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The Right to Fly

作者: 坂本 晴人

「何しに来たんだ」

 折笠閃(おりかさせん)は振り向かずにそう言った。コンクリートの床に膝をつく彼は今、三段重ねの工具箱から懐中電灯を探し出そうと奮闘しているところ。その身を(よろ)う濃緑色のツナギは油染みだらけで見る影もない。

「嫌われたもんだな」

 そう苦笑しながら返すのは折笠の背後に立つ男。彼の名は早川(はやかわ)(あき)(ひろ)。早川は空軍の略装の上に黒いジャケットを羽織っている。それは彼が黒蝶飛行中隊(ブラック・バラフライズ)のメンバーであることを示していた。

「あと十五分もかからない。機体の調子が気になるんだったらそれからにしてくれ」

「ああ、別に機体を見に来たわけじゃねえよ」

「じゃあ出て行け」

「お前と話がしたくてな」

 そう言いながら早川は折笠に歩み寄る。靴底が奏でる一定のリズムがハンガーに響き渡る。ようやくドライバーを手にした折笠の目の前には一機の戦闘機。開け放たれたキャノピーを除いて、黒一色でカラーリングされたそれは早川の愛機だ。その垂直尾翼には懐中時計を(かたど)ったエンブレムが描かれている。早川のジャケットの背にもまた、同じ紋章が輝いていた。

「話? 整備はちゃんとやってるつもりだが」

 早川が真横に来てもなお折笠は彼の方を向こうとしない。彼は懐中電灯で機体を下から照らし、見落とした傷がないかを丹念に確かめる。

「折笠、お前は俺が嫌いか?」

「大嫌いだ」

「どれくらいに?」

「今すぐ死んでもらいたい」

 抑揚のない折笠の返事。しかしそれは早川の予想通りの内容。早川は彼の細い背に向けて問いかける。

「じゃあどうして整備の手を抜かない? そんなに俺が憎いんならいくらでもやりようはあるだろう」

「そうして欲しいのか?」

「もちろん勘弁してほしい。だが、俺には分からない。お前の整備はいつも完璧だ。作戦高度に応じた微調整も素晴らしいとしか言いようがない。俺が落ちずに戦っていられるのはお前のおかげだ。だから分からない。どうしてなんだ?」

 折笠は何も言わず漆黒の機体を調べ続ける。早川も無言でその様子を見続け、彼が答えてくれるのを待つ。

それから十分。遂に折笠は懐中電灯の明かりを消し、それを工具箱にしまった。直すべき傷はもうひとつも残っていない。機体の下から抜け出した折笠は、膝の汚れを払いつつ言う。

「それとこれとは話が違う」

 彼は遂に早川の目を真正面から見据えた。

「俺はあんたのことは大嫌いだ。だけど、あんたが空で戦う権利は命を賭けて守ってやる。整備不良の機体がどれだけ我慢ならないものか俺は知ってる。自分の思ったように飛べないことがどれほど悔しいものかも」

「飛んだことがあるのか?」

 思わず早川は訊いていた。

「俺は子供の頃からずっとパイロットになりたかった。中学を出た後は奈祁(なぎ)()に行った」

それは意外も意外な事実であった。確かに細身でパイロットらしい体つきをしているが、まさかこの整備士の鑑が奈祁野、つまり航空士官学校に行っていたなどとは早川の想像だにしないところだった。

 そしてそれを聞いた早川はある可能性に気がついた。彼は確かめるように問いかける。

「折笠、お前は……何期の人間だ?」

「航空科の第百八十九期生。俺は次席で卒業する予定だった」

「そうか、それじゃあ」

 早川は全てを理解した。奈祁野に行っていた者が今は整備士をやっていて、しかもパイロットの自分を憎悪しているのはなぜなのか。

「『最少年齢条約』のことを知ったのは卒業のひと月前だった。最初は嘘だと思った。戦場に赴く兵士は陸であれ海であれ空であれ、少なくとも五十歳である必要があるなんて、馬鹿馬鹿しくて冗談にさえ思わなかった」

