第17話 ギャル 置かれる者へ
朝から、胸の奥がうるさかった。
目が覚めた瞬間に、まず白さがよぎる。
白い天井。
冷えた空気。
一定の間で鳴る、あの乾いた音。
「……やめてって」
布団の中で小さくつぶやいて、めいは片腕で目を覆った。
眠れなかったわけじゃない。
でも、ちゃんと休めた感じがしない。
頭の芯のあたりに薄い膜でも張ったみたいに、朝からずっと感覚が鈍かった。
「めい様、お目覚めにございますか」
障子の向こうから、紬の声がする。
「……起きてる」
「お入りしてもよろしいですか」
「どーぞ」
障子が開く。
紬はいつもと同じように静かに入ってきて、いつもと同じように支度の手を進めた。
衣を重ねる手も、帯を締める手も、乱れがない。
あまりにいつも通りすぎて、逆に助かる。
昨日のことに触れないのも、ありがたかった。
めいが何も言わないことを、責めるでもなく。
聞き出そうとするでもなく。
ただ、黙っていつも通りにしてくれている。
それが今は、妙に沁みた。
「……紬」
「はい」
「そういうとこ、たまに助かる」
紬の手が、ほんの少しだけ止まった。
「左様にございますか」
「うん。今、変にやさしくされるのもしんどいし」
「やさしくしておりませぬ」
「それもそれでどうなん?」
言うと、紬はほんのわずかに目を伏せた。
笑ったのかどうか分からないくらい小さな変化だった。
「本日は、少し空気が違います」
「……何それ、やめてよ。朝から不穏なんだけど」
「不穏にございます」
「否定して」
「できかねます」
「最悪」
そう返しながらも、めいは胸の内で嫌な感じが膨らむのを覚えていた。
廊へ出た瞬間、その予感は当たっていたと分かった。
空気が張っている。
誰かが露骨に何かを言うわけじゃない。
けれど、行き交う視線の止まり方が昨日までと違う。
見られている。
しかも、ただ珍しいからじゃない。
何かが決まりかけている時の見方だ。
(なに、ほんとにやなんだけど)
心の中で顔をしかめた、そのときだった。
「春宮めい」
呼ばれて振り向く。
御園だった。
朝の光の中でも、その姿はきっちりと隙がない。
表情の動かぬ顔でめいを見て、短く言う。
「参りなさい」
「え、今?」
「今にございます」
「選択権とかは」
「ありませぬ」
「だよね」
知ってた。
知ってたけど、一応聞きたかっただけだ。
御園について歩く。
今日の御園はいつも以上に口数が少なく、背中だけで空気を張っていた。
通された先は、いつもより奥まった場所だった。
人の気配は少ないのに、静けさそのものが気を張らせる。
磨かれた板の床。
ほのかに漂う香。
衣擦れひとつさえ、余計な音に思えるような場。
(うわ……やだ)
めいは無意識に背筋を固くする。
御園は振り返りもしないまま言った。
「本日、お前は客人まわりの補助へ回ります」
「……は?」
「返事は」
「はい」
言い直してから、めいは眉を寄せた。
「いや、はいじゃなくて。なんで私」
「口を慎みなさい」
「慎んでこれなんだけど」
ぴしゃりと視線だけが飛んでくる。
めいは口をつぐんだ。
御園はそれ以上叱らず、ただ淡々と告げる。
「正式な役付きではありませぬ。あくまで補助にございます」
「目と耳だけ開けておきなさい。余計なことはするな」
「それ、毎回言うよね」
「毎回必要ゆえにございます」
めいは納得できないまま息を吐いた。
客人まわり。
その言葉の意味を完璧に理解しているわけじゃない。
けれど、ここに来てからの経験だけでも分かる。
軽い場所じゃない。
御園の後ろに控えていた女房たちが、わずかに目を伏せる。
それだけで、この差配が普通ではないことが伝わってきた。
やがて一室の前で足が止まる。
御園が控えめに声を落とす。
「失礼いたします」
その声色は、いつもの張りつめた厳しさとは別の整い方をしていた。
誰かに向けて、礼をもって整えられた音だ。
中へ通される。
部屋の空気が変わった。
広さではない。
豪華さでもない。
ただ、その場にいる者たちの動きが、妙に完成されている。
無駄がなく、音がなく、視線の配り方まで揃っている。
ここは下の仕事場とは違う。
出来て当たり前の場所だ。
めいはそこに足を踏み入れた瞬間、自分の呼吸ひとつまで場違いな気がした。
そして、部屋の奥にいる人影を見て、さらに嫌な汗がにじんだ。
藤波。
十三話のあの日、廊で会った女。
やわらかく笑っていたくせに、少しも中身の読めなかった人。
今日は通りすがりではない。
この場の中に、自然にいる。
それだけで、前とは比べものにならない怖さがあった。
藤波はめいを見ると、わずかに目を細めた。
「ああ」
