第15話 ギャル 試される
朝の空気が、昨日よりも少しだけ硬い。
そう感じた時点で、めいはもう嫌だった。
(あーもう、絶対なんかあるじゃん……)
廊下を歩く。
視線がある。
声はない。
ないくせに、見ている感じだけははっきりある。
昨日の噂が、夜のうちに消えるわけもない。
むしろ一晩寝かせたぶんだけ、人の中で勝手に形を持ちはじめている気がした。
無礼な娘。
空気の読めぬ娘。
それでも、なぜか上に目を留められた娘。
どれもこれも、言われて嬉しいものではない。
めいは口の中だけで小さく舌打ちして、桶を持ち直した。
朝の支度はいつも通り始まる。
水を運び、布を整え、道具の不足がないか見る。
身体を動かしているあいだは、余計なことを考えずに済む。だから、こういう時間はまだましだ。
けれど、その“いつも通り”は長くは続かなかった。
「春宮」
呼ばれて振り向くと、御園が立っていた。
今日も寸分の乱れもない姿だった。
目元の涼しさと、場を一段冷やすような気配も変わらない。
めいは反射で背筋を伸ばす。
「……はい」
「今日は奥書院手前の控え間に入りなさい」
「え」
一瞬、意味がわからなかった。
奥書院手前の控え間。
そこは下働きの者がふらりと近づける場所ではない。上に近い者が出入りし、動きに無駄があればすぐ目につく位置だ。
「なんであたしが」
「人が足りません」
「ほんとに?」
「何か」
すっと細くなる御園の目に、めいは口をつぐんだ。
「……いえ」
人が足りない。
そんなわけがない、とは言えない。
でも、ちょうどよくそこだけ足りなくなるものだろうか、という疑いは消えなかった。
御園はめいをしばらく見ていたが、やがて淡々と続ける。
「控え間の役目は、品の受け渡し、湯の差配、出入りの乱れがないかを見ること。お前一人で全てをするわけではありません。浮き足立たず、手順を守りなさい」
「……はい」
「それと」
御園の声が、ほんの少しだけ低くなる。
「今日は、誰もお前を助けません」
ひやり、とした。
脅しのようでもあり、忠告のようでもある。
そのどちらかを決めきれない声音だった。
御園はそれだけ言うと、もう次の者へ指示を飛ばしていた。
めいだけが、その場に一拍遅れて取り残される。
(いや、怖……)
助けない、とはっきり言われると、逆に“助けられる可能性があった状況”を想像してしまう。
つまり今日は、何かあるのだ。
隣でそのやり取りを聞いていた紬が、小さく息をついた。
「だいぶ露骨ですね」
「やっぱそう思う?」
「思わぬ者はいないでしょう」
さらっと言いながらも、紬の顔はいつもより少しだけ険しい。
「その顔やめて。余計こわい」
「怖がるくらいなら、最初から気を引き締めてください」
「いや引き締めてるし」
「口元が引きつっております」
「それはもう生理現象なんよ……」
言いながらも、めいは自分の手のひらにじわりと汗がにじんでいるのを感じていた。
奥書院手前の控え間は、朝の光すら少し張りつめているような場所だった。
廊下は磨き込まれ、建具は塵ひとつなく、行き交う女中たちの足音もやけに静かだ。
何かが落ちたり、ぶつかったり、声が大きくなったりするだけで、すぐに目立つ。
めいは控え間へ入る前に、そっと息を吐いた。
(だるいとか言ってる場合じゃないやつ……)
中にはすでに二人、先に入っていた。