 そこで折笠はいったん言葉を切り、床を蹴りつけた。乾いた音がハンガーの中に反響する。

「だが、そうじゃなかった。卒業して喜ぶ俺たちに校長は言った。今でもまだ覚えてる。『誉れ高き飛行機乗りたちよ。卒業おめでとう。君らは私が、そしてこの奈祁野が送り出す最後の飛行機乗りとなった。この場に立ち会えたことを嬉しく思う』」

 淡々と折笠は言葉を続ける。だがその目には涙が浮かんでいた。早川はかつて自分も過ごした奈祁野の講堂を思い出しながらただ耳を傾ける。

「『最少年齢条約の締結に伴って奈祁野航空士官学校は閉校が決定した。また諸君らも非常に残念であるのだが、パイロットとして戦いに赴くことはできなくなった。我々も手を尽くしたが、陸軍も海軍もみな同じとあってはどうしようもなかった。許してほしい。ついては諸君らには、これからどう生きていくかをを再考してもらわねばならない』」

 二人の間に流れる沈黙。彼らの肌に絡みつくそれを破ったのは早川の方だった。

「それで、整備士に?」

「幸い座学は真面目に受けていたから、教官に申し出たらあっという間に整備科に籍を移してもらえたよ。飛行機から離れた仕事に就くなんて考えられなかった」

 そう言って折笠は鼻をすすった。ふと、早川は自分の皺だらけの掌に視線を落としていた。

「だから、あんたが憎い。俺がここで油まみれになっているよそで、あの大空を飛びまわっているあんたが恨めしい」

「悪かった」

「あんたが悪いわけじゃない。それは俺だって解ってる。謝るくらいだったら」

 折笠は早川の手を取り、痛いぐらいに握りしめながら口を開いた。

「いいか、整備不良なんか絶対に起こさせない。あんたは思う存分戦えばいい。空を飛ぶ権利は、誰にだって奪えやしないんだ」

 そう言った彼の瞳には確かに炎があった。その中に滾り満ちる熱が飛行機乗りのものであることを早川は考える前に理解した。早川はその老いた体の出せる力を振り絞り、彼の熱い手を握り返した。




「各機、最善を尽くせ。幸運を」

 そう言った壮年の司令官を一瞥し、早川ら八人のパイロットはブリーフィングルームを後にした。各自、最後の部品を待つ機体のもとへと足を急ぐ。

 ハンガーに到着した早川は機体の横にかけられた梯子に手をかけ、コクピットに入ろうとする。

「早川中尉、いや、タイムピース」

しかしそのとき、早川の名を呼ぶ者がいた。

「折笠」

 主翼の下から折笠が姿を現す。最後の最後まで武装のチェックをしていたのだろう。彼は工具箱を手にしたまま、コクピットに座る早川にこう言った。

「行ってこい。そして、帰ってくるな」

 その折笠の視線はじっと早川に注がれていた。

「任せやがれ」

早川は彼に向け、ぐっと親指を立てて応えた。その目に灯っているのは飛行機乗りの炎。それを聞いた折笠は機体から離れ、工具箱と共にハンガーの奥へと消えた。それを見届けた早川はキャノピーを閉め、タキシングを開始する。

 誰よりも早く誘導路に現れたその黒い機体を、青天の中に光る太陽が輝かせる。彼は一番機を、つまりは隊長を務めていた。後ろに僚機が続いているのを確認した彼は周波数を調整し、管制塔に報告する。

「タイムピース、スタンバイ」

 それからしばらくの間、彼はキャノピー越しの青空を仰ぎ見ていた。地上から見る空はどうしてこんなに青く大きいのだろうと彼は思う。

「こちら管制塔。タイムピース、離陸を許可する。幸運を」

 折笠にもいつか、飛び立てる日が来るだろう。それまで自分は生きていないとしても、どうかその時まで、この空が青いままでありますように。

「了解。タイムピース、離陸する」


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