それだけで、覚えられていたのだと分かる。
「あの時の娘」
やわらかい声だった。
でも、ぞくりとする。
めいは頭を下げた。
「……春宮めいにございます」
「ええ、存じております」
その返しが、もう嫌だった。
知ってる側の人の言い方だ。
藤波はめいを上から下まで眺めるのではなく、もっと静かに見た。
形よりも、中の動きを見ようとする目だった。
「少しは慣れまして?」
「……何に、ですか」
「見られることに」
めいは一瞬、言葉に詰まる。
慣れたかと聞かれたら、全然慣れていない。
むしろ日ごとに嫌になっている。
「慣れるとか、そういう話じゃないし」
気づけば、そう返していた。
御園の気配が一段だけ冷える。
やば、と頭のどこかで思う。
でも止まらない。
「見られるの、普通にやなんだけど」
藤波は怒らなかった。
むしろ、ほんの少しだけ笑みを深めた。
「正直なこと」
「嘘ついても仕方なくないですか」
「場によっては、嘘のほうが整うこともございますよ」
「それ、だいぶやだな」
ぽろっと出た本音に、藤波はまた少し笑う。
その笑い方が読めなくて、めいは余計に落ち着かなかった。
「ですが、あなたはそうではないのですね」
「止まっているより、先に動く」
めいの喉が小さくつまる。
十三話の廊のことを言っているのか。
それとも、それ以外も含めてなのか。
「……詰む時、あるし」
「詰む」
「いや、えっと」
「まずくなる時、あるじゃん。止まってたら」
言い直しながら、めいは自分でも雑だと思った。
でも、うまい言葉なんて出てこない。
藤波はその雑ささえ面白がるように、静かにうなずいた。
「なるほど」
そこで御園が口を開いた。
「まだ未熟にございます」
その声音は平らだった。
平らなのに、線を引く響きがある。
藤波は御園へ視線を向ける。
「未熟なうちに見えるものもありましょう」
「仕上がらぬうちに場へ出すべきではないこともございます」
丁寧な言葉のまま、空気がぶつかった。
めいは二人を見比べる。
どちらも声を荒げているわけじゃない。
なのに、今ここで何かがせめぎ合っているのは分かった。
御園は通す前に叩き込む人だ。
藤波はたぶん、通しながら見る人だ。
どっちが正しいとかじゃない。
でも、その違いの間に自分が置かれていることだけは、嫌でも分かった。
そのときだった。
控えていた一人が、盆を受け取る手元をわずかに狂わせた。
ほんの少し。
ほとんど誰も気づかないくらいの、半拍のずれ。
けれど、この部屋ではその半拍が妙に浮く。
次の受け渡しが詰まる。
後ろの者が一瞬ためらう。
(あ)
思った時には、もう体が動いていた。
めいは半歩だけ位置を変え、詰まりかけた動線からそっと身を外す。
そのまま視線だけで次の者の手元を促し、空いた位置へ盆を逃がす。
声は出さない。
派手に動きもしない。
ただ、それだけで流れが戻った。
静かなまま、何事もなかったように場が進む。
めいはそこでようやく、自分がまた勝手に動いてしまったことに気づいた。
(うわ、やった……)
御園に怒られる。
真っ先にそう思った。
けれど、部屋の中は静かなままだった。
誰も何も言わない。
ただ、藤波の目だけが、はっきりとめいを捉えていた。
「なるほど」
その一言が落ちる。
「確かに、噂になるだけはございますね」
褒められたのかどうかも分からない。
むしろ値踏みされた感じのほうが強かった。
めいは居心地の悪さに眉をひそめる。
藤波はそのまま、まるで何でもないことのように御園へ向き直った。
「あれを、御客会釈へ近いところへ置いてみては」
その瞬間、場の空気が変わった。
めいは思わず目を上げる。
御客会釈。
言葉だけなら、聞いたことがあった。
以前、まだこの奥の役目の違いもよく分かっていなかったころ。
支度の最中だったか、品を運ぶ手順を叩き込まれていた時だったか。
めいが何気なく、「客の相手って、結局だれがやるわけ?」と聞いたことがある。
そのとき紬は、いつもの静かな調子で教えたのだ。
――御客会釈とは、客人まわりの差配や応対に近い務めにございます。
――ただ品を運ぶだけではなく、場の空気を乱さず、人を通し、失礼なく座を流すことを求められます。
――粗相はひとりの失敗では済まず、出した者の不調法にもなりますゆえ、軽々しく立てる場ではありませぬ。
その時のめいは、「なにそれ、責任デカすぎ」と半分聞き流しかけた。
けれど紬は、珍しく少しだけ強い目をして言った。
――この奥では、近うございます。
――上に近い場ほど、ひとつの乱れがそのまま人の値打ちになります。
今、その言葉が妙に生々しく蘇る。
軽い場所じゃない。