顔見知りではあるが、親しいわけではない女中たちだ。めいを見るなり、ほんの一瞬だけ目を合わせ、それから何事もなかったように視線を逸らした。
その“何事もなさ”が逆にきつい。
「春宮殿は、こちらの品を」
「……はい」
置かれていた盆に目をやって、めいはすぐに違和感を覚えた。
湯呑の数。
茶器の位置。
添えられた布の折り方。
一見すれば整っている。
だが、よく見ると、片方だけがわずかに使いづらい置き方になっていた。
このまま急いで持てば、手元がぶれやすい。ぶれれば音が鳴る。最悪、湯がこぼれる。
(……うわ、やな感じ)
わざとかどうかはわからない。
だが、昨日の灰のことを思い出せば、偶然で片づけるには気味が悪かった。
「どうかいたしましたか」
向かいの女中が言う。
声は穏やかだが、目が笑っていない気がした。
「いや、別に」
めいはそう返し、何気ないふうを装って布の位置を直した。
ついでに茶器の向きも、指先でほんの少し整える。
たぶん、見ている。
誰かが。
それも一人や二人ではない。
なら、気づいたことを気づかれずに直すしかない。
最初の受け渡しは、どうにか終わった。
息をつく暇もなく、次は湯の差配に回される。
湯桶の重さは見た目よりある。持ち方を誤れば袖口が乱れ、足を急げば音が立つ。
その途中、控え間の外で小さく声がぶつかった。
「遅いわ」
「申し訳ございません」
「その程度も見ておけぬの」
ぴしり、と空気が張る。
若い女中がひとり、顔を青くして立ち尽くしていた。
手元の包みを抱えたまま、どう動けばいいかわからなくなっている。
その先の廊下は、ちょうど人の流れが重なる場所だった。
ここで誰かが止まれば、後ろも詰まる。
詰まれば、次の品が遅れる。
遅れれば、奥の空気が悪くなる。
頭で考えるより先に、めいの目が動いていた。
包みを持った女中。
その後ろの二人。
今まさに曲がってこようとしている盆持ち。
奥から戻る足音。
(あ、これ詰まる)
次の瞬間には、もう身体が前に出ていた。
「こっち、一回置いて!」
抑えた声で言いながら、めいは近くの脇机を引き寄せた。
包みを抱えた女中がはっとして目を見開く。
「でも……」
「いいから、いったん手離して。先に道あける」
包みを机へ置かせ、そのまま半歩横へずらす。
後ろから来ていた盆持ちには顎で合図を送り、先に通す。
戻りの者には袖の動きだけで待つ位置を示す。
一つひとつは大きなことじゃない。
けれど、止まりかけていた流れが、ぎりぎりでほどけた。
めい自身は、そのまま何もなかった顔で湯桶を持ち直そうとして――
「春宮」
低い声に、肩が固まった。
振り向くと、小萩がいた。
いつの間にそこにいたのかわからない。
相変わらず、隙のない顔だった。
「……はい」
「今の動きは、お前の役目でしたか」
「……違います」
「でしょうね」
淡々と返され、胸のあたりが嫌なふうに詰まる。
また余計なことをした、と言われる。
そう身構えた、次の瞬間。
「ですが、止まれば後ろが詰まりました」
小萩は包みを置いた机と、その先の廊下へ一瞬だけ目をやった。
「今回は、まだましです」
それだけ言って、小萩は去っていく。
褒められたわけではない。
認められたとも言い切れない。
けれど、まるきり切り捨てられもしなかった。
めいはその背を見送りながら、じわっと変な汗をかいた。
(“まだまし”ってなに……いやでも今、怒られなかった……?)
