろう、誰もがだるそうに長椅子に座っている。


「そこで待っててください。君で最後ですから、すぐ開始しますね」

「はい」


 後ろから声を掛けられ、その声に数人が視線だけをこちらに向けた。

 挨拶でもした方がいいのだろうか、そう思いながらも結局黙ったまま、最後列の長椅子にそそくさと座る。

 まだ昼下がりのはずなのに薄暗い部屋にじっといると、酷く現実感が薄らぐ。


「ハイハイ、では定員になりましたので実験を始めますね」


 先ほどの男が別の入り口からやってきて、部屋の際奥、つまりは皆の前に立った。

 こんな病院っぽい待合室で白衣なのに、男は医者ではなく、どうみても研究者にしか見えないから不思議だ。


「では、早く始めたいので手短に説明をしますね。これから皆さんにはそれぞれ別々の個室に入ってもらいます。できるだけ長く部屋に入っていてくださいね」


 ざわりと困惑の波が広がる。どうやら皆も何をするのかは聞いていなかったようだ。


「ああ、心配しないで下さい。食事は日に三度、部屋に届けますし、トイレも中にあります。まあ、監視カメラがありますが男しか見て無いから安心して用を足してくださいね。カメラを塞いだら研究できなくなりますから。ウックック」


 眼鏡の男は何がおかしかったのか口を押えて楽しそうに笑うと、「ふむ、あとは・・・・・・」と手元の紙に目を通して話を続ける。


「ああ、そうそう。携帯とか荷物は全て持込不可です。そんな理由で部屋の前にある服に着替えて、今着ている服と荷物は全てかごの中に入れて置いてください。終わったら返却しますから。説明は以上ですが質問は?」

「部屋の中では何をすればいいんですか?」


 手を挙げて質問したのはよく見ると50代位の男だ。

 びっしりと白髪が頭を覆い、何やら歴年の苦労を物語っている。


「いえいえ、中に入ったら何もしなくて結構です。どうぞ、ゆっくりしていってください」

「はあ……」


 拍子抜けしてしまった皆の様子に満足したのか、男は笑顔で頷いてみせた。


「ではよろしいですね。はい、では部屋割りを発表しますね。ええと、まずは伊倉さんは101です。続いて山田さんが……」


 次々に部屋番号が伝えられ、その後、通路を通って部屋の前に通された。

 101――鉄製の頑丈そうな扉に安っぽいプラスチックプレートが貼られ、黒いゴシック体で印字されている。味も素っ気も無いとはこのことだろう。

 扉の脇においてある2段式のプラスチックのかごには、上の段に清潔そうな白いツナギが置いてあった。

 特に着替える部屋も無いので、仕方なく廊下のような場所で黙って着替える。


「準備完了っと」


 着替え終わると、待っていたようにアナウンスが響いた。


『では、そのまま部屋に入ってください。部屋に入ると自動でロックされます』


 扉のノブをゆっくりと回すと、カシャリと言う機械的な音がしたのでそのまま引いてみる。

 かなり重い――が、軋音もなく滑らかに開いていった。


「……白いな」


 部屋の広さは4畳――いや3畳ほどのとても狭い部屋で、壁から床、天井に至るまでとにかく真っ白だ。

 おそるおそる入ってみるが、家具も何もない。

 床もまぶしいほど白く、触ってみるとリノリウムだろうか? 樹脂のような少しだけ柔らかい素材だった。


 ガシャン


 床を触った瞬間、後ろの鉄扉から音から硬い音が響き、思わず腰を浮かせた。

 どうやら鍵が閉まったらしい。


『さて、では実験開始です。ギブアップの人は出してくださいって声を掛けてくださいね。ではでは、頑張ってください』


 そんな軽い掛け声が、始まりの合図だった。

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