なんなら、今の自分がいちばん行ってはいけない場所まである。
めいの背中に、じわりと嫌な汗がにじんだ。
御園の表情はほとんど動かなかった。
だが、気配がわずかに硬くなる。
「まだ早うございます」
「早いからこそ見えるものもありましょう」
「形がなっておりませぬ」
「整いすぎた者には、拾えぬ乱れもございます」
やわらかい。
でも、一歩も引いていない。
藤波は笑みを崩さぬまま、めいを“使えるかもしれない何か”として見ていた。
御園はそれが気に入らないのだと、めいにも分かった。
でも御園のそれは、単なる意地ではない。
仕上がらないまま上へ出す危うさを、本気で知っている人の固さだった。
二人とも、自分のことを話している。
なのに、そこに“めいの気持ち”なんて一つも入っていない。
(なにこれ)
ぞっとした。
褒められているわけじゃない。
認められた、なんてきれいなものでもない。
ただ、置く場所を決められている。
自分が人じゃなく、盤の上の駒みたいに見える瞬間だった。
その後、その場は何事もなく終わった。
少なくとも表向きは。
下がってからも、めいの心臓は変な速さのままだった。
廊を戻る途中、ようやく息を吐く。
「……最悪なんだけど」
小さくこぼすと、横にいた紬が目を向けた。
「左様にございますか」
「左様にございますかじゃないでしょ」
「なんか、すごいとこで勝手に話進んでたし」
「はい」
「はい、じゃないし」
「てか御客会釈って、あれでしょ。やばいやつでしょ」
紬は少しだけ間を置いてから答えた。
「軽い場ではありませぬ」
「だよねえ……」
笑えない。
全然笑えない。
戻った先でも、空気はもう元に戻らなかった。
千代はいつも以上に口を引き結んでいる。
鈴は何か言いたげにこちらを見て、でも結局言わない。
お雪は黙っていたが、その視線だけが妙に深い。
みんな、何かを察している。
めいは居心地悪く肩を落とした。
(もう普通の雑務に戻してほしいんだけど)
そう思っても、たぶん無理だ。
場の空気がもう違う。
夕刻、あらためて御園に呼ばれた。
今度は二人きりだった。
障子が閉まる音が、妙に重い。
御園は正面に座ったまま、余計な前置きを一つもしなかった。
「春宮めい」
「……はい」
「明日より、お前は御客会釈に近い務めへ回ります」
やっぱり来た。
分かっていたのに、実際に言葉になると胸が冷えた。
「補助にございます。思い上がるな」
「……思い上がる余裕とかないです」
「口を慎みなさい」
「はい」
めいは膝の上で手を握る。
御園の視線はいつも通り厳しい。
だがその奥にあるものが、今日は少し違って見えた。
「これは引き立てではありませぬ」
静かな声が落ちる。
「試しにございます」
めいは息をのむ。
「恥を晒せば、お前ひとりでは済まぬと思いなさい」
その言葉は脅しじゃない。
事実として渡された重さだった。
自分が失敗すれば、自分だけが怒られて終わるわけじゃない。
御園の名にも、場の流れにも傷がつく。
そういう世界に、足を踏み入れようとしている。
「……なんで、私なんですか」
気づけば聞いていた。
御園は少しだけ沈黙した。
「お前は、まだ形が悪い」
「褒めてます?」
「褒めておりませぬ」
「だよね」
「ですが」
そこで御園は、ほんのわずかに言葉を置いた。
「見えてしまうのでしょう」
「流れの乱れが」
めいは顔を上げる。
「それが才か、異物ゆえかは、まだ分かりませぬ」
御園の目はまっすぐだった。
「分からぬなら、見ねばなりますまい」
それは藤波の言う“使ってみる”とは少し違った。
でも、守るだけでもない。
御園もまた、めいを次の段へ押し出すと決めたのだ。
めいは喉の奥で小さく息を飲み込む。
逃げたい。
普通に嫌だ。
やばいところへ来たとしか思えない。
でも、その一方で。
ここで何かが動き出してしまったことも分かる。
「……はい」
今度は、変に言い返さなかった。
御園はそれを聞くと、静かに告げる。
「今夜は早う休みなさい」
「明日より、これまでと同じつもりでおるな」
「……それ、もう無理そう」
「ようやく分かったようですね」
相変わらず優しくはない。
でも、その言葉は不思議と胸に残った。
部屋を辞して、廊へ出る。
冷えた空気が頬に触れる。
白い天井は見えない。
電子音もしない。
なのに、胸の奥だけが妙にざわついた。
見られる者になった、その先。
今度は動かされる側へ行く。
誰かの一言で。
誰かの思惑で。
自分の知らないところで、自分の居場所が決められていく。
「……ほんと、やなんだけど」
誰にも聞こえないように、小さくつぶやく。
けれど、その声とは裏腹に、足はもう止まらなかった。