心臓に悪い。
控え間へ戻ると、さっきの女中たちの目つきが少しだけ変わっていた。
露骨ではない。けれど、さっきまでの“落ちればいい”みたいな静けさとは違う。
そのとき、次の品が運び込まれた。
今度は菓子皿だった。
季節の意匠が入った繊細な皿で、置き方ひとつにも気を遣う。
めいは受け取ろうとして、ふと手を止めた。
皿の一枚、その縁がほんのわずかに欠けている。
本当に、ほんのわずかだ。
急いでいれば見落とす程度の傷。
けれど、こういう場に出すには足りない。
(は? うそでしょ)
一気に喉が渇く。
これをそのまま通せば、出した者の不手際になる。
めいが運べば、めいの責になる可能性が高い。
だが、今ここで騒げば、それはそれで流れを乱す。
「どうしました」
また同じ声。
穏やかで、少しだけ待っている声。
試されている。
はっきりそうわかった。
めいは皿を持つ指先に力を込めた。
欠けを隠すように持てば、一度はしのげるかもしれない。
でも、それでは先送りになるだけだ。
なら。
「これ、替えがいる」
低く言うと、向かいの女中がわずかに眉を動かした。
「足りますが」
「足りる足りないじゃなくて、欠けてる」
「どこが」
「ここ」
見せると、相手は一拍だけ黙った。
本当に気づいていなかったのか、それとも気づかれたことが誤算だったのか、その顔だけでは読めない。
「急ぎますので」
「だから今替えるの」
めいは思ったよりずっと冷たい声で返していた。
「これ通したほうが面倒になる。今ならまだ間に合うでしょ」
場違いな物言いだと、自分でもわかる。
けれど、変に取り繕っても仕方がない気がした。
一瞬、控え間の空気が止まる。
その沈黙を割ったのは、後ろから来た紬だった。
「替えをお持ちします」
静かな声だった。
助け舟というには、あまりにさりげない。
めいは振り向かなかった。
振り向いたらたぶん、少しだけ安心した顔が出る。
替えの皿はすぐに届いた。
流れはぎりぎりで切れずに済む。
だが、その一件でめいはもう十分にわかっていた。
今日はたまたまじゃない。
最初から、いくつも小さな綻びが置かれていたのだ。
持ちにくい茶器。
詰まりやすい導線。
欠けた皿。
どれも派手ではない。
でも、落ちれば確実に傷になるものばかりだ。
(陰湿すぎるでしょ……)
心の中で悪態をつきながら、めいは次の品を受け取った。
それでも、不思議と昨日ほどのしんどさはなかった。
怖い。
だるい。
帰りたい。
その全部は本当だ。
けれど同時に、昨日よりひとつだけはっきりしたことがある。
自分はただ噂されているだけじゃない。
見られ、測られ、落ちるかどうかを待たれている。
なら、やることは一つだ。
落ちないこと。
昼過ぎ、いったん仕事の切れ目ができたころ、めいは廊下の隅で短く息を吐いた。
「……むり」
「まだ終わっておりません」
すぐ横から飛んできた声に、めいはうわ、と顔をしかめる。
「急に出てこないでよ」
「前からおりました」
「気配けしてたでしょ絶対」
「しておりません」
いつもの調子で返す紬の手には、小さな包みがあった。
「なにそれ」
「指先の布です。先ほど、皿を強く持ちすぎていたので」
「見てたの?」
「見えてしまいました」
差し出された布を受け取って、めいは一瞬だけ黙る。
自分でも気づかないうちに、指先に力が入っていたらしい。
見れば、爪の先の剥がれたネイルが、今日はいっそうみすぼらしく見えた。
紬がそこへ視線を落とす。
「……ずいぶん、薄くなりましたね」
「なにが」
「その、爪の色です」
めいは手を引っ込めかけて、やめた。
「あー……まあ、そりゃね」
「最初に見たときは、もっとはっきりしておりました」
「最初」
「ええ。ここへ来たばかりのころ」
紬の声は静かだった。
問い詰めるでもなく、ただ事実を置くような響き。
「今は、まるでこちらの水や布で少しずつ削られたみたいです」
その言い方が妙に胸に刺さって、めいは笑おうとして失敗した。
「なにそれ。やめて、ちょい怖い」
「怖がるところでしたか」
「そこはわりと」
軽口で返した、そのときだった。
ふっと、鼻の奥に冷たい匂いが走る。
薬品のような。
乾いた白さを持つような。
大奥にはあるはずのない匂い。
視界の端が、ひどく白くなった気がした。
白い、天井。
つるりとした壁。
一定の間で鳴る、電子音。
ぴ、……ぴ、……ぴ、……
「――っ」
息が詰まる。
「春宮?」
紬の声で、はっと現実へ戻った。
そこにあるのは白い天井ではなく、木の天井だ。
障子から差す昼の光と、磨かれた廊下。
薬品の匂いも、もうない。
「……だいじょぶ」
自分でもわかるくらい、声がかすれていた。
「大丈夫な声ではありません」
「でも倒れてないし」
「倒れねばよいというものでは」
紬が眉をひそめる。
その顔を見ていると、変に本当のことを言いそうになるから困る。
怖かった。
いまのは、ちょっと本気で。
けれど、まだ言葉にしたくなかった。
言葉にした瞬間、それが本当に“自分の中にあるもの”として固まってしまう気がして。
めいは布を握って、小さく息を吐いた。
「……あとで平気になるから」
「そうやって平気になるものですか」
「なる。たぶん」
“たぶん”がついた時点で、全然平気じゃない。
自分でもわかっていた。
それでも紬は、それ以上は聞かなかった。
「では、せめて水を」
「ん」
「あと、次の品運びは私が半分持ちます」
「え、助けてくれるじゃん」
「半分だけです」
「そこケチる必要ある?」
めいがそう言うと、紬はほんの少しだけ目をやわらげた。
その小さなやり取りだけで、胸のざわつきが少しだけ引く。
午後の仕事は、朝よりも慎重に進んだ。
もう何が来ても驚かない、とは言えない。
けれど、少なくとも“ある”前提で見れば、見えるものは増える。
わずかな置き方の違和感。
人の流れの偏り。
黙って押しつけられる不備。
それらをひとつずつ拾い、直し、避け、どうにか最後まで大きな乱れなく持ちこたえた。
夕刻、すべてが終わったときには、脚が棒のようだった。
控え間を出るめいの背に、不意に声が落ちる。
「春宮」
御園だった。
振り向けば、相変わらず何を考えているかわからない顔で立っている。
「……はい」
「今日は転びませんでしたね」
それだけだった。
褒めてもいない。
労ってもいない。
ただ結果だけを見て言っている。
なのに、めいの胸の奥には妙にその言葉が残った。
「……転ばせる気、あった?」
「どうでしょう」
御園は涼しい顔で言う。
「ただ、お前が見られる者である以上、誰もが手を貸すと思わぬことです」
「感じ悪……」
「よく覚えておきなさい」
その声は厳しい。
厳しいが、投げ捨てる響きではなかった。
「目を留められるというのは、好かれることではありません。値打ちを量られることです」
めいは、少しだけ目を見開いた。
御園はそれ以上は何も言わず、去っていく。
あとには、薄く暮れはじめた廊下の光だけが残った。
値打ちを量られる。
その言葉が、じわじわと身体に沈んでいく。
部屋へ戻っためいは、座るなりそのまま壁にもたれた。
「……っはー……無理……」
ほんとうに無理だった。
気疲れで頭が重い。指先はまだ少し震えている。
膝を立て、その上に腕をのせる。
視線の先にある自分の爪は、今日もまた少しだけ色あせて見えた。
渋谷にいたころの自分。
ここにいる自分。
そのあいだにある、白い壁と電子音。
全部が同じ一本の線の上にある気がするのに、まだ全然つながらない。
でも、今日ひとつだけわかった。
大奥は、ただ厳しいだけの場所じゃない。
優しい顔で落としにくることもある。
黙ったまま、できるかどうかを見てくることもある。
そして、自分はもう、その視線の外には戻れない。
めいは剥がれかけた爪先を親指でなぞり、小さくつぶやいた。
「……やっぱ、だる」
けれど、そのあとでほんの少しだけ口元が動いた。
「でもまあ……今日のあたし、ちょっとよくやったくない?」
誰もいない部屋で、自分にだけ聞こえるように言う。
強がりでも、慰めでもよかった。
そうでもしなければ、やっていられない日というのはある。
障子の向こうでは、夜の気配が静かに深まっていく。
その静けさの奥で、もう次の波は動き出しているのかもしれない。
上から見る者。
下から試す者。
やわらかく笑いながら近づく者。
めいはまだ知らない。
自分に向けられる目が、ひとつでは済まなくなることを。
ただ、その入り口に、今日たしかに立ったのだった。




